淡く青白い幻影が静かに消え、女神の抱いた「許されなかった痛み」だけが空間に残る。
アムルは膝をつき、胸に手を当てた。
「……誰も、あなたを守ろうとしなかったんですね……」
彼女の眸から零れた涙は、他者の記憶ではなく、今のアムル自身のものだった。
恐れではなく、ただ、共鳴する。
「……祈るって、希望だけじゃ足りないんですね。悲しみも、怒りも、痛みも……ちゃんと知って、それでも、祈ることが、大事なんだ」
ゆっくりと立ち上がり、両手を胸元に重ねる。
「サリアニスさま。理由なんていりません。ただ……もう一度、信じてほしい。それだけを祈ります」
その言葉に応えるように、淡い光が舞い降り、アムルの掌にそっと触れた。
それは神からの「赦し」ではない。けれど――拒まれてもいなかった。
「いつか、あなたに届きますように……」
その静かな声に、ロイクが微かに微笑み、そっと聖剣に手を添える。
「……あいつ、本当に強くなったな」
パンドラもまた、背中からアムルをそっと抱きしめた。
「祈りって、幻想じゃないんだね。たとえ拒まれても、信じようとすることは、選べるんだ」
三人の影が、祠の水の光に重なる。
沈黙していた水神サリアニスの声が、ふと、波のように揺れて戻ってきた。
「なぜ……それでも、祈る?」
アムルは胸に手を当てて答える。
「だって、あなたが今も、ここにいてくれるから」
女神は静かに語る。
かつて名を呼んだ人々が泉を濁し、忘れていったこと。
自分の名さえ、呼ばれなくなったこと。
「……なら、わたしが、あなたの名を呼び続けます」
風が祠の中をそっと吹き抜け、水面がわずかに揺れる。
三人の足元に広がる
「信じられるかは……まだ分からない。でも、お前たちの祈りが
祠の中央に、淡い光の紋章が浮かぶ。
それは赦しではない。
けれど「拒絶」ではない、確かな一歩だった。
そして女神の最後の問いが、静かに残された。
――ならば、問い直せ。
人は、世界を傷つけながらも、
なお祈る資格があるのか――
女神は、まだ祈りを信じ切れない。
けれど、「信じてみたい」と思い始めていた。
それが、水に残された、女神の最後の応えだった。
風が止み、水面が鏡のように静まった。
その中心に、ひとつの波紋がゆっくりと広がっていく。
それは、水神サリアニスの「ためらい」が、祈りに触れた証だった。
そして――
光が、祠の奥から浮かび上がった。
それは声ではなく、旋律だった。
けれど、はっきりと「語られて」いた。
空間に、柔らかな音のような感触が満ちていく。
水の中から、やがて断章が顕現した。
読めぬ文字で綴られた詩、聞こえぬ旋律の歌。
それは神代の言葉で紡がれた、祈りの記録だった。
詩が終わると同時に、水面から淡い青の光が立ち昇った。
それはやがて、ひとつの結晶へと形を変える。
ロイクの聖剣が微かに震え、アムルの手のひらが静かに光に引かれるように伸びる。
その瞬間、断章の光は三人を包み込み、剣の柄に、紋のひとつとして染み込んだ。
パンドラがそっと呟いた。
「……これが、水の神詩の断章なのね」
ロイクもまた、神妙な声で続ける。
「明確な言葉として顕現せず、読めない文字で綴られた、聞き取れない神詩……」
アムルは黙って頷き、そっと胸に手を当てる。
水神サリアニスは、まだすべてを赦したわけではない。
傷はまだ、癒えていない。
けれど祈りを再び「受け取る」という、小さな始まりだった。
――それこそが、「断章」の意味。
神詩は「答え」ではなく、「祈りの記録」。
今このとき、確かに、神と人とのあいだに新しい一節が刻まれたのだった。