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第二章 祝福の影と栄光の檻

第1話 運命は鳴り響く

(あれは魔物というものだったのかしら……)


 反省室から出された後も、アムルは、あの白い靄のことを何度も何度も思い返していた。


 まるで夢のようだった。

 けれど、それが現実だったという確信も、同時にあった。


 触れられたわけではない。

 けれど、確かに、心の奥に入り込んできた。

 静かに、冷たく、そして、明確な意志を伴って。


(魔物とは――魔、という逸脱した存在のこと……)


 アムルは窓枠にもたれ、ゆっくりと記憶を探った。


 魔物、それは調和を乱すもの。

 世界の根源たる生命の大樹ヴィヴァルボルと三つの世界――天界、現界、そして冥界――との繋がりを絶たれた存在もの


 かつて授業で教わった定義を反芻する。


 善きものを拒み、正しきを責め、ことわりを壊し、世界を蝕む。

 恐れられるべき、そして、排除されるべき存在。

 それが魔物、或いは「魔」である。


(あるいは、強い負の感情が具現化した存在もの


 アルボル典書にはそうも記されていた。


 魔物とは、魂の底に沈殿した怒り、憎しみ、嫉妬、悲しみのおり

 それが地に染み出し、形を得て歩き出すもの。


 多くの魔物は、明確な姿形を持たない。

 名前を持たぬ存在は曖昧で、形すらも不定。

 靄、影、声だけの残響――それらは、正体を持たぬ魔の原形。

 そして、堕落した魂の残滓であるそれとの接触は「穢れ」である。

 ──アルボル典書・ことわりの書・第三章より


 アルボル典書。

 それはエクレシア・ヴィヴァルボルムの信仰体系を支える七つの書からなる聖典だ。

 光の書、幹の書、根の書、枝の書、理の書、命の書、犠牲と再生の書。

 とくに「理の書」では、世界の構造と調和の破壊者――すなわち「魔」――について詳細に述べられている。

 だが。


(魔物は、ひとの心が生み出すこともある)


 それもまた、アルボル典書に記された一文であった。

 アムルは、そこに引っ掛かりを感じている。


 もしそうなら――もしも、あの靄が誰かの心の奥底から生まれたものだとしたら?


(……それは、わたしの負の感情?)


 そんなはずはないと否定したかった。

 だが、できなかった。


 ──抗うか?


 あのとき、靄の奥から響いてきた問い掛け。

 誰が語ったのかもわからない。

 声であったのかすら、曖昧。

 けれど、それは確かにアムルの心を強く打ち震わせた。


 アムルは静かに瞼を閉じる。


 もしかすると、自分はすでに、魔を呼び寄せるほどに心を歪ませているのかもしれない。


 誰にも言えぬ嫉妬や怒り、焦燥や諦念。

 それらが少しずつ、少しずつ蓄積されて――あの白い靄として、形を取って現れたのではないか。


(わたし……)


 アムルはガラス越しに空を仰いだ。

 高く澄んだ空。

 美しく晴れ渡り、白い雲が一面の青にふわふわと浮いていて。


 だが心は晴れなかった。


(パンドラと比べて、なんて……)


 清らかなる者として選ばれたパンドラ。

 選ばれし献身者セリアン

 世界に祈りを届ける存在。

 世界を支える者。


 その傍らに立つ自分は、なんと醜く、なんと不敬なのだろう。


(なんて、罪深い。なんて不敬。なんて……)


 きたない。

 相応しくない。


 パンドラの隣に立つ資格がない。


 心の奥に満ちる澱みは、祈っても消えはしない。

 そして、もしかすると、それこそが魔物の正体――


 アムルの中で、何かがわずかに揺らいだ。

 弾けてはいない。硬い殻に覆われて、沈黙を保ったまま。

 けれど、確かにそこにある、何か。


 ──もし、祈りでは救えないものがあるのなら。

 ──もし、赦しを乞うだけでは届かない想いがあるのなら。


(わたしは――)


 その先の言葉は、まだ口にできない。

 だが、確かに心の奥で、何かが芽吹き掛けていた。


 鐘の音が、遠くで鳴った。


 どこだろう。

 アムルは不思議に思う。


 いつもの鐘の音では無かったのだ。

 学び舎のものでもなく、遠く響く大聖堂のものでもなく。


 それは世界の深淵から響いてくるような、不吉で……けれど、どこか懐かしい音だった。


 鐘は何かを告げようとしていた。

 そんな気がした。



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