3.1 財政危機の兆候
愛のない“白い結婚”と、夫・ライナーが抱える愛人の存在。その二つの苦悩に苛まれながらも、セレナーデは決して自分を卑下することなく、少しずつ行動を起こし始めていた。
伯爵夫人となってから、彼女は屋敷の管理や経理の書類に目を通す機会を得ていた――もともとは「夫人としての務め」を果たすためにライナーから形式的に与えられた仕事だったが、ライナー自身はまったく口を出そうとはしない。むしろ「好きにしていろ」という態度で放置しているように見える。
しかし、セレナーデにとっては好都合だった。彼女は幼いころから受けてきた教育に加え、ピアノの練習のかたわらで知識欲旺盛に本を読みあさっていた時期がある。特に数字や記録を扱う作業は嫌いではなかった。書類の整理整頓を進めるうち、セレナーデはある重大なことに気づく。
――ランドール伯爵家の財政状況は、驚くほど不安定だ。
決して貧困に陥っているわけではないが、収入に対して支出が異様に大きい。屋敷の維持費、馬車や使用人の賃金、さらには社交界での交際費など……貴族としての「体面」を守るため、相当な金額を湯水のごとく費やしている形だ。そもそもライナーの父親が生前に作った負債もあり、貴族の中ではかなり危うい部類に入る。
セレナーデが詳細を調べれば調べるほど、“伯爵家”としての名声と地位がいかに不安定な基盤に支えられているかが浮き彫りになっていった。そしてもう一つ、彼女を驚かせる事実があった。ライナーは外部の金融業者だけでなく、王宮筋や他の貴族筋からも多額の借金をしているらしい。利息はまだ支払えているものの、期限が延びるたびに利子が増えていく。
「こんなこと、どうして誰も止めなかったの……?」
セレナーデは思わず独りごちる。いや、正確には止められたはずだ。だが、ライナーの権威や面子を恐れて、使用人たちが黙っていたのだろう。もともとライナーは冷淡で近寄りがたく、意見を進言できる雰囲気ではない。
さらに、セレナーデには心当たりがあった。ライナーが愛人を囲うのも、豪華な晩餐会で見たあの黒髪の女に散財しているのも、すべては彼の“虚栄心”と“傲慢さ”ゆえなのではないか。
――ならば、この財政的な危機は、セレナーデにとって大きな“切り札”になるかもしれない。
愛のない結婚を解消するにしても、あるいは離婚という手段を取るにしても、ただ訴えるだけでは自分が不利になる可能性が高い。女性にとって離婚は大きなリスクを伴い、社交界での立場を失う恐れもある。だが、夫の財政破綻を利用し、彼が追い込まれた瞬間をつかめば逆転の芽が生まれるかもしれない――。
セレナーデは目を伏せる。これまで清らかに育ってきた彼女にとって、策を巡らせて他人を陥れるなど容易なことではない。だが、このままでは自分の人生は永遠に拘束されたままだ。侮られて踏みにじられ続けるなら、それ相応のやり方で反撃するしかない。
> (ライナーの懐には、愛人以外にも何か裏があるかもしれない。調べればまだ手掛かりが出てくるはず……)
静かに沸き立つ決意を胸に、セレナーデはさらなる“秘密”を探すべく、伯爵家の書類や帳簿を読み解く作業を続けていった。
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3.2 協力者レオンの誓い
数日後、セレナーデは屋敷の庭にあるサロンでピアノを弾いていた。やや激しさを帯びた曲調が、彼女の内面にある焦燥や怒りを代弁しているかのようだ。
演奏を終えたあとも、心臓の鼓動は速まったまま。ライナーの行動、愛人の影、財政の危機――頭に浮かんでは、セレナーデの心を乱していく。
すると、サロンの扉が軽く開き、レオンが顔をのぞかせた。彼は相変わらず穏やかな表情だが、その瞳にはセレナーデを気遣う優しさがにじんでいる。
> 「……ごめんね。勝手に入って。演奏が聞こえたから、つい耳を傾けてしまって」
セレナーデは首を振る。むしろ彼の存在はありがたかった。レオンはこのところ、屋敷の庭園や建物をスケッチするという名目でたびたび訪れており、セレナーデと顔を合わせる機会も増えている。
彼がいてくれるときだけが、セレナーデにとって安息のひとときだった。自分の弱みを少しだけ見せられる存在がいることで、なんとか精神の安定を保っていられるのだ。
> 「大丈夫、かしら。きみ、ずいぶんつらそうだね」
レオンがそっと近づき、切なげな眼差しを向ける。セレナーデはピアノの蓋を静かに閉じ、少し逡巡してから言葉を口にした。
> 「実は……ライナーの財政について調べているうちに、いろいろわかってしまったの。伯爵家は危ない橋を渡っているわ。それでも、彼は浪費をやめそうにない。愛人を囲って、裏で何を企んでいるのかも見当がつかない」
レオンは驚いた様子もなく、真剣に耳を傾ける。どうやら、伯爵家が危うい状況にあるのは彼も薄々感じ取っていたようだ。
> 「それで、きみはどうするつもり?」
セレナーデは答えに詰まる。どうする、というより、どうにかしなければ未来がない、というのが正直なところだ。愛人の存在を公にするだけでは、まだ決定打に欠ける。ライナーが追い込まれ、自滅せざるを得ない状況を作り出さなければ、セレナーデ自身が逆に圧力をかけられる可能性もある。
> 「私は……あの人を、ただ終わりにしてやりたいわけじゃない。自分の人生を取り戻したいだけ。彼のやり方で傷つけられ続けるなんて、もう耐えられない。もし、これを口にしたらレオンには呆れられるかもしれないけど……どうしても、私は……」
そこまで言いかけたところで、言葉が詰まる。血の通わない政略結婚。妻を顧みず、愛人と奔放に過ごす夫。そして伯爵家の名誉を“体面”という鎧でしか保てない状況。
すると、レオンは決然とした表情を浮かべ、セレナーデの手をそっと包み込んだ。
> 「セレナーデ、ぼくはきみが望むなら、どんなことでも協力したいと思ってる。ぼくの立場は貴族ではないし、大きな権力も持っていない。だけど……きみが抱える悲しみを見過ごすことはできないんだ」
揺るぎない瞳からは、誠実な決意が伝わってくる。セレナーデはその気持ちに胸が熱くなると同時に、戸惑いも覚えた。画家という身分のレオンが、これ以上首を突っ込めば危険に巻き込んでしまうかもしれない。
それでも、彼の思いは尊く、セレナーデにとっては何よりも心強かった。
> 「ありがとう……レオン。あなたの存在がなかったら、私はここまで強くなれなかったと思う」
そう言って微笑むセレナーデの瞳に、淡い涙が滲む。レオンは言葉を交わさずに、そっとその涙を受け止めるかのように寄り添い、手を離さなかった。
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3.3 味方を増やすための小さな戦略
セレナーデが次に取り組んだのは、屋敷の使用人たちとの関係を密にすることだった。以前は彼女自身が落ち込んでいて、あまり周囲に気を配る余裕がなかったが、今は違う。ライナーから酷い仕打ちを受け続けるばかりではなく、まずは身近な人々を味方に引き込み、自分の立場を少しでも強固にする必要がある。
屋敷の使用人たちは、実のところセレナーデに同情的だった。彼女がライナーに冷遇されていることは周知の事実だし、伯爵家の財政危機を把握している者も少なくない。だが、誰もライナーには口出しできず、ひそかに眉をひそめるだけだった。
そこでセレナーデは、使用人一人ひとりに声をかけ、ささやかな労いの言葉をかけたり、体調を気遣ったり、時には作業を手伝ったりといった小さな心配りを積み重ねていった。さらに、敷地内の古い倉庫に保管されていた装飾品やガラクタを整理し、転用できそうな物品をリスト化するなど、屋敷の管理に本腰を入れる。
すると使用人たちは次第にセレナーデを「無力な飾りの伯爵夫人」とは見なさなくなり、心を開き始める。
あるとき、メイド長がセレナーデを見つけるや否や、敬意を込めて深く礼をした。
> 「セレナーデ様、いつもお気遣いありがとうございます。伯爵様は私どもに厳しく、時に理不尽な命令を下すことも多うございますが……こうしてお優しく接してくださるのが救いでございます」
セレナーデは優しく微笑み、メイド長の手を取った。
> 「私からもお願いしたいことがあるの。伯爵家の状況を、もし少しでも詳しく知っているのであれば教えてほしいわ。どんなに些細なことでも構わないの。使用人の皆さんの口から聞こえてくる噂話や、伯爵様の行動パターンなど……何か知らないかしら」
メイド長は少し戸惑いながらも、使用人たちが知っている範囲で情報を提供してくれた。愛人が深夜に裏口から来訪していること、ライナーが屋敷の金庫を自由に使っていること、時折外出先で大金を落としてくることなど……。セレナーデがすでに把握していることも多いが、細かな日付や金額、愛人とのやり取りのタイミングなど、生々しい情報が次々と出てくる。
(やっぱり……想像以上に浪費が激しいし、堂々と愛人を呼び入れているのね)
使い果たされた金がどこへ流れているかを正確につかめれば、いずれライナーを追及する際に大きな武器となる。セレナーデはすべての情報を記憶し、必要に応じてメモに残した。
かくして、セレナーデは屋敷の内部から少しずつ味方を増やし始める。表だってライナーに逆らうことはできなくても、セレナーデを慕う使用人は増え、彼女の指示を率先して聞いてくれるようになった。この“小さな親切”と“丁寧な関わり”こそ、セレナーデがまず習得した「戦略」だった。
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3.4 ライナーの侮りと自滅への足音
セレナーデの動きなどまったく気にも留めていない――そう思えるほど、ライナーの態度は相変わらず冷淡だった。いや、正確には“侮っている”のだろう。まさかセレナーデが自分に反旗を翻すなど、ライナーは夢にも思っていない。
いつものように、ライナーは朝食の時間に姿を見せず、使用人を呼びつけて寝室で簡単な食事を摂ったかと思うと、愛馬に乗ってどこかへ出かけていく。夕方に帰宅すれば、書斎にこもりきりで、セレナーデと顔を合わせることはほぼない。夜には愛人を呼び入れて密かに逢瀬を楽しむことすらある。
しかし、そのような傲慢な日々がいつまでも続けられるはずがない。浪費と放漫経営のツケは、確実に伯爵家を蝕んでいた。
ある夜、セレナーデが就寝前に屋敷の廊下を通りかかると、書斎の扉が半開きになっているのに気づいた。そこから漏れる声はライナーと誰か別の男性――おそらくは金融業者か何かだろう。耳を澄ますと、かなり深刻なやり取りが行われているのがわかった。
> 「……返済の期日が迫っている。延期はできないと言ったはずだ。これ以上猶予を求めるなら、利息も倍以上になる。わかっているのか、伯爵?」
> 「うるさい、そんなことは承知だ。こっちにも都合というものがある。今すぐどうにかするのは無理だと言っているだろう」
ライナーの苛立った声と、金融業者の怒号が混じる。セレナーデは足音を殺しながら物陰に隠れ、その会話を盗み聞きする。どうやら、ライナーは期限を迎える借金の返済に困っているようだ。業者の要求は厳しく、ライナーは追い込まれた様子を隠せない。
結局、押し問答の末、金融業者は「支払いが滞れば、伯爵家の名誉に関わる」と捨て台詞を残して出ていった。書斎の扉がバタンと閉められ、静寂が戻る。
> (やっぱり、限界が近いのね……)
セレナーデは息を呑む。伯爵家の名を借りて高額な借金を重ねてきたライナーだが、もはやそれも限度が来ている。もし返済が滞れば、一気に噂が広まり、伯爵家が没落するのは時間の問題だ。
一方で、ライナーはまるで自分の首を絞めるかのように愛人との生活を優先し、虚栄を張り続けているのだ。これでは破綻が早まるばかり――そう、セレナーデは確信する。
しかし、このまま破綻してはセレナーデ自身も連座してしまうかもしれない。もとより政略結婚である以上、ライナーが没落すれば、セレナーデは名誉も家柄も簡単には守れなくなる。彼女がただの「捨て駒」にされる可能性だって大いにある。
だからこそ、セレナーデは“自分の手”でライナーを追い詰め、そのうえで自らの道を切り開く必要があった。相手が倒れ込むまで待っていては、不測の事態で巻き込まれるだけだ。
書斎の扉が再び開く音がして、ライナーが荒々しい足取りで出ていく。彼の表情は苛立ちと焦燥で歪んでいたが、すれ違ったセレナーデにはまったく気づかない。つまり、彼女の存在をまるで意識していないのだ。
――それは、セレナーデにとって好都合でもあった。彼が妻を軽視している限り、彼女はいくらでも暗躍できる。屋敷の内側から情報を集め、使用人を味方につけ、ライナーの弱点を握る準備を進められる。
セレナーデは胸の奥に冷たい決意を宿し、そっと微笑む。温厚だった彼女の中で、はっきりとした“復讐心”が輪郭を持ち始めていた。
> (私が何も知らないと思い込んでいるうちは、まだ余裕ね。あの人がもがき苦しみ始めたときこそ、私の出番……)
こうして、セレナーデの“復讐の序曲”は幕を開けた。純白のウェディングドレスを纏った日から始まった、愛のない結婚。やがてそれは、周囲を巻き込む大きな旋律となって伯爵家を揺るがし、ライナーを破滅へと導いていく。
そして、その旋律の先に待つのは、セレナーデが切り開こうとしている“真の自由”と“自分らしい未来”だった。彼女はもう二度と、誰かの道具として生きるつもりなどなかったのである。
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