目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

読者へ

 通知を開いた瞬間、映像が始まった。


 真っ暗な画面。ノイズのような音が、耳を細く鋭く刺し込んでくる。ブツッ、ジジ……と断続的に走る音は、まるで遠くの誰かが古いラジオをいじっているかのようだった。乱れた映像は、少しずつピントを取り戻し、まるで深い水底からゆっくりと浮かび上がるように、輪郭が現れていく。


 そこに、三浦恵がいた。


 画面の中央に、じっと立っている。何も語らず、ただこちらを見つめている。


 ——いや、違う。


 それは、カメラ越しに見られているという感覚ではなかった。


 彼女の視線は、映像を通り越し、画面のこちら側へ突き抜けていた。スマホを握りしめる“俺”ではない。その先にいる、読む者——“あなた”を、まっすぐに捉えていた。


 服装は、彼女が行方不明になる前とまったく同じだった。白いブラウスに、藍色のプリーツスカート。けれどその清楚な装いは、ところどころに埃が付き、襟元や袖がわずかに擦り切れていた。まるで、記憶の中で何度も再生された、古いキャラクターの衣装のように。


 背景に窓はなかった。壁は灰色で、どこかコンクリートのような質感がありながら、よく見ると文字のような影が浮き沈みしていた。天井は歪み、現実の空間ではあり得ない形状をしていた。光源は見当たらないのに、彼女の輪郭だけが白く浮かび上がる。


 それは、現実ではない場所だった。


 音はなかった。ただ、映像だけが、無音の中で粛々と進行していた。


「こんばんは」


 彼女が微笑んだ。


 その声は、俺に向けられたものではなかった。


 画面の向こう、読んでいる“あなた”に向けた、確かな呼びかけだった。


「神谷くん、来たでしょ? 裏山」


 喉が詰まる。心臓が一瞬、強く跳ねた。


 どうして、それを……? いや、違う。


 誰が“書いた”んだ?


「ここはね、“読まれている場所”なの」


「私たちは誰かに読まれている。物語として。——でも同時に、“演じて”もいる」


 彼女の声は、静かに空気に染み込んでいくようだった。しっとりと重く、優しさと、どこか諦めに似た響きを含んでいた。


 次の瞬間、画面がわずかに揺れた。背後に、誰かの気配が差し込んでくる。カメラが動き、視点がふわりと横に流れ、回転し、切り替わる。


 そして、画面の中央に現れたのは——伊坂祐也だった。


 だが、彼はもう“彼”ではなかった。


 目の奥に、文字が浮かんでいた。


 瞳の奥に、細かく揺れる文章の断片。語りかける一人称。区切られない台詞。空白と句読点が、視線とともに流れていく。彼の眼差しそのものが、開かれたページだった。


「やっと来たな、読者」


 伊坂は笑っていた。


 けれどその笑みには、血が通っていなかった。人間の皮を被った、“語り部”の顔だった。


 物語の奥深く、誰かの目線を通じてこちらを覗く、何か別の存在。


「物語は、書かれるものじゃない」


「掘り起こすものだ」


 伊坂がゆっくりと膝を折り、手を床へと伸ばした。その動きは、どこか儀式めいていて、緩慢で、異様なほどに慎重だった。


 指先が床に触れると、それがまるで紙のようにふわりと浮き、原稿用紙のマス目が、現実の表面を剥がすように現れた。


 壁がページになり、天井からは句読点が降り注ぐ。室内全体が、物語の“中身”そのものになっていく。


「俺たちが“祠壊し文学”で壊したのは、祠なんかじゃない」


「現実との境界だよ」


 伊坂の言葉の後ろで、三浦が静かに動いた。ほとんど音もなく、その場の空気を撫でるように歩み寄ってきた。


 光のない目で、けれど優しく、こちらを見つめる。


 そして、問いかける。


「ねぇ……あなた、誰なの?」


 それは俺に向けられた問いではなかった。


 スマホの向こう、画面のこちらにいる“誰か”——そう、“あなた”に向けられたものだった。


「ねぇ、“あなた”」


「この話、面白い?」


「私たちは、ちゃんと物語として存在できてる?」


「読まれる価値、ある?」


 画面がぐらりと揺れる。視点が崩れ、音声がざらつき、断片的な言葉だけが浮かんでくる。


「読み終えた時、物語は……死ぬ」


「でも……読者がいれば、生き続ける」


「見て、感じて、信じて」


「それが……存在の条件……」


 最後に、三浦恵が微笑んだ。


 泣き笑いのような、不器用で、でもどこか懐かしい表情。


 それは、あのゼミ室で見せた、控えめな笑顔と同じだった。


「どうか……忘れないでね」


「私たちは、確かに——“いた”ってことを」


 そして、画面はすっと暗転した。音も、映像も、すべてが消える。次の瞬間には、再生履歴も通知も、何一つ残っていなかった。


 まるで最初から存在しなかったかのように。スマホから、その動画の痕跡は一切、消え失せていた。





 ――翌朝。


 大学に着くと、世界が少しだけ“違って”いた。


 「祠壊し文学」サークルは、突如として廃部扱いになっていた。掲示板からも、記録からも、その名前は影も形もなくなっていた。


 伊坂祐也、三浦恵、神谷という名は、あらゆる名簿から消えていた。


 教授に尋ねても、曖昧な表情で首を横に振るばかり。


 あるいは、こう言うのだ。


「最初から、そんな学生はいなかった」と。


 だが。


 俺のスマホには、まだ残っている。


 彼らが語った、“読まれている”という言葉。


 そして、最後に映された一文。


「この物語を読んでいる“あなた”へ。——どうか、続きを書いて」


 物語は、終わらない。


 なぜなら、読者が目を離さない限り、彼らは今も“そこにいる”のだから。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?