(2001年8月10日)
「ねーちゃん、プール連れてってよー」
セミの鳴き声がやかましい。
動かなくてもジワリと噴き出す汗を不快に思いながら俺は姉に話しかけた。
「栄人君に連れてってもらえば?」
「なんか忙しいって断られた」
隣の市にある市民プールに行くためには、この春運転免許を取得した6歳上の『夏樹』に頼むのが一番手っ取り早い。
「ダーメ。あんたまだ宿題残ってるんでしょう?」
「それに雪乃が夏風邪ひいてるから無理」
姉は白いタンクトップの胸元を持ち上げうちわで扇ぎながら面倒くさそうに言い放った。
佐山夏樹、20歳。
隣町の看護師の専門学校に通う、我が家のカーストナンバーワンに君臨する暴君だ。
やや茶色がかった髪をポニーテールでまとめ、きりっとした眉とやや吊り上がり気味の目は大きく、意志の強そうな瞳が気怠そうな色をたたえている。
鼻は高く形のいい唇がバランスよく配置されている顔は見た目だけなら美しいのだろう。
調子に乗るので絶対言わないが。
弟の前とはいえノーブラタンクトップという姿には、思春期突入間もない光喜としては「やめていただきたい」といつも思っていた。
目に入る、うちわを仰ぐたびに揺れるたわわなものに、思わず顔を赤らめそっぽを向いてしまい、まずいと思った時にはすでに時遅し。
姉の表情が獲物を見つけた猫みたいに変わり突然抱き着いてきた。
「♪おやおやー?なーに?ねーちゃんのおっぱい見て欲情してるのー?ん-?」
「っ!ち、ちげーし。つか暑いわ!離れろー!」
「いいよー♡かわいい弟が女の体に興味持ち始めてお姉ちゃん嬉しー。ほれ、ほーれ」
もみくちゃにされながらも、さんざん抵抗しなんとか振りほどいた俺は自分の部屋に駆け足で逃げ込んだ。
姉の体の柔らかさと、少しの汗の匂いと、夏みかんみたいな良い匂いにドキドキする心臓の音を聞かれたくなくて…
そんな当たり前の日常が、あんなにあっさりなくなるなんて思わなかったんだ。
中学2年の夏休み、姉の夏希は交通事故で亡くなった。
少し夜更かしした俺を連れてコンビニに行く途中で、飛び出してきた猫を避けて直進してきたトラックと衝突したのだ。
※※※※※
長い長い夢を見ていた。
永遠とも取れる悠久の時間を過ごしもがいている、俺だけど俺じゃない男が悪戦苦闘する様を。
徐々に浮上する意識とともに、霧散するようにその記憶は失われていくのだった…
※※※※※
丸一日意識がなかったらしいが、俺は奇跡的に軽傷だった。
衝突の瞬間、姉が俺を窓の方へ押してくれたからだ。
運ばれた当初は全身ボロボロに見えたそうだが、病院に着いたら殆ど怪我をしていなかったらしく、救急隊の人がびっくりしていたらしい。
病院のベッドの上で目が覚めた俺に、母親が泣きながら姉が亡くなったことを教えてくれた。
時間の経過が分からなかった俺はさっきまで口げんかした姉がもういないことが信じられなかった。
そして無意識に願った。
姉ちゃんに会って謝りたい。
俺がコンビニ行きたいなんて言ったから…
姉ちゃん…姉ちゃん…ごめん、なさい…
俺の傍らで見たことのない小さな黒い石が白銀に揺らめき消えていったことに気が付かないまま。
その後退院した俺は、話を聞いて慌てて家に来てくれた栄人兄ちゃんに思わず抱きついて二人で大泣きした。
栄人兄ちゃん、姉ちゃんのこと好きだったって…
そしてそのあと俺は、心の中の何か大切なものが欠けたような感じで、どんどん他人が怖くなっていった。
嫌なことが毎日のように起こるようにもなったんだ。
※※※※※
上下も左右も分からない、うっすらとした柔らかい膜のようなものがどこまでも広がる場所で、仄かに光る繭のようなものが数えきれないほど浮いていた。
それはさらに増えたり、やがて溶けるように消えていくようだ。
その中に増えた直後の一つの繭が瞬き、漆黒の光に包まれ突然消失した。
消失した場所にゆらめく白銀の残滓を残して。
そんな事がありながらも、他に影響はなく同じ光景がただ繰り返されていく。
時間の経過も分からないような中で、やがて消えるのだろう、徐々に薄くなっていくものに、残滓のように残っていた白銀のもやから漆黒のひものようなものがまるで保護するかのように優しく絡まり姿を消した。
他の繭のようなものはそんなことには影響されずにただ増え、ただ溶けるように消えていく事を繰り返していくのだった。
ずっと……ずっと。
※※※※※
(????年??月??日)
そこは何もない場所だった。
明るいのか暗いのか暑いのか寒いのか触れているのか触れていないのか。
ただ、何もなかった。
でも…
突然中にあるどこかから声が聞こえたような気がした。
「ねえ…ちゃん……」
それからは感知できなくなり、存在が揺らいだこともあった。
いつでも漆黒の魔力が守ってくれていた。
おそらく。
知覚出来ないのだ。
もしかしたらそう願っていただけなのかもしれない。
長い時間を経てソレは徐々に思考と呼ぶべきものを認識し始め、不思議な力に守られ続け、やがて意識をつなぎ、魔王ノアーナの創造した世界とは別の次元で大いなる『運命の女神』となる『ナニカ』が誕生した。
時間の概念がないこの摂理の中で、100万年前なのか、10万年前なのか、それとも昨日なのか。
いつから存在していたか全く認識できていなかった『ナニカ』はついに覚醒の時を迎える。
『ナニカ』は、佐山夏樹だったモノに、魔王ノアーナの魔力が取り付き守り、そしてついに光喜とネルによって発現した『根源魔法』により顕現する。
動き出す運命の女神ナツキ。
魔王ノアーナ、佐山光喜が本当に望むもの。
傍観者として、憎らしくもかわいい不器用な弟のため。
様々な因果に囚われたいくつかの魂を導くため。
すべてを凌駕する、あり得ないほど強い他者へ向けられる想いを紡ぐ源泉として。
世界の壁をまたぎ、動き続ける悪意の波動を消し去って。
悠久の時間、前進し続けた想いの陰に隠れた『悪意の欠片』が暗躍しすべてを飲み込む直前に逆転につながる大いなる力が目覚めた。