空全体を、薄いベールのような雲が覆っていた。
太陽の輪郭は、まるで霧の奥にある灯火のように滲み、光と影の境界は曖昧で、物の輪郭さえ柔らかく
雨が降りそうで降らない、そんな曖昧な空の下。
風もなく、音もなく、時間さえも、どこか遠
三人は、静かに立ち止まっていた。
砂漠の灼熱も、密林の蒼さも、峻烈な風も、深い森の沈黙も。
すべてを越えて、今この場所にいる。
背には四つの祠の記憶――風、火、水、そして土。
神々の問いと、その残響が、今なお胸の奥で鳴り続けていた。
アムルが、ふと口を開く。
「……四つの断章が、こうしてひとつに集まったのね」
彼女の視線の先、ロイクの腰にある聖剣が、
柄に刻まれた四つの紋章――風・火・水・土。
それぞれが、呼応するように淡く脈動し、色と光が交差する。
「……剣が……震えてる?」
アムルが小さく息をのむ。
驚きと、どこか懐かしいような感覚が胸を満たす。
彼女の額に浮かぶ紋章もまた、微かに光り、共鳴するように震えていた。
パンドラの手にも、ロイクの手にも、それぞれの紋章が同じように反応を見せる。
「祈りが、呼び合ってるのよ」
パンドラが静かに囁いた。
その声音は、どこか夢を見ているようだった。
現実と幻の境界が溶けていく中で、紋章たちがまるで再会を喜ぶように――
または、新たな何かを「目覚めさせる」ように、脈動を強めていく。
ロイクは静かに鞘ごと剣を抜き、捧げ持つように空へと掲げた。
その動きに、空気が静かに震える。
光が、溢れ出す。
風のように囁き、火のように脈打ち、水のように揺れ、土のように沈む――
四つの力が、ひとつの調和のもとに集い、旋律のように空間を震わせる。
ロイクの手の中で、剣の中心に紋章が重なり合う。
それはまるで、神々の祈りを記した譜面のようだった。
幾何学的な光の陣が浮かび上がり、淡く、しかし確かに輝いた。
「これは……?」
アムルの声が震える。
彼女の心の奥が、何か大切な扉の前で高鳴っている。
「四つの断章が、“歌”になろうとしているんだ」
ロイクが静かに答える。
その瞬間――空間全体が「音」に包まれた。
音というより、「意味の共鳴」としか言いようのないもの。
それは言葉ではなく、旋律でもない。
ただ、重なった祈りの「意味」が、静かに胸の奥に流れ込んできた。
ひとつ、またひとつと、声なき言葉が浮かび上がる。
「問いは、風となって運ばれた」
「祈りは、火に焼かれながら形を得た」
「涙は、水底に残りながらも、名を呼び続けた」
「そして土は、それらすべてを抱え、沈黙の中に記した」
アムルは目を閉じた。
四つの祈りが、心の奥で交差する感覚。
風の記憶、火の痛み、水の嘆き、土の沈黙。
それらが、ゆっくりと一つの調べとなって、魂を震わせる。
これは、まだ詩ではない。
だが、確かに「詩の構え」が成されつつある。
――
聖剣の核が淡く脈打ち、中心に刻まれた結晶の紋が、まるで花の
それは、鍵であり、扉であり、あるいは、神話の「前奏」だった。
静かに「はじまり」の気配が空を満たしていた。
そのとき、空に――遠く、音のない鐘のような震えが響いた。
それは、誰かが「物語を始める合図」を打ち鳴らしたような音だった。
それは、神話が始まる「前」に響く、何かの「兆し」。
大気が震え、空がわずかに軋む。
雲が裂けるわけでもなく、光が差し込むわけでもない。
ただそこに、「調律される静けさ」が満ちていた。
音のない旋律が、聖剣から空へ、空から大地へと降りていく。
アムルは、その場に静かに膝をついた。
パンドラもまた、両の手を胸元に重ね、目を閉じる。
ロイクは剣を掲げたまま、全身で“何か”を受け取ろうとしていた。
それは、言葉にならない祈りの重奏。
風の神ゼフェリオスの囁きが、柔らかな導きとなって吹き抜ける。
火の神カルメルザの鼓動が、燃え尽きたはずの心にもう一度灯を灯す。
水の神サリアニスの記憶が、ひとしずくの涙として胸を濡らす。
そして、土の神グラナイオスの沈黙が、それらすべてを抱きとめる。
そのすべてが重なった瞬間――
聖剣の中心から、音が「生まれた」。
それは「音」というにはあまりに静かで、「言葉」というにはあまりに深い――一篇の詩だった。
けれど、それはどの言語にも属さない。
どの楽器でも、奏でられはしない。
それは、四つの祠で刻まれた祈りの残響が、「今ここにいる三人」によって再び「意味」となったものだった。
浮かび上がるのは、光と影の譜面――
その一節が、まるで星図のように空に描かれていく。
《風は問いを運ぶ》
《火は祈りを焼き尽くす》
《水は名を忘れぬ》
《土はすべてを沈め、記す》
そして最後に、ひとつの語が生まれた。
詩。祈り。問い。そして記録。
四つの神性が織りなした、
それは胸の奥に閃くように舞い降りた「名」。
アムルが、そっとその言葉を口にする。
「
その瞬間、空間が波紋のように揺れた。
四大元素の断章が重なった剣の中心に、青白い光が凝縮されていく。
それは、物理的な力ではない。
けれど、確かに世界の「
パンドラが言う。
「……これが、“鍵”なのね」
ロイクが頷く。
「――これは、神と人の祈りを繋ぐ“起点”だ」
そしてアムルが、胸に手を当てたまま、そっと囁いた。
「わたしたちが、ここに来た意味……全部が、この詩に重なってる気がするの」
空に描かれた詩篇の断章は、やがて静かに収束し、ひとつの「扉」のような結晶体となって、聖剣の柄へと収まった。
世界が、静かに次の呼吸を始める。
それは新たなる祈りを受け入れる、「準備」のようだった。
――
神々の交響は、まだ終わらない。
だが、この瞬間が、神話の「序章」を閉じる音だった。
そして、物語は次なる問いへと、静かに進み始めていた。