三浦恵が「行方不明」となってから、一週間が過ぎた。
キャンパスは、奇妙な沈黙に包まれていた。
昼間でも薄靄がかかったような空気。芝生には誰も座らず、いつも満席だったカフェテリアは、空席ばかりが目立つ。すれ違う学生たちの口数は少なく、目を合わせようとしない。噂話すら、まるで“それ”に近づくことを恐れるように、小声のまま霧散してゆく。
ニュースでは一切報道されていなかった。
けれど、誰もが知っていた。文学部棟の掲示板には「安全管理強化のお知らせ」と題された張り紙が毎朝更新され、教授たちは突然妙に優しくなり、「不安なことがあればいつでも相談を」と繰り返すようになった。講義では、「安心」「安全」「連帯」といった言葉がやたらと強調されるようになったが、それはまるで、誰かが“気づかないでくれ”と叫んでいるようにも聞こえた。
だが、その沈黙の中で、俺は一つの決断を下した。
——裏山に、行こう。
かつて祠があった、あの場所へ。
伊坂が最初に「祠壊し文学」を始めたあの場所であり、三浦が最後に向かったとされる場所。
だが、それでも、行かなければならないと思った。もし本当に“何か”があるのなら、それを確かめなければならない。
その夜は、月もなく、風もなかった。空には雲が張り詰め、街の灯りさえ、届かないような闇。
音がない。木々の葉擦れも、虫の声も、遠くの車の音すら消え失せていた。
まるで、世界そのものが息を止めて、俺の一挙手一投足を見つめているかのようだった。
その沈黙の中で、俺は裏山の坂を登った。
土の感触、踏みしめるたびにわずかに軋む枝の音。それすらも、自分の耳の内側で鳴っているような感覚。
やがて、あの場所に着いた。
そこは、ただの空き地だった。
……のはずだった。
足元に、白く薄い紙片がひらひらと舞っていた。
風はなかったはずなのに、それはまるで何かに誘われるように俺の足元へ滑り込んできた。
拾い上げると、それは誰かのノートの一部だった。
びりびりに破かれた端、急いで引きちぎったような痕跡。罫線の上に、走り書きされた文字。
読みかけの小説? いや、違う。日記のような、混乱と興奮が混じった文章。
「伊坂さんが言っていた。祠の“中”に入るって。でも、祠はもうない。あるのは、跡地だけ。けど、跡地にも“入口”があるって。それは誰にも見えないけど、彼だけには“見える”って——」
読み終えた瞬間、腕の産毛が総毛立った。震えが背骨を這い上がり、喉の奥が凍るように冷たくなる。
この筆跡を、俺は知っている。
間違いない。三浦の字だ。ゼミで見せてもらったノート、その独特な丸みのある「る」や、跳ね上がりすぎる「と」。彼女の書く文字だ。
つまり、彼女は——ここまで来ていた。
自らの意志で。
伊坂が仕掛けた“文学的な世界”に、自分の身体ごと、足を踏み入れた。
その時だった。
背後に、砂利を踏む音がした。
反射的に振り返る。息を呑んだ。
神谷が、立っていた。
だが、俺の知る神谷とはどこか違っていた。
ジャージ姿。肩にかかる無造作な髪。姿かたちは以前のままだ。
だが——目だけが、異常だった。
焦点が合っていない。虚ろで、どこか“奥の奥”を見ているような、底なしの目。何かが壊れてしまった人間の目だ。
そして彼は、ゆっくりと口を開いた。
「伊坂は……“掘った”んだよ」
その声も、かつての神谷のものとは違っていた。音程が、微かにずれている。
「掘った? ……何を?」
神谷は笑った。だが、それは口元だけの笑いだった。目は、笑っていなかった。まるで、顔と心が乖離した人形のようだった。
「祠の中身だよ。最初は“空”だった。でも、もっと深く掘ったら……何かが出てきた」
俺は言葉を失った。
「何かって……何を?」
神谷は小さく呟いた。
「“文脈”だよ」
その言葉の重さが、地面を通して足元から染み込んでくるようだった。
「俺たちが書いてた“祠壊し文学”ってのはさ、結局“設定”の遊びだったんだよ。祟りがどうとか、封印がどうとか、因習があるとか。全部、それっぽい“枠”の話。でも、伊坂は気づいちまった。“それ、本当に存在するのか?”ってさ」
彼は静かに膝を折り、地面を指差した。そこには、ぽっかりと黒い穴が開いていた。直径一メートルほど。井戸のような、あるいは洞窟の“喉”のような。
今まで確かに“なかった”はずのそれが、そこに“ある”。
まるで世界の裏側が穿たれたように。
神谷がその縁に座り、ぽつりとつぶやいた。
「伊坂は“物語の根拠”を探しに行った。そして、“物語”そのものに飲まれちまったんだ。祠を壊して、空白を作った。そこに、物語が自我を持って、住み着いちまったんだよ」
俺は寒さではない震えに、肩を震わせた。
言葉が出ない。
「……戻れるのか?」
その問いに、神谷は首を横に振った。
「戻るとかじゃない。俺たちは今、“読まれてる”んだよ。物語の中の登場人物になっちまった。……誰かが、俺たちの“展開”を、眺めてる」
その瞬間、神谷の体が静かに、黒い靄に包まれるように崩れていった。砂のように、影のように、静かに輪郭を失っていく。
穴から、ひゅう、と風が吹いた。
どこからともなく、遠くでページがめくれるような音が聞こえた気がした。
祠はもうない。けれど、“穴”は、まだ開いている。
その時、俺のポケットの中でスマホが震えた。
画面には、通知が浮かんでいた。
「新しいライブ配信が始まりました:伊坂祐也」
そのサムネイルには、三浦恵がいた。
白い服を着て、夜の中に立ち、笑顔で、こちらに向かって、手を振っていた。
——彼女の背後には、祠の形をした“何か”が、確かに存在していた。