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第十章 教団と光

第1話 第一詩篇の顕現

 空全体を、薄いベールのような雲が覆っていた。

 太陽の輪郭は、まるで霧の奥にある灯火のように滲み、光と影の境界は曖昧で、物の輪郭さえ柔らかくけていた。

 雨が降りそうで降らない、そんな曖昧な空の下。

 風もなく、音もなく、時間さえも、どこか遠退いていた。


 三人は、静かに立ち止まっていた。

 砂漠の灼熱も、密林の蒼さも、峻烈な風も、深い森の沈黙も。

 すべてを越えて、今この場所にいる。


 背には四つの祠の記憶――風、火、水、そして土。

 神々の問いと、その残響が、今なお胸の奥で鳴り続けていた。


 アムルが、ふと口を開く。


「……四つの断章が、こうしてひとつに集まったのね」


 彼女の視線の先、ロイクの腰にある聖剣が、かすかに震え始めた。

 柄に刻まれた四つの紋章――風・火・水・土。

 それぞれが、呼応するように淡く脈動し、色と光が交差する。


「……剣が……震えてる?」


 アムルが小さく息をのむ。

 驚きと、どこか懐かしいような感覚が胸を満たす。

 彼女の額に浮かぶ紋章もまた、微かに光り、共鳴するように震えていた。

 パンドラの手にも、ロイクの手にも、それぞれの紋章が同じように反応を見せる。


「祈りが、呼び合ってるのよ」


 パンドラが静かに囁いた。

 その声音は、どこか夢を見ているようだった。


 現実と幻の境界が溶けていく中で、紋章たちがまるで再会を喜ぶように――

 または、新たな何かを「目覚めさせる」ように、脈動を強めていく。


 ロイクは静かに鞘ごと剣を抜き、捧げ持つように空へと掲げた。

 その動きに、空気が静かに震える。


 光が、溢れ出す。


 風のように囁き、火のように脈打ち、水のように揺れ、土のように沈む――

 四つの力が、ひとつの調和のもとに集い、旋律のように空間を震わせる。


 ロイクの手の中で、剣の中心に紋章が重なり合う。

 それはまるで、神々の祈りを記した譜面のようだった。

 幾何学的な光の陣が浮かび上がり、淡く、しかし確かに輝いた。


「これは……?」


 アムルの声が震える。

 彼女の心の奥が、何か大切な扉の前で高鳴っている。


「四つの断章が、“歌”になろうとしているんだ」


 ロイクが静かに答える。

 その瞬間――空間全体が「音」に包まれた。

 音というより、「意味の共鳴」としか言いようのないもの。

 それは言葉ではなく、旋律でもない。

 ただ、重なった祈りの「意味」が、静かに胸の奥に流れ込んできた。


 ひとつ、またひとつと、声なき言葉が浮かび上がる。


「問いは、風となって運ばれた」

「祈りは、火に焼かれながら形を得た」

「涙は、水底に残りながらも、名を呼び続けた」

「そして土は、それらすべてを抱え、沈黙の中に記した」


 アムルは目を閉じた。

 四つの祈りが、心の奥で交差する感覚。

 風の記憶、火の痛み、水の嘆き、土の沈黙。

 それらが、ゆっくりと一つの調べとなって、魂を震わせる。

 これは、まだ詩ではない。

 だが、確かに「詩の構え」が成されつつある。


 ――第一詩篇アルカ・リリカの胎動。


 聖剣の核が淡く脈打ち、中心に刻まれた結晶の紋が、まるで花のつぼみほころぶように開きかけている。

 それは、鍵であり、扉であり、あるいは、神話の「前奏」だった。


 静かに「はじまり」の気配が空を満たしていた。


 そのとき、空に――遠く、音のない鐘のような震えが響いた。

 それは、誰かが「物語を始める合図」を打ち鳴らしたような音だった。


 それは、神話が始まる「前」に響く、何かの「兆し」。


 大気が震え、空がわずかに軋む。

 雲が裂けるわけでもなく、光が差し込むわけでもない。

 ただそこに、「調律される静けさ」が満ちていた。


 音のない旋律が、聖剣から空へ、空から大地へと降りていく。


 アムルは、その場に静かに膝をついた。

 パンドラもまた、両の手を胸元に重ね、目を閉じる。

 ロイクは剣を掲げたまま、全身で“何か”を受け取ろうとしていた。


 それは、言葉にならない祈りの重奏。


 風の神ゼフェリオスの囁きが、柔らかな導きとなって吹き抜ける。

 火の神カルメルザの鼓動が、燃え尽きたはずの心にもう一度灯を灯す。

 水の神サリアニスの記憶が、ひとしずくの涙として胸を濡らす。

 そして、土の神グラナイオスの沈黙が、それらすべてを抱きとめる。


 そのすべてが重なった瞬間――

 聖剣の中心から、音が「生まれた」。


 それは「音」というにはあまりに静かで、「言葉」というにはあまりに深い――一篇の詩だった。

 けれど、それはどの言語にも属さない。

 どの楽器でも、奏でられはしない。


 それは、四つの祠で刻まれた祈りの残響が、「今ここにいる三人」によって再び「意味」となったものだった。


 浮かび上がるのは、光と影の譜面――

 その一節が、まるで星図のように空に描かれていく。


 《風は問いを運ぶ》

 《火は祈りを焼き尽くす》

 《水は名を忘れぬ》

 《土はすべてを沈め、記す》


 そして最後に、ひとつの語が生まれた。


 詩。祈り。問い。そして記録。

 四つの神性が織りなした、第一詩篇アルカ・リリカ

 それは胸の奥に閃くように舞い降りた「名」。

 アムルが、そっとその言葉を口にする。


第一詩篇アルカ・リリカ……」


 その瞬間、空間が波紋のように揺れた。

 四大元素の断章が重なった剣の中心に、青白い光が凝縮されていく。

 それは、物理的な力ではない。

 けれど、確かに世界の「ことわり」を震わせる何かだった。

 パンドラが言う。


「……これが、“鍵”なのね」


 ロイクが頷く。


「――これは、神と人の祈りを繋ぐ“起点”だ」


 そしてアムルが、胸に手を当てたまま、そっと囁いた。


「わたしたちが、ここに来た意味……全部が、この詩に重なってる気がするの」


 空に描かれた詩篇の断章は、やがて静かに収束し、ひとつの「扉」のような結晶体となって、聖剣の柄へと収まった。


 世界が、静かに次の呼吸を始める。

 それは新たなる祈りを受け入れる、「準備」のようだった。


 ――第一詩篇アルカ・リリカ、顕現。


 神々の交響は、まだ終わらない。

 だが、この瞬間が、神話の「序章」を閉じる音だった。


 そして、物語は次なる問いへと、静かに進み始めていた。



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