祠の中は水底のようで、音が吸い込まれるような静寂に満ちていた。
そこに、静かに、けれど嘆き悲しむ「声」が響いていく。
アムルは胸を押さえた。
冷たい水が心臓に触れたような、痛みとも切なさともつかぬ感覚。
水音のように漂う女神の残響。
それは、問いかけるように、アムルの心へと染み込んできた。
――なぜ、祈るのか。
なぜ、また人は名を呼ぶのか。
私は、信じて、傷つけられた。
その涙を、癒せるというのか。
その声は、怒りではなかった。
それは、あまりに長く、あまりに深い
アムルは震えながら、けれど一歩、前に進んだ。
彼女の眸に、確かな光が宿っていた。
「……わたしは、あなたの傷を癒せるなんて、簡単には言えません。でも、それでも――」
アムルは胸に手を当てた。
「あなたの悲しみを、知らなかったことのままにしておくのが、嫌なんです。人があなたを裏切ったというなら、今、わたしがその過ちを問い直したい。あなたを呼ぶ声が、全部、裏切りじゃなかったと……そう伝えたくて」
そのとき、砂の奥で淡く水が滲み、アムルの足元に広がるように波紋が走る。
その波紋を見て、アムルは心のどこかで確かに、何かが「応えた」と感じた。
祈りは終わっていない。
けれど、その「共鳴」は始まっていた。
水の中から、淡く光る女神の眸が浮かぶ。
その目にはまだ疑いと傷が残るが、わずかに「こちらを見つめる意志」があった。
ロイクとパンドラも、そっとアムルの背を支えるように立つ。
三人の影が、滲む水光の中でひとつに重なる。
――私は、まだ信じきれない。
だが、今の祈りは、たしかに……
私の名を、汚さずに呼んだ。
女神の言葉が、音ではなく「感覚」として流れ込む。
それは、かつて「祈りを拒絶された神」が、わずかに応じた
アムルはその波に静かに頷き、こう返す。
「ありがとう、サリアニスさま。……たとえ、まだ心の扉が閉じていても、わたしは何度でも呼びかけます。あなたが、その涙をひとしずくでも、泉に戻せる日が来るまで――」
淡い水の光が、微かにアムルの足元を照らし、祠の奥に沈んでいた「泉」の輪郭を、初めて浮かび上がらせた。
それは、希望の形ではなかったかもしれない。
だが、それは「拒絶されなかった祈り」――
いま、アムルの声は、確かに神へ届いていた。
静かな波音が、砂の祠の奥から広がっていく。
アムルの祈りに応えるように、空間が一度、深い青へと染まった。
そして――
淡く浮かび上がったのは、
水面に映るその光景は、七つの泉が満ちる
水が歌い、風が踊り、そこに祈る人々の声は澄んでいた。
女神サリアニスは、記憶と水の守護者として、人々と共に在った。
彼女は泉を通じて世界の記憶を抱え、誰もが失くした想いすらも水面に映して癒した。
けれど――
ある日、その泉が
民のひとりが、失った大切な人の記憶を泉から
記録の水に干渉し、過去を書き換えようとした。
サリアニスはそれを止めた。
記憶は、癒すためにあるものであって、再構築してはならない。
だが――その者は言った。
「神が持つだけでは意味がない。民の痛みを癒せぬ祈りなど、もう要らぬ」
人は、女神の泉を制御しようとした。
そして祈りは、神へ向けられるものではなく、
サリアニスは、全ての泉を沈めた。
人の傲慢と、祈りの「変質」こそが、彼女の傷となった。
(祈りは、私を刺した……)
――そう、女神の心が語っていた。
(そのとき、誰も……止めなかった)
(……誰も、私を庇わなかった)
サリアニスの記憶は、怒りではなく、「喪失」に満ちていた。
そしてその「喪失」こそが、祈りを拒絶した理由だった。
人を信じ、声を聞き、願いに応えた日々――
それがすべて、裏切りで終わったこと。
あの泉で、誰も「祈りの意味」を守らなかったこと。
それが、水神サリアニスの深い「嘆き」となったのだった。
水盤の奥で、淡い青光がひとつの形を取る。
それは、詩の断片――
まだ未完成でありながら、確かに「残された祈り」が結晶しつつある兆しだった。