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第2話 祠に残りし声

 眼下に、きらりと光る何かを見つけた。

 風となったアムルは、緩く旋回しながら高度を落とした。


 ここは国境近くだろうか。

 大きな街道からは外れているが、ぽつぽつと集落らしきものがあるようだ。

 小さな灯がかすかに点在している。

 夜のとばりが降りる寸前、最後の陽光を受けて。

 その何かは瞬いていた。


 光ったと見えたのは、何かの力の残り香のようだ。

 ほとんど消えかけた残り火のような、小さな小さな力だが、アムルを引き付けるだけの強さがあった。

 朽ち果てた石造りの小さな祠。

 壁は崩れ、苔して、半ば以上が木の根に呑み込まれている。

 もはや訪れる者も居ないであろう、忘れられた祠に見えた。


 だが、横に立つ碑文には今も「力」が確かに宿っている。

 知らない力だ。

 生命の大樹ヴィヴァルボルではない、でも何か、とても古いもの。

 アムルはゆっくりと人の形を取ると、碑文にそっと手を触れた。


 アムルは眉を寄せ、首を傾げた。


 刻まれた文字を指でなぞれば、それが直接頭の中に流れ込んでくる感覚がある。

 言葉でもなく、映像でもなく、けれど何故か何か。

 「記憶」が一番近い感触かもしれない。


「旅立つ人へ捧げた歌……」


 そらよ だいちよ もりよ かぜよ

 わがいとしき ひとにこそ

 あはれ やさしくあれかし

 きずつくことなく

 まよふことなく

 ひかりのうちを あゆましめたまへ



 アムルはぽろぽろと涙を流していた。

 ただひたすらに優しく、愛しさを込めた歌だった。


 温かい。なのに何故だろう。

 身の内に宿る呪われし力マレフォルティアに似た波動だと感じられた。


 吹き荒れ、傷付ける、この黒い炎と似ている。

 優しさだけを集めたような歌と、どうして似ているなどと思うのだろう。


「違うのに……同じ」


 性質は真逆。

 けれど、芯が同じである気がした。


 胸の奥から込み上げてくる熱いものを止められない。

 己の中に巣食う黒いものと、この歌は、同じ根から分かたれた枝のように感じられた。


 アムルの鼻先に、ふわり、と柔らかい光が灯った。

 小さく柔らかな光の粒。


 それは碑文にのこされた記憶。


 名も知らぬ誰かが、旅立つ者のために紡いだ歌は、契約でも儀式でもない。

 ただ願いを、そのままに刻んだもの。


 光はアムルの周りを、ふわりふわりと漂った。

 その軌道は、まるで旋律を描くようで。

 やがてそれは、言葉を超えた何かとなってアムルの胸に染み込んで来た。


 わたしは あなたを忘れない

 いつか あなたが還るなら

 そのとき この歌がしるべと なりますように


――あなたも


 不意に「声」に呼びかけられたアムルは、目を見開いた。

 涙が飛び散り、それはきらきらと光を反射する。


 目の前に女性が立っていた。

 半分透けて後ろが見える。

 きっと誰かの記憶の残り香。


 女性は笑ってアムルの胸に手を伸ばす。

 そっと、指先で触れる。

 魂の場所に。


――いいのよ


 穢れていたとしても。

 姿が変わっていたとしても。

 魂の色が違っていても。


――それを、願うなら


 胸の奥で呪われし力マレフォルティアが、震えた。

 寄り添うように優しく、けれど強く。

 それは――共鳴。


 この歌は、祈りは、呪われしものすら含んで、包み込む。

 胸の奥の黒い炎は、今や優しい緑色に、まるで若葉の色のように柔らかくなっていた。


 何ものをも拒絶しない、歌。


 心の中で強く望むこと、実現してほしいと願うこと。

 目に見えない何かに自分の想いを届けようとする心。


(呪いも、祈りも、もとは同じなのかもしれない……)


 温かく柔らかい緑色の炎を抱き締めて、アムルは瞼を閉じた。


 祝福と呪詛。生と死。

 光と影。善と悪。希望と絶望。

 愛と憎しみ。喜びと悲しみ。

 自由と束縛。誠実と偽り。



 相反するものは、本質的には同じである。


 世界を許さないと呪ったこの気持ちは、パンドラを返してと願う叫びだった。

 そう。

 パンドラを返してくれるなら、なんだって、できる。


 呪われし力マレフォルティアを、アムルはその時、初めて心から受け入れたのかもしれない。


 呪い、憎み、燃やし尽くすだけの力ではなく。

 友を想う心でもあるのだと。


「ありがとう」


 アムルは再び風へと姿を変え、空へ舞い上がった。

 夜が深くなる。

 青に、黒に。

 灰色の雲に覆われて、星も見えない。


 けれど胸にひとつ。光が瞬いていた。



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