大学の裏山に、小さな祠がある。
誰も気に留めないその存在は、しかし確かに、そこに“在る”。
杉木立の奥、じめじめと湿り気を帯びた獣道を十分ほど。道なき道を進むたびに、靴の裏に落ち葉と泥がこびりついて、湿った音を立てた。
空は晴れていたはずなのに、枝葉が密集するその一帯だけは陽が差さず、うっすらと薄暗い。光の届かぬ森の底に沈んでいるような感覚。耳をすませば、風の通りも鈍く、虫の羽音さえ聞こえなかった。
空気が重い。喉の奥に何かが引っかかるような、鉛のような圧迫感。
苔むした石段の上に、それは佇んでいた。
小さな木製の祠。屋根は崩れかけ、歪んだ柱が身体を支えるように傾いている。戸板は朽ち、湿った風に揺れて、わずかに軋んだ音を立てた。
色褪せた木材は灰色に変色し、表面には苔とカビが這っている。何十年、あるいは百年単位で放置されてきたのだろう。だが、不思議と荒らされた形跡はない。
誰も、壊さない。
誰も、近寄らない。
まるで、森の奥に口を開けた小さな“穴”のようだった。暗く、湿り、静かに息づいている。人間の作ったものなのに、人の領域とは異なる“異物”。
それを前にすると、無意識に背筋が伸びる。
——触れてはならない。
——開けてはならない。
そんな“理屈のない了解”が、重苦しく漂っていた。
俺は文学部の三回生。研究テーマは「現代都市と民間信仰」だ。だが、最近のゼミでは学術というより、奇妙な創作の潮流が盛り上がっている。
「祠壊し文学」
物語の中で祠を破壊すると、世界に異変が起きる。祟り、過去の復活、怪異の再誕。ルールは単純だが、そこから作者ごとの狂気と哲学が滲み出る。
SNSでは「壊し方で人柄が出る」と評され、#祠壊し文学 のタグは、月に数百件以上も投稿されていた。
——だが、ある男だけは異を唱えた。
「でもさ、どれも似たり寄ったりじゃね?」
伊坂。工学部の三回生。人工知能の研究をしている変わり者で、常に独り言のような哲学的な話をする。
寝ぐせのついた髪。ほつれたリュック。口元に浮かぶ皮肉な笑み。そして、何より異様なのは、その目。ひどく冷たく、何かを計算している目だった。
「どうせなら、本当に壊してみようぜ。」
夜の大学通り。打ち上げ帰りの空気の中で、彼のその言葉は酒の泡のように軽く、だがなぜか耳に残った。
「は?」
「マジでさ。文学って、現実に干渉してナンボだろ。祠を壊して、なにも起きなかったらそれでいい。起きたら……それもまた“物語”になるだろ?」
缶ビールを片手に、伊坂は笑った。目だけが、まったく笑っていなかった。
——その瞬間、空気が変わった気がした。
ぞわり、と肌が粟立つ。
彼の言葉の奥にある何かが、脳の奥に染み込んでいく。見えない冷たい指先が、背中をなぞったような感触だった。
布団にくるまっても、その言葉が耳から離れなかった。
本当に壊してみようぜ。
文学は、現実に干渉してナンボだろ。
まるで、自分の中に“異物”が落ちた感覚があった。
それは静かに沈んで、そして、ゆっくりと何かを侵食していく。考えるほどに、体温が下がるような冷たさ。寝返りを打つたびに、その冷たさが骨の内側に染みてくるようだった。
三日後——俺は裏山にいた。
なぜ登ったのか、自分でも分からなかった。
ただ、あの日の言葉が、喉の奥で刺さったままだった。
獣道を踏みしめるたび、足元から湿気が這い上がる。杉の枝が風に揺れる音が、どこか遠くに感じられる。
——いや、そもそも音が、ない。
鳥の声も、虫の羽音も、完全に止んでいた。
まるで、自分だけが世界から“切り離された”ような。
そして、祠の場所にたどり着いたとき——
それは、なかった。
祠は砕け、散っていた。
屋根は裂け、柱は無惨に折られ、木片は泥と苔にまみれている。風に運ばれた土埃の中に、鉄のような、錆びた血のような臭いが混じっていた。
空気が、変わった。
音が、消えた。
完全に。まるで、世界全体が呼吸を止めたかのように。
背後の木々が不自然に静止している。風の音すら、もうしない。
自分の心臓の鼓動が、やけにうるさく聞こえる。
喉が詰まった。言葉にならない震えが背筋を這う。
ここには“何か”がある。もう、“あった”ではなく——今、“いる”。
誰が壊したかは、書かれていなかった。
でも俺には、分かった。
伊坂だ。そして、伊坂は、何かを“開けて”しまった。