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第8話 水の断章

 淡く青白い幻影が静かに消え、女神の抱いた「許されなかった痛み」だけが空間に残る。

 アムルは膝をつき、胸に手を当てた。


「……誰も、あなたを守ろうとしなかったんですね……」


 彼女の眸から零れた涙は、他者の記憶ではなく、今のアムル自身のものだった。

 恐れではなく、ただ、共鳴する。


「……祈るって、希望だけじゃ足りないんですね。悲しみも、怒りも、痛みも……ちゃんと知って、それでも、祈ることが、大事なんだ」


 ゆっくりと立ち上がり、両手を胸元に重ねる。


「サリアニスさま。理由なんていりません。ただ……もう一度、信じてほしい。それだけを祈ります」


 その言葉に応えるように、淡い光が舞い降り、アムルの掌にそっと触れた。

 それは神からの「赦し」ではない。けれど――拒まれてもいなかった。


「いつか、あなたに届きますように……」


 その静かな声に、ロイクが微かに微笑み、そっと聖剣に手を添える。


「……あいつ、本当に強くなったな」


 パンドラもまた、背中からアムルをそっと抱きしめた。


「祈りって、幻想じゃないんだね。たとえ拒まれても、信じようとすることは、選べるんだ」


 三人の影が、祠の水の光に重なる。

 沈黙していた水神サリアニスの声が、ふと、波のように揺れて戻ってきた。


「なぜ……それでも、祈る?」


 アムルは胸に手を当てて答える。


「だって、あなたが今も、ここにいてくれるから」


 女神は静かに語る。

 かつて名を呼んだ人々が泉を濁し、忘れていったこと。

 自分の名さえ、呼ばれなくなったこと。


「……なら、わたしが、あなたの名を呼び続けます」


 風が祠の中をそっと吹き抜け、水面がわずかに揺れる。

 三人の足元に広がるさざなみが、共鳴の証だった。


「信じられるかは……まだ分からない。でも、お前たちの祈りがことだけは、感じ取れた」


 祠の中央に、淡い光の紋章が浮かぶ。


 それは赦しではない。

 けれど「拒絶」ではない、確かな一歩だった。


 そして女神の最後の問いが、静かに残された。


 ――ならば、問い直せ。

 人は、世界を傷つけながらも、

 なお祈る資格があるのか――


 女神は、まだ祈りを信じ切れない。

 けれど、「信じてみたい」と思い始めていた。

 それが、水に残された、女神の最後の応えだった。



 風が止み、水面が鏡のように静まった。

 その中心に、ひとつの波紋がゆっくりと広がっていく。


 それは、水神サリアニスの「ためらい」が、祈りに触れた証だった。

 そして――

 光が、祠の奥から浮かび上がった。

 それは声ではなく、旋律だった。

 けれど、はっきりと「語られて」いた。

 空間に、柔らかな音のような感触が満ちていく。

 水の中から、やがて断章が顕現した。


 読めぬ文字で綴られた詩、聞こえぬ旋律の歌。

 それは神代の言葉で紡がれた、祈りの記録だった。


 詩が終わると同時に、水面から淡い青の光が立ち昇った。

 それはやがて、ひとつの結晶へと形を変える。

 ロイクの聖剣が微かに震え、アムルの手のひらが静かに光に引かれるように伸びる。

 その瞬間、断章の光は三人を包み込み、剣の柄に、紋のひとつとして染み込んだ。

 パンドラがそっと呟いた。


「……これが、水の神詩の断章なのね」


 ロイクもまた、神妙な声で続ける。


「明確な言葉として顕現せず、読めない文字で綴られた、聞き取れない神詩……」


 アムルは黙って頷き、そっと胸に手を当てる。

 水神サリアニスは、まだすべてを赦したわけではない。

 傷はまだ、癒えていない。

 けれど祈りを再び「受け取る」という、小さな始まりだった。


 ――それこそが、「断章」の意味。


 神詩は「答え」ではなく、「祈りの記録」。

 今このとき、確かに、神と人とのあいだに新しい一節が刻まれたのだった。



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