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第10話 祈りに触れる時

「くりかえし くりかえし

 ことばは おどる はるのうた

 いたいきもちを だきしめて

 わたしは いまを いきている」


 誰かが歌う声が、風に乗って耳に届いた。

 その旋律はまるで、胸の奥に小さな火を灯すように、懐かしく温かかった。


 プレケリア。

 それは祈りの残響。


 ロイクは、気づけばその声に引き寄せられるように歩き出していた。

 意味もなく確信していた。そこに、彼女がいる、と。


 中庭の片隅。

 若木の根元に、制服姿の少女が座っていた。

 陽光に揺れる亜麻色の髪。白磁のような肌が微かに煌めく。

 開いた本のページを静かに捲りながら、まるで微笑むように、その少女は小さな歌を紡いでいた。


 ――アムル。


 あの戦場に立ち、世界を呪った「魔王」の姿は、ここにはなかった。

 そこにいたのは、まだ何者でもない少女だった。

 穏やかで、繊細で、少しだけ哀しげな眸をした、一人の少女。


 ロイクはその場に立ち尽くしていた。

 声をかけるべきか、それとも黙って通り過ぎるべきか――

 答えを出せぬまま、ただ、時が流れていった。


「せかいはふしぎで まぶしくて

 いろんなひとが ないてわらう

 そのなみだにも いみがある

 いたみのあとに はながさく」


 アムルが顔を上げた。

 その瞬間、目が合った。

 ロイクは一瞬だけ躊躇ったが、小さく笑って応えた。


「……すまない。懐かしい歌だったから、つい」


 アムルは少し驚いたように目を瞬かせ、そして柔らかな笑みを返した。

 その微笑みが、ロイクの胸を強く締めつけた。

 懐かしさと痛みと、悔しさと愛しさが一度に込み上げて、視界がわずかに滲んだ。


「この歌……どこの歌なのかしら。知らないはずなのに、懐かしいんです」

「世界のどこかの、祈りの歌だよ」


「祈り……?」

「ああ。どこかの誰かが、大切な誰かを想って、祈った歌だ」


 アムルは、そっとロイクを見つめた。

 澄んだ紫水晶の色彩が煌めく。


「詳しいんですね、勇者さん」


 ロイクの胸が跳ねた。


「俺を、知ってるのか……?」

「学び舎に勇者が来ているって、ちょっとした噂になってるんですよ。あなたのこと……でしょう?」


 ロイクは笑った。苦笑に近い表情だった。


「ああ。まあ、そうだ」


 そのとき、聖剣がわずかに振動した。

 共鳴のように音が響いた。


「……何かしら。聴こえませんか? 歌みたいな……」

「さあ、どうかな」


 ロイクは聖剣の柄を強く掴んだ。

 共鳴の音を、抑えるようにして、微笑んだ。

 アムルは目を瞬き、ロイクを真っ直ぐに見る。


「――ねえ、勇者さん。変なことを聞いてもいいですか?」

「うん?」


「前に、会ったこと、ありませんか?」


 そのとき、アムルの声を掻き消すように、鐘の音が響いた。

 授業の予鈴だ。


「……行かなくちゃ。それじゃ、勇者さん。失礼します」

「ああ。……勉強、頑張れよ」


 アムルは小さく会釈をし、春の庭を駆け抜けていった。

 亜麻色の髪が風に揺れ、やがて彼女の姿は木立の向こうに消えていく。


 彼女はまだ、何も知らない。

 時分が何を選択したのか。

 何を失い、何を託したのか――

 何も。


 ロイクは、そっと聖剣の柄を握り締めた。


「今度こそ、守る。絶対に――助けるからな」


(魔王になんて、させないから)


 それは祈りではなく、誓いだった。

 記憶の彼方に消えたを、今ここでもう一度、救い直すための。

 問い掛ける者が世界に放つ、最初の約束だった。



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