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第8話 月は見ていた

 深夜、裏庭のベンチで身を寄せ合っていた。


 アムルはパンドラの肩に頭を預けて。

 パンドラはアムルの髪に頬を寄せて。


 静寂。


 吐く息は白く、月明かりだけが二人を包んでいた。

 言葉は囁きにしかならなかった。


 誰にも聞かれたくない。

 誰にも見つかりたくない。


 この時間だけは、世界から切り離されて、ここには二人しか存在しないかのような、そんな感覚がしていた。


「……選ばれし献身者セリアンってね。とても大切な役目なのよ」


 パンドラがぽつりと口を開く。

 言葉を探しながら、ゆっくりと紡ぐように。


「この世界……天界レミナリア現界ミディアルド冥界ネクソム。それに、

 それだけじゃなくて、もっとたくさんのモンド

 わたしたちの知らない、遠いところにある

 世界。

 全部を繋ぎ、保ち、正しく動かすために、

 選ばれし献身者セリアンは必要な存在なの」


 アムルは黙って聞いていた。

 真剣な、パンドラのその横顔を、夜風が静かに撫でていく。


「世界は……壊れやすいんだって。

 生命の大樹ヴィヴァルボルが在ることで、

 かろうじて均衡を保ってる。

 でも、その大樹も、放っておけば澱んだり、

 歪んだりしてしまう。

 だから、誰かが……浄める必要があるの」


「それが、セリアン……なの?」


「うん。捧げられる命。

 生命の大樹ヴィヴァルボルを浄化し、支えるための、

 生贄……」


 アムルの心臓が跳ねた。

 生贄。

 その生々しい響きに、肌が粟立つ。


 パンドラは気付いて、背中を撫でてくれた。

 震える指先が、あたたかくて、優しかった。


「でも、血を流すとか、

 そういうことじゃないの。

 殺されるんじゃなくて……

 生命の大樹ヴィヴァルボルと融合するの。

 溶けて、混ざって、ひとつになる。

 そうして……天界に至るんですって」


「天界に、至るの?

 大樹とひとつになるのに?」


「大樹は、三つの世界すべてを貫いてる。

 根は冥界に広がり、幹はこの現界を貫いて、

 枝葉は天界へ伸びてる。

 だから、大樹と融合した魂は、幹を伝って、

 枝葉を通って、やがて天界へと至り、

 永遠の安らぎを得る。……そう教わったわ」


 アムルは唇を噛んだ。


「それって、幸せなことなの?」


 パンドラは即答できなかった。

 何度か言葉を選び、考え、口にする。


「……どうなのかしら。

 きっと、大切なことなんだと思う。

 だって、みんな、そう言ってるし、それに、

 大樹さまと神さまが選んだことだもの」


 パンドラの言葉は、どこか遠くを見るような響きがあった。


「でも、本当はね……わたし、少し、怖いの」


 アムルは目を見開いた。

 声は、腕は、震えていなかったけれど。

 確かにパンドラは恐怖を感じていたのだ。


「怖いけど、選ばれた。選ばれたからには、

 わたしがやらなきゃって、思ってる。

 だって、それがきっと、わたしの役目だから」


「それでも……」


 アムルの声が震えた。

 胸の奥からあふれる言葉を、もう止めることができなかった。


「――会えなくなっちゃうの、嫌だよ」


 言ってしまって、すぐに後悔した。

 そんな子供のわがままで、パンドラを惑わせてはいけない。


 パンドラは、ぎゅうっとアムルを抱き締める腕に力を込める。


「会えなくならないわ。

 だって、大樹はいつもそこにあるのよ。

 わたしは生命の大樹ヴィヴァルボルの一部に

 なるんだもの」


 パンドラの囁きは、自分自身に言い聞かせるようでもあった。

 震えぬ声。揺るがぬ視線。

 けれどその奥で、何かが確かに揺れている。


「話したわよね。いつか二人で、

 巫聖ヴィララになって。世界を巡って、

 教えを謡って、人々を笑顔にして……」


「うん。覚えてる」


「それは、叶わなくなるけど……

 なっちゃったけど……

 でも、その代わりに、わたしは世界を守る

 役目を授けられた。

 それって、すごいことだと思わない?」


 アムルは頷く。


 そうだ、すごいことだ。

 誇るべきことだ。


 でも、胸の痛みは消えはしない。


「わたし、ずっとパンドラと一緒に居たかった。

 ずっとずっと、一緒に居るって思ってた。

 だから、ほんとは、すごく、嫌だった。

 ……違う、過去形じゃない。

 今も、やっぱり嫌だよ」


 抑えようとしても、どうしたって涙声になってしまう。

 きっと、伝わっている。


 泣いたらパンドラが困ってしまう。

 困らせたいわけじゃないのに。


 笑顔で祝福しなくてはいけないのに。

 それがきっとなのに。


 わたしにはそれができない。


「ありがとう、アムル」


 パンドラは微笑みながら、涙をこぼさないように空を見上げた。


「わたし、選ばれたことを誇りに思うわ。

 でも、それと同じくらい……

 アムルと出会えたことも、大切なのよ」


 月明りに照らされて。

 ベンチの影はひとつになったまま、どこか心細げに揺らいでいた。


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