(あれは魔物というものだったのかしら……)
反省室から出された後も、アムルは、あの白い靄のことを何度も何度も思い返していた。
まるで夢のようだった。
けれど、それが現実だったという確信も、同時にあった。
触れられたわけではない。
けれど、確かに、心の奥に入り込んできた。
静かに、冷たく、そして、明確な意志を伴って。
(魔物とは――魔、という逸脱した存在のこと……)
アムルは窓枠に
魔物、それは調和を乱すもの。
世界の根源たる
かつて授業で教わった定義を反芻する。
善きものを拒み、正しきを責め、
恐れられるべき、そして、排除されるべき存在。
それが魔物、或いは「魔」である。
(あるいは、強い負の感情が具現化した
アルボル典書にはそうも記されていた。
魔物とは、魂の底に沈殿した怒り、憎しみ、嫉妬、悲しみの
それが地に染み出し、形を得て歩き出すもの。
多くの魔物は、明確な姿形を持たない。
名前を持たぬ存在は曖昧で、形すらも不定。
靄、影、声だけの残響――それらは、正体を持たぬ魔の原形。
そして、堕落した魂の残滓であるそれとの接触は「穢れ」である。
──アルボル典書・
アルボル典書。
それはエクレシア・ヴィヴァルボルムの信仰体系を支える七つの書からなる聖典だ。
光の書、幹の書、根の書、枝の書、理の書、命の書、犠牲と再生の書。
とくに「理の書」では、世界の構造と調和の破壊者――すなわち「魔」――について詳細に述べられている。
だが。
(魔物は、ひとの心が生み出すこともある)
それもまた、アルボル典書に記された一文であった。
アムルは、そこに引っ掛かりを感じている。
もしそうなら――もしも、あの靄が誰かの心の奥底から生まれたものだとしたら?
(……それは、わたしの負の感情?)
そんなはずはないと否定したかった。
だが、できなかった。
──抗うか?
あのとき、靄の奥から響いてきた問い掛け。
誰が語ったのかもわからない。
声であったのかすら、曖昧。
けれど、それは確かにアムルの心を強く打ち震わせた。
アムルは静かに瞼を閉じる。
もしかすると、自分はすでに、魔を呼び寄せるほどに心を歪ませているのかもしれない。
誰にも言えぬ嫉妬や怒り、焦燥や諦念。
それらが少しずつ、少しずつ蓄積されて――あの白い靄として、形を取って現れたのではないか。
(わたし……)
アムルはガラス越しに空を仰いだ。
高く澄んだ空。
美しく晴れ渡り、白い雲が一面の青にふわふわと浮いていて。
だが心は晴れなかった。
(パンドラと比べて、なんて……)
清らかなる者として選ばれたパンドラ。
世界に祈りを届ける存在。
世界を支える者。
その傍らに立つ自分は、なんと醜く、なんと不敬なのだろう。
(なんて、罪深い。なんて不敬。なんて……)
相応しくない。
パンドラの隣に立つ資格がない。
心の奥に満ちる澱みは、祈っても消えはしない。
そして、もしかすると、それこそが魔物の正体――
アムルの中で、何かがわずかに揺らいだ。
弾けてはいない。硬い殻に覆われて、沈黙を保ったまま。
けれど、確かにそこにある、何か。
──もし、祈りでは救えないものがあるのなら。
──もし、赦しを乞うだけでは届かない想いがあるのなら。
(わたしは――)
その先の言葉は、まだ口にできない。
だが、確かに心の奥で、何かが芽吹き掛けていた。
鐘の音が、遠くで鳴った。
どこだろう。
アムルは不思議に思う。
いつもの鐘の音では無かったのだ。
学び舎のものでもなく、遠く響く大聖堂のものでもなく。
それは世界の深淵から響いてくるような、不吉で……けれど、どこか懐かしい音だった。
鐘は何かを告げようとしていた。
そんな気がした。