聖都アルセリア。大聖堂にて。
各地から届いた報告書を携えた
普段ならば廊下は走るなと叱責されているだろう。
だが、火急の時である。
「旱魃の地に雨が降った」
「荒れ地に草が芽吹いた」
「病が癒された」
「夢の中で歌が聴こえた」
報告の届いた場所は世界各地に及び、その内容は千差万別。
だが、共通点が三つほど存在した。
「どこからか聞こえた歌」
「聖典にない言葉」
「神のような女の声」だ。
報告を行った
山のような報告書の束を纏めて
「
従者も息を詰めてイアサントの返答を待つ。
小姓たちが扉の影から恐る恐る様子を窺っている。
誰もが人知を超えた出来事を畏れ、震え、思い乱れているのだ。
イアサントは目を
酷薄な表情が薄く、唇に乗る。
「神ではない。魔王だ」
イアサントの言葉に動揺した小姓の一人が、抱えていた報告書の束を落とした。
慌てて周囲の者らも手伝って拾い集める。
焦っているのか一人が尻もちをついた。
だがイアサントは、それらには一切視線もくれず、ただ静かに宣言した。
「今、世界に起きている数々の不思議は奇跡ではない。
魔王の放つ、まやかしである。神を
「魔王……では、あのアムル・オリオールという少女が、これらを成したと
「そうだ。あの娘だ」
イアサントを呪い、生命の大樹を呪い、世界を呪い、泣きながら姿を眩ませた少女。
便宜上「魔王」と呼称したが、大した脅威とは思っていなかった。
だが、名に見合うだけの力を身に付けたか。
思ったよりも、やる。
それがイアサントのアムルへの評価だった。
「我らは、我らは
典礼の回数を増やし、もっと祈りを捧げるべきかと」
「いや、魔王討伐を急いだほうが宜しいのでは」
「ユグド=ミレニオとの連携を、更に密に致しましょうぞ」
アムルがここまで世界に影響を及ぼす存在になるとは、流石のイアサントにも読めなかった。
――プレケリア。失われた祈りの言葉。
もはや知る者も少ない力を、よくぞ見つけ出したと思う。
イアサントはアムルを心から称賛した。見事だ、と。
だが、世界の秩序は我が手の中に握られている。
それを揺るがすものは、ただ排除するのみ。
イアサントは立ち上がる。
導師、聖詠者、従者たちも全員が喋るのを止め、畏まる。
静まり返った部屋に、イアサントの声が朗々と響いた。
「エレクシア・ヴィアヴォルムが守るものは祈りに
秩序を守らなくてはならない。
管理し、支配下に置かなくてはならない。
それが平和と安定への唯一の道なのだ。
至聖導師イアサントの名の元に、教団は新たな声明を発表した。
「魔王は
されど、世界を包むべきは偽りに非ず、秩序なり。
聖典に記されざる旋律を謳う者、すなわち異端と断ず。
これ、災厄の兆なり」
同時に、エレクシア・ヴィアヴォルムはユグド=ミレニオと連携。
魔王襲撃に備え、聖都アルセリアの最終防衛命令が下された。
これはかつてない異常事態である。
聖戦の始まりであると叫ぶ者すらいた。
だが。
魔王の所業と口にしながらも、報告を読み上げる
ある
それは――教典にないはずの優しい記憶に似ていた。
聖都は戒厳令のもと、祈りの地ではなくなっていた。
石畳を走るのは兵の靴音。鐘の代わりに響くのは軍靴の号令。
子どもたちは門の外に出ることを禁じられている。
聖典にない歌は口にしてはいけない。
風が運ぶあの歌は、魔王の言葉なのだから。
子供たちは口を噤む。
悪いことをしてはいけない。鞭でお尻を打たれてしまう。
魔王の歌を口にするのは悪いことだ。
けれども。
少年は小声で母に囁いた。
「でも、歌は……きれいだよね?」