4.1 愛人の妊娠がもたらす波紋
ライナー・ランドール伯爵は、相変わらず浪費と愛人との逢瀬を続けながら、財政危機の深刻さを見ようともしなかった。
その一方で、セレナーデは屋敷の使用人から得た情報を丁寧に整理し、借金返済の期日がいつ到来するのか――正確な数値と時期を把握していた。ライナーが滞納すれば、一気に屋敷が差し押さえられる可能性もある。しかし、セレナーデはただ待っているつもりはなかった。「白い結婚」の檻から抜け出し、彼の身勝手な行いを“ざまぁ”と嗤ってみせるためにも、決定的な一撃が必要だ。
そんな折、衝撃的な噂が広まる。
「ライナー伯爵の愛人が妊娠したらしい」
この噂は、使用人の囁きからスタートし、やがて社交界をじわじわと駆け巡っていく。セレナーデの耳に入ってきたのは、屋敷に出入りする仕立て屋が、愛人とその取り巻きと思しき女性数名が密談しているのを立ち聞きしてしまった――という話だった。
「あの黒髪の女はリリスというらしい。伯爵様の子どもを身籠ったと、得意気に話しているそうです」
メイド長が申し訳なさそうに報告してきたとき、セレナーデは胸の奥で静かに憤怒が燃え上がるのを感じた。ライナーは借金問題で火の車にもかかわらず、さらなるスキャンダルを招くような愚行を続けているのだ。
(まったく……どれだけ私を踏みにじれば気が済むの?)
裏を返せば、これはセレナーデにとって絶好の機会でもあった。もし本当に愛人との間に子どもができたのなら、その事実は社交界では重大な醜聞として扱われる。正妻であるセレナーデを差し置いて、愛人に子どもを生ませるなど言語道断。ライナーの評判は地に堕ち、財政問題も相まって伯爵家を支える地盤は一気に崩れ去るだろう。
しかし、ライナーはまだこの噂を公には否定も肯定もしていない。あるいは自分の体面を守るため、リリスを黙らせようとしているのかもしれないし、あるいは金で解決できると思っているのかもしれない――どちらにせよ、彼の独断専行を許せば、セレナーデもろともスキャンダルの渦に巻き込まれる危険がある。
(彼がこれ以上、私の人生を踏みにじるなら……遠慮しないわ)
セレナーデは決意を新たにする。いずれ、自分から“離婚”を切り出す時が来る。その瞬間が訪れたときのために、彼女はあらゆる準備を怠らないつもりだった。
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4.2 激化するスキャンダルと別離の決意
愛人の妊娠疑惑が取り沙汰される中、ライナーは社交界の場にも顔を出しづらくなっていった。噂好きの貴婦人たちの視線が痛いらしく、彼は晩餐会や舞踏会の招待を次々に断る。
ところが、社交界の潮流というものは、ときに無慈悲に動く。あれほど名門と言われていたランドール伯爵家が借金に苦しんでいるうえ、愛人を妊娠させた――という二重のスキャンダルは、みんな格好の酒の肴にしたがる。どこへ行っても「伯爵様はどうなさったのかしら」「正妻のセレナーデ様はお可哀想に」と囁かれる。
セレナーデ自身も、かねてより訪問を約束していた貴族の集まりに出席した際、何度となく同情と好奇の目を向けられた。
「まあ、セレナーデ様、こんなことをお聞きするのは無粋かもしれませんけれど……伯爵様が本当に愛人との間にお子を?」
そう問いかけてくる婦人には、セレナーデも上品に微笑み返し、「あら、わたくしは何も存じませんの。夫婦とはいえ、互いに干渉しすぎないのが我が家の流儀ですから」と受け流す。
しかし、その内心は決して穏やかではなかった。伯爵夫人として表向きは沈着を装いつつ、セレナーデは早急に“離婚”へのレールを敷かねばならないと痛感する。すなわち、自分がただの被害者・犠牲者ではなく、主導権を握ってライナーとの縁を断つのだ。そうしなければ、この状況を逆手に取ることはできない。
そしてある晩、ライナーが酔った様子で屋敷に戻ってきた。書斎に駆け込むと、大声で使用人を怒鳴り散らし、荒れている様子が廊下まで聞こえてくる。
セレナーデは使用人たちの動揺を抑えるため、自ら書斎へ足を運んだ。ドアを開けると、ライナーは机に拳を叩きつけ、顔を真っ赤にしている。
> 「なんだ、貴様か……まさか俺を責めに来たのか?」
酔いながらも、彼の瞳には敵意が宿っていた。セレナーデはドアを閉め、静かに向かい合う。
> 「責める? あなたが何をしているかは存じませんが、屋敷の中ではもう少し静かにできませんか。使用人たちが怯えています」
ライナーは椅子から立ち上がり、セレナーデを睨みつける。その顔は憔悴の色が濃く、相当なプレッシャーに苛まれているのだろう。愛人リリスの妊娠騒ぎ、借金返済の迫り、社交界での醜聞……。
「俺を見下すな、貴様ごときが……」と、彼は何か言いかけたが、次の瞬間、足元がもつれてバランスを崩した。激しい酔いのせいか、棚に肘をぶつけてそのまま倒れ込む。セレナーデは一瞬手を伸ばしそうになったが、ライナーは彼女を振り払うようにして床に倒れ込んだ。
「……あなたが何をどうしようが、私にはもう関係ありません」
セレナーデは感情を抑えるようにゆっくり言った。強い口調ではなく、それでもはっきりとした拒絶を示す言葉。ライナーは額に冷や汗をにじませながら、呆然と彼女を見上げた。
> 「お前、何を言って――」
> 「私には私の人生があります。あなたとこの屋敷を守るために、これまで必死になろうとしたこともありました。でも……もういいんです。あなたが滅びようと、生き残ろうと、それはあなた自身の問題。私はここを出て行きます」
強烈な宣言だった。ライナーは驚愕の表情を浮かべるが、酔いに任せているせいか、何の言い返しもできない。逆上するでもなく、むしろ困惑したまま息を荒げている。
セレナーデはそんな彼を冷たく見下ろし、ドアを開けて書斎を後にした。そこに愛や情などは微塵も存在しない。ただ静かな覚悟が、彼女の背筋を伸ばしていた。
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4.3 新しい未来を奏でるための準備
書斎から出た後、セレナーデは屋敷の廊下を足早に進み、自分の部屋へと戻る。今の言葉どおり“出て行く”と宣言したからには、実際にその準備を進める必要がある。
もっとも、ただ荷物をまとめて家を飛び出したところで、行く宛てがなければ意味がないし、離婚手続きも法的には簡単ではない。ましてや貴族の離婚となれば、家同士の利害が絡む。書類を整え、裁判所に申し立てる手順が必要で、それなりに時間がかかるのが現実だ。
しかしセレナーデは、そのどれも「やり遂げるつもり」でいた。父や母が何を言おうとも、政略結婚で無理やり縛られた人生を放棄することにためらいはなかった。
そんな彼女の背中を押してくれる存在が、レオン・コラールだった。
あの日以来、セレナーデはレオンに少しずつ“本心”を打ち明けている。彼は表向きは画家として穏やかに暮らしているが、実は貴族の家柄とも縁があるらしく、法律や社交界の慣習にも一定の知識を持っていた。必要な書類や離婚に向けての段取りなど、要点をわかりやすく説明してくれる。
「君が本気で離婚を考えているなら、ぼくは全力でサポートする。伯爵家という壁は大きいかもしれないけど、今の状況なら“ライナーが不義を働き、借金も抱えている”っていう決定的な要因がある。きっと法廷でも有利に働くだろう」
レオンの励ましに、セレナーデは素直に感謝した。屋敷の外に出れば世間の風は冷たいかもしれないが、自分を理解してくれる人がいることが、どれほど心強いか。
また、セレナーデには“ピアノ”という特技がある。これまで「貴族のたしなみ」としてしか扱われなかったが、彼女は幼いころから真剣に音楽に打ち込んできた。もしかすると、貴族を辞めたとしても演奏で生計を立てる道が拓けるかもしれない――そう夢想するだけでも、胸が少し弾んだ。
「自由になったら、私は思う存分、ピアノを弾きたいわ。そして、聞いてくれる人たちに私の音を届けたい。そんな生活ができるなら、どんなに幸せか……」
セレナーデがそう呟いたとき、レオンは「ああ、きっとできる。きみの演奏には、人の心を動かす力があるよ」と微笑んだ。その言葉は決して単なる慰めではなく、レオン自身が感じている真実なのだと彼女は信じている。
だからこそ、セレナーデは一連の“手続き”に向けて着々と準備を進めていた。具体的には次のようなステップを想定していた。
1. 確固たる証拠の収集
ライナーが抱える借金額や契約書、愛人との逢瀬や妊娠疑惑の証拠。使用人の証言や、目撃例をまとめ、いざというとき裁判所に提出できる状態にする。
2. 家族(グラシア侯爵家)への通知
父や母は政略結婚を推し進めた張本人だが、それでもセレナーデが正式に離婚手続きを進める段階となれば、無視はできないだろう。反発されるかもしれないが、セレナーデにはもう譲る気はない。
3. 当面の生活費や拠点の確保
セレナーデは自分の嫁入り道具や、結婚祝いとして持参した資産の一部をすでに分散して保管していた。さらに、レオンの知人を通じて、小さな住まいを借り受ける算段もついている。
これらをまとめて「いつでもこの家を出られる」状態へと整えていくのだ。伯爵家の財政破綻が本格化する前に――そう、まさに今が勝負のときだった。
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4.4 引き裂かれた夫婦の終焉と、新たな一歩
そして、ついにセレナーデは決定的な一手を打つ。
あれから幾夜か過ぎ、ライナーは相変わらず借金の督促に悩まされ、愛人リリスとの関係も不安定らしく、屋敷の中ではさらに不機嫌さを増していた。愛人が「妊娠したのだから責任を取ってほしい」と迫っているのか、あるいは金銭トラブルなのか――いずれにせよ、ライナーの顔に余裕などは微塵もない。
ある朝、セレナーデは正面玄関で帰宅しようとするライナーを待ち構えていた。夜通し外で何をしていたのか、彼の身なりは乱れ、目は血走っている。彼女を見つけるなり、苛立ちを隠さぬまま叫んだ。
「なんだ、お前がこんなところで待ち伏せなんて珍しいな」
セレナーデは冷静な表情で口を開く。
> 「離婚しましょう、ライナー。あなたと私は、もう夫婦を続ける理由がありません」
一瞬、玄関ホールの空気が凍りついた。使用人たちも足を止め、息を呑む。ライナーは唖然とし、何か言い返そうと口を開くが、セレナーデは続けざまに言葉を放つ。
> 「あなたが裏で抱えている借金、愛人との密会、それに妊娠騒動……すべての証拠があります。わたくしが離婚を望むだけなら、ただの感情論かもしれない。でも、これだけ不義が重なれば法廷でも十分に事足りるでしょう。
あなたはもう、私を愛していない。私もあなたを愛していない。そのうえで、あなたが私を裏切り、財政を危うくし、そして社交界でも醜聞を撒き散らすならば――私がここに留まる必要は一切ありませんわ」
ライナーは青ざめた顔で、「お前には離婚なんてできない、どれだけの手続きが要ると思っているんだ」とどもりながら言い返す。しかし、セレナーデの覚悟は揺るがない。むしろ、彼女はすでに書類を整えており、弁護士のような人物を通じて正式な離婚調停を申請する直前だった。
「あなたには借金もある。もし私が訴えれば、愛人の妊娠スキャンダルを含めて大きく責任を問われることになるわ。おそらく社交界にも居場所はなくなるでしょう。それでもしがみつきたいのならどうぞ。でも私は、もう二度とあなたに従わない」
淡々と告げるセレナーデの瞳には、一切の迷いがない。ライナーはその圧倒的な気迫に気圧されたように、ぎこちなく口をつぐむ。愛人にも逃げられる可能性がある今、彼に残された選択肢は少ない。
その場では何も決まらなかったが、翌日、ライナーは形ばかりの「離婚同意書」にサインをした。自らを取り巻く借金問題と愛人の妊娠スキャンダル、そしてセレナーデが握る証拠により、もはやどこからも援助を得られないことを悟ったのだろう。最後のプライドが砕け散ったライナーは、俯き加減に筆を動かす。
> 「……ふん、好きにしろ。お前なんか、いてもいなくても同じだ」
吐き捨てるような言葉に、セレナーデは静かに首を振った。
> 「そうね。今までずっと、あなたは私を“いてもいなくても同じ存在”として扱ってきたもの。これからは、あなたのいないところで私は生きていきます。あなたも、お好きになさって」
その言葉を最後に、セレナーデは淡々と荷物をまとめ、使用人たちに別れの挨拶をした。使用人たちは深い感謝と共に、彼女を涙ながらに見送る。セレナーデがいなくなった後の伯爵家がどうなるのか――誰の目にも火を見るより明らかだ。
すでに金融業者も押し寄せ、ライナーが払いきれない借金の連帯保証人とのトラブルが起きている。愛人リリスも妊娠をちらつかせ、金を引き出そうとしているという噂が絶えない。ライナーにとっては破滅の淵だが、セレナーデが気遣う義理はもはやない。
こうしてセレナーデは、白い結婚という名の檻を抜け出した。かつて真っ白なウェディングドレスを纏った結婚式の光景は虚飾に過ぎず、今、彼女はまったく違う意味で「純白の自由」を手にしている。
屋敷を後にしたセレナーデを迎えに来てくれたのは、レオンだった。彼は馬車を用意し、セレナーデの荷物を丁寧に積み込む。馬車の中でふたりきりになると、レオンはそっとセレナーデの手を握った。
> 「……大丈夫? きみがどれだけ辛い思いをしてきたか、ぼくには想像しきれない。でも、これからはきみの選んだ道を歩いていいんだよ。ぼくはずっと、きみのそばにいる」
セレナーデはほろりと涙をこぼし、レオンの胸に顔を埋める。激闘を乗り越えたあとの安堵感と、これから始まる新たな人生への期待がないまぜになり、静かに嗚咽が漏れた。
白い結婚で刻まれた痛みは簡単に消えないかもしれない。だが、その痛みこそが、彼女に本当の強さと自由を与えてくれた。これからは、縛られた飾り物の人生ではなく、自分の意志で愛を見つけ、夢を追い求める人生を歩むことができる――。
馬車は屋敷の門を越え、ゆっくりと動き始める。セレナーデは涙を拭い、窓の外に広がる景色を見つめた。その先にあるのは、どんな未来だろう。まだ見ぬ道は長いが、彼女の心には確かな音が響いている。自由へと続く旋律が、胸の奥で優しく力強く鳴り始めるのを、セレナーデははっきりと感じていた。
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