目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第9話 ただしいこと

 パンドラは今日からまた、清めの間クラルハーロに籠もるという。

 選ばれし献身者セリアンになるために、行なうべき準備は目白押し。

 次はいつ話ができるだろうか……。



 アムルは授業を受けながら、パンドラのことを考えていた。


 聖詠者オラシエルエティエンヌが几帳面な文字を板書していく。


ことわりとは何であるか。

 それは物事の筋道。条理。道理を指します。

 また、わけや理由を指します」


 コツコツと硬質な音が規則正しく耳に響く。

 淡い光が差し込む教室には、静寂と心地よい緊張が満ちている。


「物事が進行するべき正しい順序や、理由。

 人として行うべき正しい道のことです」


 白墨チョークの音が教壇に小さく響く。

 アムルの視線は、黒板に映る文字ではなく、心の内へと向いていた。



 世界を維持するために。

 このままの状態を保つために。


 選ばれし献身者セリアンは必要な存在である。


 それは世界の理で。 正しいことで。

 だ。


 だって。

 そうでなければ世界は壊れてしまうのだから。

 それは。わかっているつもりだ。


 けれど何故、パンドラなのだろう。


 ――どうして、パンドラが選ばれたの?

 ――どうして、ジュリアンや、シャンタルや、

 わたしじゃなくて?



「怖いけど、選ばれた。

 選ばれたからには、わたしがやらなきゃって、

 思ってる。

 だって、それがきっと、わたしの役目だから」



 正しいことなのだ。

 誰もが理解していること。


 それに異を唱えるのは間違っている。

 不敬。不信心。


 だからこそ、口にできない。

 心の奥底で燻るこの想いを。


 そして、アムルが何をどう思おうとも。

 パンドラは、役目を果たすことを望んでいる。


 あの夜、確かに彼女はそう言った。


 


 受け入れられない。


 たとえ、この想いが理に背くものだとしても。

 神に背を向けることになるとしても。


 パンドラを失いたくない――。


 そこまで考えたのは覚えている。

 パリ……と空気が音を立てたことまでは。


 気付いた時には。

 アムルは聖詠者オラシエルエティエンヌに取り押さえられていた。


「気を静めなさい。教室を破壊するつもりですか」


 硬質で冷静な声に、アムルは何度か目を瞬いた。


 肌が火傷を負ったように熱い。

 周囲が揺らいで見えていた。


 パリパリと音を立てて、火花が散っていた。


 理力の暴走。

 新入生には間々あることだ。

 だが、三年生にもなって引き起こすとは。


 アムルは恥じて頬を染め、俯いた。


「申し訳ありません」


 呻くように口にした言葉に、エティエンヌは眉を寄せるでもなく、ただ頷いた。


 空気がすっと冷える。

 理力の波動が急速に落ち着いていくのがわかった。


 アムルは本来であれば、理力の制御は得意な方だ。

 調整が得意、と言った方がよいのだろうか。

 すぐに最大火力に持って行けるし、すぐに沈静化もできる。


 ふと見回せば、教室内の机や椅子は、アムルを中心に円を描くように散乱していて。

 窓ガラスには大きくヒビが入っていた。


 エティエンヌは静かに宣言した。


「反省室へ入るように」


 その声は決して怒ってはいなかった。

 けれども逆らうことを許さない響きがあった。


 アムルは、ゆっくりと立ち上がる。


「はい」


 一礼し、ゆっくりと教室を出た。

 反省室への行き方は知っている。


 重い足を引きずるような気持ちで、アムルは廊下を歩いて行く。


 他の教室はまだ授業中だ。

 講義の声や、詩歌を謳う声が微かに聞こえてくる。


 平穏な日常。




 世界は悲しみや苦しみに満ちているけれど、

 功徳メリティを積んで寿命を終えて、

 また生まれ変わって、

 そしてまた功徳を積んで……

 やがて天界レミナリアへ至る。



 そこでは永久の安らぎが得られる。

 パンドラに、待っていてもらって。



 わたしも輪廻を繰り返し、そして。

 いつか、天界にいるパンドラと再会する。



 でもその時のわたしは、じゃないかもしれない。


 天界に至るには、高次霊魂にならなくてはいけなくて。


 そのためには幾度も輪廻を繰り返すか、選ばれし献身者セリアンになるかしか、なくて。


 高次霊魂になったパンドラは、パンドラなのだろうか。

 もしも再会できたとしても、アムルはアムルではないのではないか。



 それは、

 つまり。


 今のパンドラには、会えなくなる。



 永久に。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?