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第18章:二つの顔

勝利の栄光は、それを達成した人々の心の奥底に本当にあるものを覆い隠してしまうことがある。拍手や祝福は、期待や失敗への恐れ、失望させてはいけないというプレッシャーといった、より深い緊張を隠すカーテンに過ぎないこともあります。


ノークは歓喜に沸いた。最初の戦いは終わり、結果は彼らに有利だった。しかし、チームメイトたちがコウの名前を連呼すると、コウは拍手よりも自分の考えの方が重かったかのように、うつむいた。勝利は必ずしも負担を軽減するわけではありません...時には負担を増やすだけです。


世界の別の片隅では、エデンは眉をひそめながら本のページをめくり、他人の言葉の中に答えを探していた。これからの戦いで危機に瀕しているのは、彼のプライドや学校の評判だけではありません。それは、何も持たずに帰ることはないという彼自身との約束なのです。たった一度の戦いで、すべての過去を償うことができるのか?正確な一撃は運命を変えられるのか?


一方、アフロディーテは風呂の静寂の中で考え事をしていた。戦いのことではなく、瞬が希望を託した少年のこと。エデンは最も強いわけでも、最も賢いわけでもなかったが、彼の眼差しにはゲンを思い出させるものがあった...抑えられた痛みと容赦ない決意の混ざったもの。たぶん、勝ち負けの問題ではないのでしょう。おそらく本当に重要なのは、寒さの中で火を灯そうと決心することなのでしょう。


なぜなら、時には最大の敵は私たちの目の前にではなく、私たちの内側に潜んでいるからです。そして彼には顔も剣もありません。ただそれだけでは十分ではないと何度も繰り返す声。僕たちは成功しないだろう。我々は失敗するだろう。


しかし、その声さえも沈黙させられる可能性がある。


—————————————————————————————————————————————————————————


観客の歓声が、氷に覆われた闘技場の壁にこだました。歓喜と誇りを込めた「コウ」の名が、呪文のように繰り返される。ノーク学院の生徒たちは、彼を肩に担ぎ、腕を高く掲げながら学院の旗を振り、勝利の興奮に包まれていた。




その中心で、レイが拳を突き上げる。




「次も勝つぞ!!」




その叫びは、周囲の興奮をさらに燃え上がらせた。




だが、その場にいる全員が同じ熱狂を共有していたわけではなかった。ほんの数歩離れた場所で、コウは腕を組んだまま、うつむいていた。勝者とは思えないその顔には、遠くを見つめるような虚ろな表情が浮かんでいた。




「どうした、ナイ。浮かない顔だな?」とレイが眉をひそめて尋ねた。




コウは返事をしない。ただ、さらに顔を伏せ、目に届かないような無理な笑みを浮かべた。




――数分前のことだった。




舞台裏の廊下は薄暗く、レイが気楽な仕草で去ってから、ほんのわずかな間の出来事だった。コウがようやく息を整えたそのとき、ナイがその場に立ちふさがっていた。




言葉を交わす間もなく、ナイの指がコウの首を締めた。




「なっ……ナイ、なにをしてるんだ……!」




「それは俺のセリフだ」とナイは低く唸るように言い、怒気を抑えた顔でコウに迫る。「どうして苦戦してやがった?」




「な、何の話だよ! 放せって!」




ナイの手はさらに強く締まった。




「躊躇したな? アイツを潰すことに。」




必死にもがくコウ。




「ちょっと楽しんでただけだよ……何が悪いんだ?」




「楽しんでた? ふざけるな」




ナイは片手でコウを持ち上げ、そのまま壁に叩きつけた。鈍い音が廊下に響いた。




「お前が負けてたら、俺たちは屈辱を味わう羽目になってたんだぞ。覚えておけ。このチームに、弱者の居場所はない」




ナイはそれだけを言い残し、コウを冷たい床に残して立ち去った。




――現在。




観客の歌声が鳴り響き、レイが無邪気に歓喜を叫ぶ中、コウは唾を飲み込んだ。ナイのあの声が、耳から離れない。




「……勝たなきゃ、マズいな……」




顎をわずかに震わせながら呟いた。




視線をレイへと向ける。今も高々と腕を上げ、誇らしげに笑っているその姿を見て、コウはかすかに微笑んだ。




「頑張れよ、レイ……あいつの“裏の顔”なんて、見ないで済むといいな」




エデンの部屋には、いつになく静けさが漂っていた。カーテンはわずかに開いており、夕方の淡い光が彼の沈んだ表情を照らしていた。本は膝の上に開かれていたが、視線は文字ではなく、窓の外に広がる空虚に注がれていた。




「もしこの力を手に入れることができたなら……」




そう呟きながら、ページをめくる。しかし読むことはなかった。彼の思考はすでにここにはなかった。闘技場。明日の戦い。そして、そこに懸けられたすべて。




「もし俺が負けたら……何も残らないまま帰ることになる」




手がシーツを強く握る。深く息を吸い込む。




「勝たなきゃ。絶対に……シュウのために、アイザックのために、そして俺自身のために」




一方、宿の奥では、大理石の湯船を打つ水音が静かに響いていた。アフロディーテは目を閉じ、湯に身を沈めていた。一瞬だけでも責任の重みから解き放たれたかった。




(次の試合は絶対に勝たなければ……でも、すべては彼にかかっている)




蒸気に曇った天井を見上げる。




(彼は……本当にその力を制御できるの? シュン……あなたは本当に、あの子に全てを託したの?)




控えめなノックの音が思考を遮る。




「誰?」




「俺だ。……少し、力を借りたい」




その声に、彼女は小さくため息をついた。




「入っていいわ」




短い会話の後、エデンは部屋を去った。残されたアフロディーテは、ぬるくなり始めた水面を見つめていた。




「本当に、あなたにそっくりね……ゲン。立派に育てたわね」




そっと目を閉じ、記憶の余韻に身を委ねる。




(まさか、あの技を使うなんて……オーディンは彼に、いったい何を見せたの?)




――――――――――




宿の裏手にある開けた雪原に、冷たい空気が支配する頃。エデンはひとり、祖父の剣を雪に突き立てて立っていた。




目を閉じ、呼吸を整える。




「集中しろ……力の流れを感じるんだ」




微かな震えが体を走り、闇が彼を包み始めた。魔の力が内から湧き上がり、腕を、脚を、そして剣を覆う。




「今だ!」




閃光の中で、剣はその力を吸い込み、まるで命あるかのように脈動する。




しかしその瞬間、心臓が止まるような感覚に襲われた。




世界が白に染まり、膝が崩れる。




呼吸が奪われ、雪に崩れ落ちた。




「……くそっ」




雪に顔を埋め、苦しげに息を整える。




「制御しきれない……でも、あと数日で仕上げなきゃ……でなければ、俺は……」




その時、雪を踏む音が彼の意識を引き戻した。




「なかなか、やるじゃないか」




バルドルが木々の間から現れた。ポケットに手を入れ、穏やかな笑みを浮かべている。




「数日前とは別人のようだ。何があった?」




「別に、何もないさ」




そう答えながら、エデンはゆっくりと立ち上がる。




バルドルは数歩近づき、彼をじっと見つめる。




「何かを試してるんだろう? 手伝いが必要じゃないか?」




「……かもな」




「なら、心当たりがある。少し変わった知り合いがいるんだ」




「誰だ?」




「昔の友人だよ。……ただ、今は動けるかどうかはわからないけどね」




「ありがとう。でも、なぜそんなことを?」




バルドルは空を見上げた。




「さあ……多分、心残りなく旅を終えるためさ。できる限りの人を助けてからね」




「でも、俺はお前の敵だろ」




「俺に敵はいない。ただのライバルさ。そして君は、いい奴に見える」




エデンは目を伏せる。




「俺は……違う」




「ふむ、なら俺の勘違いだな。でもそれでいい」




思わず笑いがこぼれる。




バルドルは一歩前に出て手を差し出す。




「行こうか?」




「どこへ?」




「決まってるだろ? 俺の古い知り合いに会いに」




そう言って彼は光のポータルを開いた。エデンは一瞬だけ迷い……そして、その中へ足を踏み入れた。




世界が、変わる。




ポータルを抜けた瞬間、鋭く冷たい突風がエデンの体を打った。乾いた氷気が骨の奥まで染み込み、呼吸さえも痛みに変わる。目の前には陰鬱な景色が広がっていた。闇に沈む山々は霧の中に溶け込み、大地は霜に覆われ、時が永遠の冬の中で凍りついたかのようだった。




「ようこそ、ヘルヘイムへ」




バルドルは振り返らずに言った。




「ここが……冥界なのか?」


エデンは呟きながら、一歩前に出た。温度の急激な変化に身体がついてこない。




「ああ。君の想像とは違ったろう?」




「てっきり、もっと……暑い場所だと」




「ここの主は、熱を嫌うんだ」




エデンの視線は、辺りを彷徨う骸骨たちに移った。岩陰を漂うように歩く彼らは、声を上げることもなく、叫ぶこともなく、ただ存在していた。




「彼らは……どうなってるんだ?」




バルドルは悲しみをたたえた目で彼らを見つめた。




「何も……それが一番恐ろしいことだ」




重く沈んだ沈黙が流れる中、その静寂を裂くように、鋭く、ざらついた声が響いた。




「何の用だ、バルドル?」




暗闇から現れたのは、ひときわ威圧感のある人物だった。肌は霜のように青白く、瞳は氷のように透き通りながらも冷酷さを帯びていた。長く霧のような白髪が黒い骨飾りのローブに流れている。




「ヘラ……」




バルドルは頭を垂れ、かすかに微笑んだ。




「……古い友よ」




「その呼び方は許さないわ」


ヘラの声は冷たく突き刺さる。




「……すまない」




二人の間に張りつめた空気が走る。エデンは一言も発さず、息を殺して見守った。




「何の用かしら?」




「お願いがあって来た」




「断る」




「話くらいは……彼のためなんだ」




バルドルは顎を軽く動かし、エデンを示した。




ヘラは視線をそちらに向けたが、無表情のままだった。




「断るって言ったでしょ」




「……なんでもする」




その言葉に、ヘラの瞳がわずかに細められた。




「なんでも?」




「……ああ」




沈黙。氷のような沈黙。ヘラはじっと彼を見つめ、そして短く吐息をついた。




「……君、その子に随分入れ込んでるのね」




「かもしれない」




「わかったわ。何を望むの?」




「彼に稽古をつけてほしい」


バルドルの声は穏やかだった。




「君の力と、彼の力は……近い。君以上の教師はいない」




ヘラはエデンをじっと見下ろした。その視線は彼の肉体ではなく、魂の奥を覗き込むようだった。




一瞬だけ、氷のような冷たさが増す。




「……今は無理」


彼女は言い捨てた。




「トーナメントが終わってからなら……それくらいはしてあげるわ」




「ありがとう、ヘラ」




バルドルの表情にほっとした安堵が滲んだ。




ヘラは答えず、ただエデンにまっすぐ目を向けた。




「お前が……あの“悪魔の子”か」




その言葉には、鋭い観察と重い問いが込められていた。




「バルドルは、お前の何を見た? ……それより――お前自身は、何を隠している?」




エデンはその視線を真っすぐ受け止めた。言葉はなかった。




「……行くぞ」




バルドルが言い、再びポータルを開いた。




ふたりは光の中に消えていった。




――氷の玉座の前、ヘラは微動だにせず立ち尽くす。




その背後、影がうねり、一つの存在が姿を現す。




「私も、同じ問いをお前に投げたいのだが、父よ」




ヘラは振り返らずにそう呟く。




ロキが闇の中から現れ、不敵な笑みを浮かべた。




「……お前には分からんさ」




「それほどの存在か……?」




「――その目で確かめるといい」




ロキはそのまま、闇と共に消え去った。




夜がアスガルドを包み込んでいた。黄金の屋根の上に星々が瞬き、静けさが街を覆う。しかし、宮殿の内部には、重く濃密な気配が漂っていた。




バルドルは大理石の柱に背を預け、荒く呼吸していた。夢の残像がまだ脳裏を離れず、胸元に震える手を当てる。




「……まただ」




呟きは吐息のように消え、影たちがその声に耳を澄ますかのように、壁に沿って長く伸びた。




「バルドル……何があった?」




背後から聞こえたのは、よく知る重みのある声だった。オーディンが現れた。旅の塵を纏ったその姿には、疲労と決意が同居していた。




バルドルは姿勢を正し、しばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。




「……また見たんだ。僕の“死”を」




その言葉に、オーディンの顔がわずかに歪んだ。答えを返さず、ただ頷く。その眼差しには、言葉にできぬ真実が宿っていた。




「でも……今回は違った」


バルドルは視線を落とす。




「冷たさを感じた。血のぬくもりも。……母さんの嘆きも」




「その名を口にするな」


オーディンの声が低く震える。まるで、その一言が彼の心を引き裂くかのように。




「……まだ、お前の時ではない」




「もし、そうだったら?」


バルドルの声は穏やかだったが、重かった。




「もし、運命に抗えないとしたら?」




「ならば……書き換えるまでだ」




沈黙。約束にも似たその言葉は、雷鳴よりも重く響いた。




しばらくして、バルドルがふと父を見つめた。




「……どこへ行っていた?」




オーディンは一瞬、答えを躊躇ったが、やがて静かに口を開いた。




「ヘルヘイムへ……そして、ニヴルヘイムにも」




バルドルは目を見開く。




「そこまで……心配しているのか」




「私はもう……二度と息子を失いたくない」


その声音は、神のそれではなかった。ひとりの父の決意だった。




「……そして、言われたのだ」




「何を?」




「お前は死ぬ、と」




バルドルは目を閉じた。




「じゃあ……それが運命か」




「違う!!」


オーディンの叫びが宮殿を震わせた。




「私は認めない! お前がラグナロクの幕開けなどと、断じて許さぬ!」




バルドルは一歩、父に近づいた。




「でも、もし……それが必要な犠牲だったら?」




「私に犠牲の語りをする気か!」


オーディンの瞳が怒りと痛みに揺れる。




「この世界のために、私は全てを捧げてきた。だが、子まで失うつもりはない」




「……でも、今度ばかりは“君の望み”じゃなく、“世界の必要”かもしれない」




その一言が、オーディンの動きを止めた。




バルドルは見た。自分の父の中に、かつて見たことのない感情――“恐れ”を。




「……私は、お前を死なせはしない」


オーディンはそう誓い、踵を返すと闇へと消えていった。




バルドルはその背を静かに見送った。




ひとりになったとき、彼はそっと夜空を仰いだ。




「……運命を決めるのは誰なんだ?」


「神か。預言者か。それとも……死そのものか」




遠くで、風が旗を揺らした。




その瞬間――




誰にも気づかれぬよう、宮殿の壁に、ひとつの小さな“亀裂”が生まれていた。




________________________




視点が切り替わる。




闇に包まれた私室の中、オーディンはひとり、完全に静止していた。




拳を握りしめたまま、目の前の夜に言葉を投げかける。




「……いいや」


「……私が、それを許すものか」




その声に呼応するように、風が唸った。




神々すら震わせる、世界の意志のような風が。




「ラグナロクを……私は起こさせない。絶対にだ……」




その言葉と共に、部屋の奥、巨大な壁画が映し出される。




そこには、ひとつの運命が描かれていた。




黒き太陽。崩れゆく橋。血に染まる神々。


そして――“死すべき神の名”が刻まれていた。




その名は、バルドル。

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