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第3話 選ばれし魂

 学び舎ヴィラリアに来て三年が経った。


 初等養成院は、通常六年で卒業となる。

 ようやく、その半分。


 エクレシア・ヴィヴァルボルムの教えを

 覚え、守り、その通りに行動する。

 子供たちは若木が枝葉を伸ばすように健やかに、

 ヴィヴァ教団の者として成長していく。


 いずれ、男子は聖詠者オラシエル、女子は巫聖ヴィララに。

 あるいは神徒レオナール、や白衣者カンドレルに。

 もしかしたら導師アルコンにさえ、なる者も出るかもしれない。


 聖詠者と巫聖は神の言葉を伝える者。

 歌や詩を通して神託を告げる役目である。


 神徒は特に武勇を以て奉仕する者をいう。

 ヴィヴァ教団の守護者と呼ばれることもある。


 白衣者は医療・儀式・献身の担当者。

 孤児や生贄の管理にも携わる。

 それぞれ分担が違うが、皆、白衣者と呼ばれるのが常だ。


 導師は教え導く者。

 各地の神殿や都市に一人ずつ配される。

 皆の尊敬を集め、頼られる者。憧憬の対象である。


 そして世界に一人だけ。

 最も清浄で、最も高潔な導師である至聖導師グランダルコン

 いつか、もしかしたらこの中から現れるかもしれない至高の存在。


 学び舎に招かれた子供たちには、その資質があるのだから。




 晴れ渡る秋の空。

 心地良い風が夏の残り香を運び去っていく。

 そんな穏やかな日だった。


 それは、突然の告知。


 朝の祈りの後、聖詠者オラシエルアリスティドが告げたのだ。


「神託が下りました。

 新たな選ばれし献身者セリアンが示されたのです」


 その言葉に、広い講堂の空気が一瞬で凍りついた。

 誰もが息を呑み、静寂が学び舎ヴィラリアの天蓋を満たした。


 アリスティドは、ゆっくりと一人の名を口にする。


「パンドラ・ベルティエ。貴女あなたに祝福を」


 その瞬間、パンドラの全身がびくりと震えた。

 黄金の髪が揺れ、エメラルド色の眸の奥に、

 一瞬だけ迷いの色がよぎったように見えた。


 だがすぐに、彼女は静かに立ち上がり、

 深くこうべを垂れる。


「ありがとうございます」


 その声は微かに震えていたが、不思議と澄み切っていた。


 ざわめきが広がる。

 けれど、アムルは動けなかった。


 隣にあったはずの温もりが、急に遠くなったように感じられた。


(パンドラが、選ばれし献身者セリアンに……)


 笑顔で語り合った日々。

 手を取り歌った讃美の旋律。

 木漏れ日の中、交わした夢の数々。


 それらが、一気に色褪せていくような錯覚に襲われる。


「おめでとう、パンドラ」


 誰かが立ち上がり、そう言った。

 遠くでそう聞こえた気がした。


 耳の奥がぼんやりと痺れ、

 世界が分厚い幕の向こう側へと引き離されていく。


 アムルも、言わなければならなかった。

 おめでとう、と。


 だが、喉はひりついたように強張こわばり、唇はただ震えるばかり。


(神意……神さまが本当に、選んだの?)


 おめでとう。

 おめでとう。

 おめでとう。


 パンドラの周囲で拍手が起こる。

 それは瞬く間に広がり、講堂を満たす万雷となる。


 アムルは、ただ立ちすくむ。


 おめでとう。


 そんなの、嘘。

 全然、喜ばしくも、祝いたくも、ない。


 拍手の音を遠くに聞きながら、アムルはただ呆然とパンドラを見つめていた。

 パンドラが一瞬だけ振り返り、困ったように緑の眸を揺らしたのが見えた。


「……パンドラ」


 無理矢理に出した声は掠れ、あっという間に拍手に押しつぶされた。

 隣に立つジュリアンが、怪訝そうな視線を寄越す。


嫉妬しっとしてるの?」


 的外れな台詞。

 アムルは感情のない表情でジュリアンを見返す。

 その人形のような無表情に、ジュリアンはびくりと肩を震わせた。


 嫉妬?

 どうして?


 声にならない問いが、胸の奥に渦巻いた。

 ジュリアンは、少しだけ憐れむような目で言った。


「パンドラは選ばれたんだ。特別なんだよ。君とは違う」


 アムルはゆっくりと瞬きをした。

 紫水晶のような双眸に、陰が差す。


「それは、あなたじゃないの?」


 あなたこそ、パンドラに嫉妬しているのでしょう?

 ジュリアンの頬に、サッと血が昇った。

 図星だ。


 アムルはもう彼を見なかった。


 選ばれたことを羨ましいとは思わなかった。

 選ばれなかったことを、悲しいとも思わなかった。


 ただ、気付いてしまったのだ。


(わたし、パンドラを

 生命の大樹ヴィヴァルボルにも、神さまにも、

 取られたくない)


 それは、不敬だった。

 敬虔とは程遠い感情。


 この学び舎ヴィラリアで育まれるべき

 信仰を、根元から否定する心。


 神に望まれたのならば、喜んで差し出さなければならない。

 生命の大樹ヴィヴァルボルが望んだのであれば、従うのが当然だ。


 それが、この場所の常識。

 空気のように染みついた掟。


 なのに。


(大樹さま、神さま……)


 アムルはひざまずき、深く首を垂れた。

 祈りの言葉が、胸の奥から自然に溢れた。


(わたしは悪い子です。不敬です)


 けれどなぜか、許しを乞う気持ちはなかった。

 悪い子でいい。

 不敬でいい。


 罰なら受ける。

 だから。


(パンドラを、奪わないで)


 その願いだけが、胸に残った。



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