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第2話 創世神話

「それでは、今日の講義は――生命の大樹ヴィヴァルボルの創世神話です」


 穏やかな声が教室に響く。話すのは聖詠者オラシエルロベール。

 柔らかな金髪と透き通るような青い瞳を持つ、穏やかで物静かな人物だ。

 教団においても信頼厚く、生徒たちからの人気も高い。

 決して大声を出すことはなく、叱るよりも、諭すように教える人である。


 整然と並べられた木机の列。

 生徒たちは真剣な眼差しで黒板を見つめ、講義の言葉を一語一句もらさぬよう、帳面ノートに書き写していく。


 だが、アムルの視線は黒板の更に奥、その上に掲げられた生命の大樹ヴィヴァルボルの紋章に注がれていた。


 それは、円の中に正三角形を重ねた、簡素な意匠。

 けれど、そこに宿る意味は計り知れない。

 目を逸らせなかった。

 見れば見るほど、胸の奥がざわついてくる。


(なんで、こんなに気になるんだろう……)


 アムルは帳面ノートの端に、自然とその紋を何度も描いていた。

 ペン先がくるくると円を描き、正三角形を重ねる。

 無意識に繰り返しなぞるその動きは、どこか祈りに似ていた。


 アムルはふと、唇を噛んだ。


「かつてこの世界は、混沌に覆われておりました」


 ロベールの声が、静かに教室に降るように続いていく。


「空を支配していたのは、古の神――光の竜。その咆哮が天を裂き、吐き出す焔が、大地を幾度となく焼き尽くしました。ですが、至聖神ルミエルはその暴威を討ち、混沌を退けました。そしてこの現界ミディアルドに秩序と平和をもたらしたのです」


 この国で育った者なら誰もが一度は聞く神話。

 だがロベールは、ただの物語としてではなく、真理としてそれを語る。


「ルミエルは討ち果たした竜の亡骸に触れ、そこから一つの芽を芽吹かせました。それが、生命の大樹ヴィヴァルボル。大樹は天を貫くほどに育ち、三つに分かれていた世界――天界レミナリア現界ミディアルド冥界ネクソム――を繋ぐ橋となったのです」


 アムルは、まくを隔てた向こう側での物語のように聞こえていた。

 なぜか、どこか、遠い。


 その響きは美しい。だが、どこか、何かが引っ掛かる。


「しかし、その祝福には代償がありました。大樹を維持し、三界を繋ぐためには、純なる魂が必要だったのです。それが、選ばれし献身者セリアンの起源とされています」


 その言葉に、アムルの手がぴたりと止まった。


「……生贄」


 思わず小さく、口をついて出たその言葉。

 だが、幸いにも周囲の誰にも気づかれなかった。

 教室に響くのは、ロベールの声と、白墨チョークが黒板を走る音。

 それに、生徒たちのペンが紙を擦る音と、ページをめくる音だけ。


「すべての祈りは、大樹を通じて天界へと昇ります。

 私たちの安寧もまた、大樹とそのことわりによって支えられているのです」


 ロベールの言葉は優しいが、やはりどこか遠い。

 まるで、何も疑う余地などないと語るように。


 アムルはふいに、帳面ノートから目を離し、うつむいた。

 そのページには、何度も繰り返し描かれた大樹の紋章。

 円と三角。交わり、閉じたその図形に、どこか閉塞感すら覚えた。


「純なる魂を、求めるのは――生命の大樹ヴィヴァルボル


 その呟きに、ロベールが振り返る。


「その通りです、アムル」


 彼の声には咎める色はない。むしろ、肯定だった。

 アムルは一歩踏み出すように、問いを口にする。


「では、先生。選ばれし献身者セリアンを選ぶのは、大樹なのでしょうか?」


 ロベールは一瞬、言葉を探すように沈黙した。

 その後、慎重に選んだ言葉で答えた。


「――それは、神意です」

「神意」


 アムルはその言葉を反芻し、まっすぐに彼を見つめた。


「……セリアンは、自ら望んでなるわけでは、ないのですね?」


 教室がわずかにざわめいた。

 何人かの生徒が顔を見合わせる。

 ロベールは静かに息を整え、ゆっくりと首を振った。


「選ばれることは、神からの祝福であり、名誉です」


 それが、教義としての答え。

 正しい言葉。

 アムルは、それ以上言葉を重ねなかった。


 ロベールは空気を変えるように、生命の大樹を讃える詩歌を唱和させる。




 生命の大樹よ 永遠の根源よ

 光も闇も あなたに還る

 あなたの影に 平穏は降り来たる

 天へと高く 伸びる枝葉に

 われらの祈り 届かせん




 子供特有の、澄んだ高い声が旋律を紡ぐ。

 教室はまるで祈りの空間のように変わっていく。


 けれど、アムルは声を出さなかった。

 唇を動かすだけで、唱和するふりをする。


(選ばれたくなかった人は、どうしたらいいの)

(そういう人は、選ばれないの?)

(でも、もしも、わたしが選ばれてしまったら?)


 心の奥底で、何かが軋んだ。

 まだ小さな、小さな違和感。

 声にならない、微かな痛みのような感情。


 斜め前の席から、パンドラがそっと視線を向ける。

 その瞳は心配げで、優しかった。

 アムルは「大丈夫」と口だけで伝えて、微笑んだ。


(……わたしは、選ばれたくないのかしら)


 それすらも、まだ曖昧なまま。

 確かなのは、胸の内に小さな棘が刺さったということだけだった。


 それは、産毛のように柔らかく、けれど確かに痛みを伴う棘。

 そしてその棘が、やがて魔王という存在を生むことになるとは。

 この時まだ、誰も知らなかった。


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