男はみた。
フィオナとナマズ
今日の“ピンクの幼児バケツ(真っ赤なリボン付き)”の当番は、町娘の小さな少女、フィオナ嬢だった。
彼女は街角の小さな階段に腰を下ろし、ナマズ入りバケツをひざにのせていた。中ではルルが半分水から顔を出して、ぎろりと目を光らせている。
「……昼下がり、香の漂う裏通り……こっそり嗅ぐは隣家の牛すじ煮……。」
(空腹……なんだろうか?)
「ルルちゃ~ん♡ 今日は特製の~、焼きいも♡ しっとりホクホクのやつぅ~♡」
(食うのか?ナマズがアツアツの芋を?)
若干怪訝な顔になるのは致し方ないというもの。
「……湯気の向こうに見えたのは、隣の妻が旦那の弁当に忍ばせた『芋で書いた別れのメッセージ』……怖いねぇ怖いねぇ……。」
「ん~♡ わかんないけどおいしいねぇ~♡」
(通じ合っているような、いないような……この異様な平和感は何だ……。)
ルルはうっとりとした目で身を沈め、ぷかぷかと浮かびながら囁いた。
「……芋に忍ばせたのは、……焼いたら浮き出る“消えた恋人の答え”……フフ……伝えたいなら火をくべろ……。」
(それ、もう完全にスパイ劇では……。)
シャーロットとナマズ
数日後、図書館前。
本を片手にベンチに座るシャーロット嬢。今日もバケツを足元に置いている。
「まあ、ナマズが何を口走っても、統計的に有用な情報に転化する可能性は万に一つもないとはいえませんしね。」
(相変わらず、表情ひとつ動かさない)
受付嬢と交わす礼儀正しい会話の裏で、彼女の視線は実はナマズと遊んでいる子供たちに向いていた。ナマズは意味不明な語りを続け、子供たちは大爆笑している。
(……この動きの同時処理はただものではない。どこまでが観察で、どこまでが遊びなんだ。)
その時、ナマズがひときわ大きな声で叫んだ。
「……第四騎士の懐に忍ばせた桃色の本……それは秘密の――」
「そこから先は黙ってくださいな。子供の教育上よろしくありません」
ふた越しに何か呻くルルを無視し、シャーロットは図書館受付と微笑を交えて会話を続けた。
(……ふた閉じるタイミングが完璧すぎる)
ライオネルは、その一連の動きがすでに訓練されているかのように滑らかなことに、若干の恐怖すら覚えた。
◇クラリスとナマズ
冒険者ギルドの受付カウンターでは、クラリス嬢が今日も忙しそうに応対していた。
「はい、薬草の受け渡しは午後五時までですね。次の方――って、ルル、バケツでおとなしくしててってば!」
「……囲いとは思い込み、世界の境界……開かれたバケツの中にあったのは、焼き魚ではなく王の密命……だが塩が足りなかった……。」
ふぅ。と人間顔負けの口達者で今日も稲川〇二風口調のうっとうしいナマズのルルは今日もそのわがままボディの醸す根めりのように饒舌である。
「密命でも野菜炒めでも味薄かったら怒られるんだよ。栄養のバランスもね!料理舐めんなよ。」
ついつい突っ込み徹するクラリスである。祖母に渡された翌日仕事に連れてくわけにいかず留守番させたらその夜に絶妙な囁きボイスで睡眠を妨害された。
なんせあのうっとうしい口調と絶妙音量に加えて内容は王城勤め人たちのゴシップなのだ気になって仕方ない。それに懲りたクラリスは翌日からバケツを持ち歩くようになった。
「え、なに今の? ナマズ?」
「お前今ナマズと喋った?」
「てか、なにあのピンクのバケツかわいすぎじゃね?」
若い冒険者たちが受付前でざわつき始める。
「クラリスさん……まさか、そのナマズって噂のしゃべるくらい活きのいいナマズとか……。」
「ナマズはただのナマズです! ほら、仕事の話をしましょう!」
「いや喋ってたって、今! 『密命』って!」
「はいはい密命密命、塩味にね。じゃ次、あんたら三人組で氷魔の依頼ね? 温かい装備の確認してさっさと依頼行きやがってくださいねぇ~。」
「クラリスさんマジですご……え、今“あんたら”って言った?!」
ナマズに触れられたくないクラリスは流れるようにナマズについて質問をしようとした若者たちを追い立てた。
(……ナマズとノリ突っ込みをしながらも、完璧な受付対応。職業としての矜持を感じる……。)
ルルはその間に、隅で水草をついばんでいた。たぶん満足してる。
王都騎士団 第七部隊・執務室。
「……報告、終わりました。ですが――」
冒険者ライ、ことライオネルが紙束を置くと、部隊長は顔を上げた。
「……“ナマズ”? “バケツ”? なんだそれは?」
「……知りませんか。現在、隣町で極めて目立っている“ピンクの幼児バケツに入ったしゃべるナマズ”です。第三側妃の周辺情報と奇妙に交差しています。」
「そんなもの知らん。知っているのは――あの“お騒がせ婆様”が、最近何かありそうなナマズを城裏の御堀から持ち帰ったということだけだ。」
「あ~。……つまり、クラリス嬢たちの祖母。件の“元・王宮コック”で、“二十年前に魔王の七日七晩続く晩餐会を一晩で壊滅させた”とされる、あの伝説の……。」
「“国が警護対象に指定してるお騒がせ老女”だ。」
「あ~。……やっぱり……。」
ライオネルは天を仰いだ。祖母の影が、すべての始まりにいる。そんな横で部隊長補佐が顔をしかめる。
「第三側妃の件もある。詩会で披露された“熱愛詩”があまりに濃くて、陛下が“そっちに調子づいた”らしく、逆に側妃殿下をぞんざいに扱ってるという目撃報告が……。」
「お前、どう思う?」
「熱愛詩はよくわかりませんが……焙煎獅子って誰なんですかね。獅子を焦がしてどうしたいんでしょうか。ま、それはさておきこのナマズ、もしかすると――本当に何かを知っているのかもしれませんね。」
部隊長はため息をついた。
「“あの婆様の釣果にハズレなし”。王宮でも古くからの諺だ。気をつけろよ、ライオネル。」
三者三様の表情を見せながら上がってきた報告書に目を落としため息をつくのであった。