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第5話 真実の愛の歌





5.1 社交界を揺るがす離婚報道


 「セレナーデ・グラシアがライナー・ランドール伯爵と離婚した」

 この知らせが社交界を駆け巡るのに、そう時間はかからなかった。

 名門侯爵家の娘と伯爵家という華やかな取り合わせであったにもかかわらず、わずか数か月ほどで破局に至った事実は衝撃的だったし、ましてや“愛人の妊娠騒動”や“借金問題”などのスキャンダラスな事情が絡んでいるとあれば、人々の好奇心はいやが上にも高まる。

 実のところ、セレナーデを哀れむ声も少なくなかった。もともと伯爵家の内情を多少なりとも知っていた貴族たちは、「あの伯爵のことだ、いつかこうなるとは思っていた」という人もいれば、「セレナーデ様が気の毒すぎる。どうやって今後を生きていくのかしら」と憂慮する人もいた。

 しかし蓋を開けてみれば、セレナーデが離婚を主導し、“離婚同意書”をライナーに叩き付け、堂々と屋敷を出ていったという事実が次第に知れ渡っていく。

 「お可哀想に」ではなく、「むしろ立派ではないか」と称賛の声を上げる者も出始めた。特に女性たちの間からは、「あのライナーの仕打ちに耐えかねて離縁を決断したのなら、よくやったわ」「あそこまで生き生きと自由を勝ち取りに行くなんて、尊敬するわ」という声さえ聞こえてくる。


 一方、ライナーの評判はまさに地に落ちていた。借金漬けの財政破綻寸前で、愛人を妊娠させた挙句、正妻をないがしろにした報いなのだから無理もない。かつては彼の取り巻きだった者たちも、今はほとんどが距離を置き始めていた。

 「伯爵家」という看板だけでは、もはや支えきれないほどの不祥事。名声も信頼も、もろく崩れ去る。“伯爵”という貴族の肩書はまだ消えていないものの、持ちうる地位はほとんど形骸化したに等しかった。



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5.2 没落するライナーと愛人リリスの裏切り


 それからほどなくして、ランドール伯爵家の屋敷に金融業者が差し押さえの手続きにやってきた。ライナーが返済期限をとうに過ぎてもなお、借金の大半を支払えなかったためだ。

 高級家具や装飾品は次々と運び出され、屋敷には剝き出しの床と壁だけが残る。かつての豪奢な面影は幻のように消え失せ、ガランとした空間が、ライナーの没落を物語っていた。使用人たちもほとんどが解雇され、その多くはセレナーデの人柄に好意を抱いていたため、「もうここに用はない」とばかりに去っていった。

 追い打ちをかけるように、愛人リリスとの関係も破綻する。表向きは「妊娠」と言われていたが、それが本当にライナーの子であるかは曖昧で、リリスはリリスで別の貴族から金を巻き上げようとしているという噂があった。彼女はついに金にならないと見るや、ライナーの元を見限り、ほとんど逃げるように消えてしまう。

 必死でリリスにすがろうとするライナーの姿を目撃した使用人の証言によれば、彼女は冷たくこう言い放ったらしい。

 「今のあなたに私を養う力なんてないでしょう? 私もお腹の子の父親が誰かなんて確信はないの。悪いけど、利用価値がなくなった男に付き合ってるほど暇じゃないわ」

 ライナーは金も地位もなくし、愛人にも逃げられ、ただ一人広すぎる屋敷に取り残される。いや、屋敷さえ近々差し押さえられる可能性が高い。社交界の場で話題になるのは、「あの伯爵の末路がどうなるか見ものだ」という下衆な興味だけだ。

 かつては傲慢な態度をとっていたライナーだが、今や彼を擁護する者は皆無である。まさに“自業自得”――破滅への道を突き進んだ結果と言えよう。セレナーデを軽んじ、蔑ろにしてきたツケを払わされているに過ぎない。


 この悲惨な状況を目の当たりにしても、セレナーデは微塵も同情しなかった。情報だけは使用人やメイド長の伝手で知っていたが、あえて会いに行くこともない。彼女の心には「ああ、やはり予想通りだった」という冷えた感想しか浮かばないのだ。



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5.3 自由を掴んだセレナーデとレオンの創造の世界


 一方、セレナーデは離婚成立後、レオンの紹介で借り受けた小さな住まいに移り住んでいた。そこは以前、彼の芸術仲間がアトリエとして使っていた場所を改装したもので、建物自体は質素ながらも大きな窓があり、採光が良く、風通しもいい。

 幼少期から「侯爵令嬢」として豪奢な暮らしをしてきたセレナーデにとっては、決して恵まれた環境とは言えないが、それでも彼女は久しぶりに深い安堵を味わっていた。何より、ここには誰かの命令や束縛がない。自分の意思で起き、自分の意思で行動する――そんな当たり前のことが、どんなに幸せかを思い知る日々だった。

 部屋の一角には小さなピアノが置かれている。かつて屋敷のサロンにあった白いアップライトピアノとは違うが、それでも鍵盤に触れるたび、セレナーデの心は解放されていく。音色に乗せるのは、これまでの苦しみと、今やっと得られた自由への喜び。その融合が新たな旋律を生み出し、彼女自身を再生してくれているのを感じた。


 レオンもまた、この場所によく訪れた。彼はスケッチブックとイーゼルを携え、部屋の隅で絵を描くことが多い。窓から差し込む柔らかな光のもと、筆を走らせる姿には、穏やかな集中力が宿っていた。

 「ぼくは、きみとこうして同じ空気の中で創作できるだけで、なんだか心が満たされるよ」

 ときおり、レオンはそう言って微笑む。セレナーデもまた、新しい曲のイメージをふくらませながら、時にはレオンとお互いの作品について意見を交わす。この共同作業にも似た時間は、かつて伯爵家で過ごした孤独な日々とまるで異なる充実感に満ちていた。


 「私、昔から好きだったの。人前で弾くピアノ。貴族の子女として義務的に叩き込まれた部分はあったけれど、本質的には人に聴いてもらうのが嬉しいと思っていた。でも、嫁いでからはそれすら許されなかったわ。ライナーは全く興味を持たなかったし、むしろ『無駄な趣味』として軽蔑していたもの」

 セレナーデがそう呟くと、レオンは筆を止めてまっすぐ彼女を見つめる。

 「きみの演奏は“ただの趣味”なんかじゃない。ぼくは最初、庭のサロンで聴いたときから衝撃を受けたんだ。きみが放つ音は、生きている……美しさと痛み、そして自由への願いが混ざり合っている」

 その率直な言葉に、セレナーデは胸が高鳴る。離婚で全てを失ったわけでは決してなく、むしろ自分の才能と可能性を取り戻しているのだと思えた。


 こうして、セレナーデの生活は大きく変化した。金銭的には決して余裕のある暮らしではないが、自分の力で前に進んでいるという確かな手応えがある。レオンから「一度、街の音楽ホールで小さなコンサートを開いてみるといい。ぼくも宣伝を手伝うよ」と提案されたとき、セレナーデは迷いながらも、その話に乗ることを決断する。

 「本当に……私、弾いていいのかしら?」

 「いいとも。聴きたい人はきっと大勢いる。何より、きみ自身が“本当の音”を奏でられるのなら、もう誰に遠慮することもない」

 レオンの励ましはいつも誠実で、彼の優しさはセレナーデをまた一歩前へと導いてくれる。



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5.4 “白い結婚”からの逆襲――自由のセレナーデ


 コンサート当日、セレナーデは小さな音楽ホールのステージに立っていた。客席には噂を聞きつけて集まった人々が、思いのほか大勢詰めかけている。レオンや、かつて伯爵家を辞めていった元使用人たち、さらにはセレナーデを応援してくれる貴族令嬢も数名駆けつけてくれたらしい。

 もっとも、大半の聴衆は彼女の名前を“スキャンダルの離婚貴婦人”として記憶しているだけかもしれない。それでも構わない。この場所でピアノを弾き、その音を届けることが、セレナーデにとっては一番の意味を持つ。

 ステージ中央には黒いグランドピアノが据え付けられ、照明が柔らかく鍵盤を照らしている。セレナーデは深呼吸をしてから、椅子に腰掛ける。指先を鍵盤に置いた瞬間、緊張と期待が入り混じる奇妙な高揚感が胸を満たす。

 思い浮かぶのは、これまでの数奇な運命。侯爵家に生まれ、政略結婚で伯爵家に嫁いだ自分。愛のない結婚生活で傷つき、冷遇され、夫の裏切りを知り、復讐を決意し、ついに離婚という手段で身を解き放った。

 “白い結婚”という不幸な檻に囚われていた日々――だが、その経験があるからこそ、彼女の音には今、深い魂の叫びがこもっている。音を紡ぐたびに、悲しみや悔しさ、そして前を向く勇気が渦を巻き、透明な旋律へと変貌していく。

 彼女が弾き始めた曲は、自作のオリジナル――“自由のセレナーデ”と、レオンがいつしか名付けていた。流麗なメロディの中に、一時は絶望に沈んだ暗い響きが影のように潜んでいる。しかしやがて、その闇を抜け出すように明るいメジャーコードの旋律が花開き、音を重ねるごとに大きなクレッシェンドへと昇りつめていく。

 客席は、水を打ったように静まり返っていた。最初は好奇の目で眺めていた聴衆たちも、次第に曲の持つ迫力と美しさに引き込まれていく。セレナーデの弾く音は、柔らかな光と激しい情熱が混ざり合い、誰の心にも直接語りかけるようだった。


 曲が終わると同時に、ホールに大きな拍手が湧き起こる。涙を流している者もいるようで、何人かが言葉にならない感嘆の声をもらしていた。

 ステージ脇に待機していたレオンは、セレナーデに大きく頷きながら拍手を送り、舞台裏へ駆け寄ってくる。

 「すごいよ、セレナーデ……まさに圧巻だった。これで君は、過去のしがらみに決着をつけて、音楽の世界へ踏み出せる」

 セレナーデは感極まって微笑み返す。自分が本当に解放されたのだと、改めて実感したのだ。かつての“白い結婚”は悲劇でしかなかったが、その檻を抜け出し、思い通りに生きる道を見つけられた。

 この大きな一歩が、これからの人生の道しるべになるに違いない――そう確信した瞬間、ふいに客席の隅で見覚えのある姿を見つけて、セレナーデはぎょっとした。


 そこにいたのは、憔悴しきった顔のライナーだった。

 いつしかホールに入り込んでいたのか、みすぼらしい身なりで、かつての伯爵らしい威厳は見る影もない。手には借金取りから逃げ回った跡だろうか、包帯が巻かれ、顔には深い隈が刻まれている。彼は舞台裏へ続く通路で呆然と立ち尽くし、セレナーデと目が合うと、何かを言いかけるように口を開いた。

 「……セレナーデ……まさか、こんなに素晴らしい演奏を……」

 目はうつろだが、確かに彼女の音を聴いていたのだろう。だが、セレナーデは冷ややかに視線を返した。かつて、ピアノを“無駄な趣味”と見下していたのは誰でもない、ライナー・ランドールその人だった。今さら何を思おうと、彼女の生き方には関係ない。

 ライナーは何かを懇願するように手を伸ばすが、セレナーデはゆっくりと首を振る。まるで心を閉ざすように、一言も言葉を発しない。そのまま彼女はレオンの腕を取り、舞台裏の奥へ消えていった。

 ライナーは惨めにうなだれているが、彼女が戻ってくることは二度となかった。


 こうして“白い結婚”を強いられたセレナーデは、自らの選択でその檻を壊し、自由への扉を開いた。かつての夫の末路を哀れに思うこともない。彼女にとっては、自分を縛りつけた男がその報いを受けているだけの話だ。



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5.5 新しい人生の幕開け


 それからしばらくして――

 セレナーデは街の小さな音楽サロンで、定期的にピアノ演奏を披露するようになっていた。口コミやレオンの宣伝もあり、聴衆は回を重ねるごとに増えている。彼女の演奏を聴いた音楽関係者の中には、「いずれ大きなホールで正式なリサイタルを開くのも夢ではない」と評してくれる人も出始めた。

 また、レオンも自身の画家としての活動が軌道に乗り始め、いくつかの展覧会で受賞を果たしていた。ふたりはそれぞれ別々の道を歩みながらも、お互いの才能を尊重し合い、苦しい時は支え合う仲間となっている。いや、“仲間”以上の関係、と言ってもいいかもしれない。

 「いつか、君と一緒に大きな舞台に立てたら……そう思うよ。ぼくは君の演奏を背景に、ライブペインティングをやってみたいんだ。音楽と絵画のコラボレーションを観客に見せることができたら、きっと素晴らしいだろう?」

 レオンがキラキラした目を向け、セレナーデもそのアイデアに胸を高鳴らせる。かつては屋敷の中に閉じ込められ、ただ“令嬢”や“伯爵夫人”という役割を演じるだけだった自分が、今や想像もしなかった未来のビジョンに心を躍らせている。

 あの“白い結婚”の痛みは、もはやセレナーデにとって過去の残像だ。確かに生々しい傷跡を残してはいるが、その傷こそが彼女を強くし、自由と幸せへの歩みを後押ししてくれたのだと思える。

 大切なのは、失ったものではなく、これから築いていくもの。いつでも音楽は彼女のそばにあるし、そこにレオンが寄り添ってくれる。それだけで、もう十分なのだ。


 穏やかな午後の光が差し込むアトリエの片隅で、セレナーデは小さく息を吐く。そして、ピアノの前に座り、そっと鍵盤を押した。最初は小さな音だったが、徐々に広がって、やがて彼女の全身に響く大きな旋律へと変わっていく。

 この音に名をつけるとしたら――そう、「真実の愛の歌」。彼女が手に入れた自由と、いま紡ぎはじめている愛の形を象徴する旋律。誰かに奪われたり、踏みにじられたりすることのない、セレナーデ自身の人生を賛美する音色。


 やがて一曲弾き終えると、隣でキャンバスに向かっていたレオンが優しい笑みを浮かべて言った。

 「今度のコンサートに、その曲を入れてみたらどうだろう。聴いた人はきっと、君の想いに心を奪われると思うよ」

 セレナーデは照れくさそうに微笑み返す。

 「ありがとう、レオン。私、もう過去の自分に囚われることはしないわ。これからは“私が弾きたい音”を、思いきり響かせていく。そのために生きるの」


 ふたりの言葉に、そこにある空気がほんのりと暖かくなる。かつて見えなかった可能性が、今は眼前に無限の道筋を描いているようだ。もう二度と、セレナーデは自分の人生を他人の思惑で決められることはない。人生の主役は自分自身。その事実を強く噛みしめながら、彼女はもう一度鍵盤に触れて、軽やかなアルペジオを奏で始める――。

 その音は確かに、白い結婚の檻の中で鳴り響いていたくすんだ音色とは違う。純白ではあっても暗く淀んだ色彩ではなく、透明感ある喜びに満ちた真の白さを帯びている。希望を描き出すための筆と、未来を奏でるための音が、今ようやく彼女の人生に羽ばたきを与えていた。



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