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第7話 祈りの意味

 祠の中は水底のようで、音が吸い込まれるような静寂に満ちていた。

 そこに、静かに、けれど嘆き悲しむ「声」が響いていく。


 アムルは胸を押さえた。

 冷たい水が心臓に触れたような、痛みとも切なさともつかぬ感覚。


 水音のように漂う女神の残響。

 それは、問いかけるように、アムルの心へと染み込んできた。


 ――なぜ、祈るのか。

 なぜ、また人は名を呼ぶのか。

 私は、信じて、傷つけられた。

 その涙を、癒せるというのか。


 その声は、怒りではなかった。

 それは、あまりに長く、あまりに深いの色をしていた。

 アムルは震えながら、けれど一歩、前に進んだ。

 彼女の眸に、確かな光が宿っていた。


「……わたしは、あなたの傷を癒せるなんて、簡単には言えません。でも、それでも――」


 アムルは胸に手を当てた。


「あなたの悲しみを、知らなかったことのままにしておくのが、嫌なんです。人があなたを裏切ったというなら、今、わたしがその過ちを問い直したい。あなたを呼ぶ声が、全部、裏切りじゃなかったと……そう伝えたくて」


 そのとき、砂の奥で淡く水が滲み、アムルの足元に広がるように波紋が走る。

 その波紋を見て、アムルは心のどこかで確かに、何かが「応えた」と感じた。

 祈りは終わっていない。

 けれど、その「共鳴」は始まっていた。


 水の中から、淡く光る女神の眸が浮かぶ。

 その目にはまだ疑いと傷が残るが、わずかに「こちらを見つめる意志」があった。


 ロイクとパンドラも、そっとアムルの背を支えるように立つ。

 三人の影が、滲む水光の中でひとつに重なる。


 ――私は、まだ信じきれない。

 だが、今の祈りは、たしかに……

 私の名を、汚さずに呼んだ。


 女神の言葉が、音ではなく「感覚」として流れ込む。

 それは、かつて「祈りを拒絶された神」が、わずかに応じただった。

 アムルはその波に静かに頷き、こう返す。


「ありがとう、サリアニスさま。……たとえ、まだ心の扉が閉じていても、わたしは何度でも呼びかけます。あなたが、その涙をひとしずくでも、泉に戻せる日が来るまで――」


 淡い水の光が、微かにアムルの足元を照らし、祠の奥に沈んでいた「泉」の輪郭を、初めて浮かび上がらせた。

 それは、希望の形ではなかったかもしれない。

 だが、それは「拒絶されなかった祈り」――

 いま、アムルの声は、確かに神へ届いていた。



 静かな波音が、砂の祠の奥から広がっていく。

 アムルの祈りに応えるように、空間が一度、深い青へと染まった。


 そして――

 淡く浮かび上がったのは、だった。


 水面に映るその光景は、七つの泉が満ちるいにしえのオアシス。

 水が歌い、風が踊り、そこに祈る人々の声は澄んでいた。


 女神サリアニスは、記憶と水の守護者として、人々と共に在った。

 彼女は泉を通じて世界の記憶を抱え、誰もが失くした想いすらも水面に映して癒した。

 けれど――

 ある日、その泉がとみなされた。


 民のひとりが、失った大切な人の記憶を泉からとした。

 記録の水に干渉し、過去を書き換えようとした。


 サリアニスはそれを止めた。

 記憶は、癒すためにあるものであって、再構築してはならない。

 だが――その者は言った。


「神が持つだけでは意味がない。民の痛みを癒せぬ祈りなど、もう要らぬ」


 人は、女神の泉を制御しようとした。

 そして祈りは、神へ向けられるものではなく、と化していた。

 サリアニスは、全ての泉を沈めた。

 人の傲慢と、祈りの「変質」こそが、彼女の傷となった。


(祈りは、私を刺した……)


 ――そう、女神の心が語っていた。


(そのとき、誰も……止めなかった)

(……誰も、私を庇わなかった)


 サリアニスの記憶は、怒りではなく、「喪失」に満ちていた。

 そしてその「喪失」こそが、祈りを拒絶した理由だった。

 人を信じ、声を聞き、願いに応えた日々――

 それがすべて、裏切りで終わったこと。


 あの泉で、誰も「祈りの意味」を守らなかったこと。

 それが、水神サリアニスの深い「嘆き」となったのだった。




 水盤の奥で、淡い青光がひとつの形を取る。

 それは、詩の断片――

 まだ未完成でありながら、確かに「残された祈り」が結晶しつつある兆しだった。



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