————京へ向かう道中
江戸から出てすぐの事だった。
土と岩が唸りをあげ、轟音が谷間に響き渡る。
風が巻き上がり、細かな砂利が舞った。
一瞬のうちに視界が霞み、浪士たちの足元が揺らぐ。
「危ねぇッ!!」
声が割れ、誰かが叫んだ。
しかし、足を取られた浪士はもがきながら、斜面を転げ落ちそうになっている。
周囲は動けず、ただ見守るしかなかった。
時間が止まったように、空気が張りつめる。
その時、誰よりも早く動いたのは、椿だった。
白い巫女装束は泥にまみれ、裾は跳ね上がり、素足はぬかるみに沈む。
しかし彼女の動きは迷いなく、鋭く、確かだった。彼女は滑る足で勢いをつけ、泥の中を飛び込む。
「っ、手を——!」
必死に伸ばされた小さな腕が浪士の手首を掴んだ。
崩れそうな斜面を見つめる浪士の視線は、いつしか、その小さな背中に釘付けになった。
「おい……、誰か助けを呼べ!」
「縄を……、縄がいる!」
浪士の体重に引きずられそうになりながらも、彼女は手を離さなかった。
筋肉に力が入る。爪が手首に食い込む。
「離せ! お前まで……!」
恐怖と焦りが声に滲む。
「……嫌。手を離すなら、死んだ方がマシだ。」
轟音と土煙の中、斜面で必死に浪士の手を掴む椿。その小さな腕がじわじわと力尽きそうなとき——
「おい、椿! 手ぇ離せ!」
背後から低く鋭い声が響いた。
それは山崎烝だった。彼の黒羽織が風を切り裂き、泥の中をまるで疾風のように駆け抜ける。
短刀を片手に抜き放ち、彼は斜面に飛び込んだ。膝をついて足元の土をしっかりと捉え、滑る足で一気に浪士の脇を抱き寄せる。
「俺に任せとき!」
その声は冷静だが、揺るぎない命令だった。
山崎の鋭い視線が浪士と椿を交互に捕らえ、瞬時に状況を把握する。それと同時に、椿は、胸元をキュッと握りしめた。
彼は浪士の体をしっかり抱き上げると、手早く腰の縄を取り出し、手際よく巻きつけた。
その動きはまるで、何度も繰り返された修練の賜物のように、迷いがなかった。
「椿、今だ! 縄掴め!」
泥だらけの椿の目に、一瞬の覚悟が光る。
彼女はすぐに縄を握りしめ、山崎は力強く地面を蹴った。
山崎の力強い引き上げに呼応して、浪士たちも縄を引き上げ始める。
土煙が巻き上がり、みるみる斜面が安定していく中、山崎の背中はまさに“風”そのものだった。
彼の動きに無駄はなく、ただ一つ、確かな目的だけがあった。それは仲間を救うこと。
――そして、彼の目に映ったのは、泥にまみれながらも命を懸け仲間を助けようとした椿の姿だった。
その瞬間、助けられた浪士の胸に熱い感情が走る。
(あいつは、ただの姫や巫女じゃない――仲間だ。)
やがて浪士は安全な地へと引き上げられ、山崎は椿の手を軽く掴んで支えた。
「……よう、やった。」
短く言葉をかけながら、彼の視線は彼女の泥だらけの顔をじっと見つめる。
その目には言葉にならぬ想いが宿っていた。
椿は軽く咳き込みながらも、目を伏せて小さく笑う。
「……ありがとう、烝」
その声はかすかだったが、確かに彼の心に届いた。
浪士たちもまた、黙ってその光景を見守り、尊敬の念を新たにしていた。
椿はその場に膝をつき、泥まみれの手で口元を覆っていた。
「椿……?」
呼びかけた山崎の声に、椿は応えなかった。
代わりに、かすれた呼吸が微かに耳に届く。
「……っ、けほっ……けほ、けほっ」
喉を引っ掻くような乾いた咳。
浅く短い呼吸が、間を詰めていく。
彼女の背中が、苦しげに上下していた。
「……あかん、来よったか」
山崎の顔色が変わった。
彼だけは知っている。
椿が、無理を重ねたあとに時折襲われる“あれ”を。
「おい、どうした! 姫さんが……!」
「おい誰か水持ってこい!」
浪士たちがざわめく。だが、どうしていいか分からず、動きが鈍る。
そのなかで、ただ一人、山崎だけが迷わなかった。すぐに椿の背に回り、膝に抱え込むようにして支える。
「深呼吸せぇ、ちぃ……落ち着け。俺がいる」
泥のついた髪をかき分け、手のひらで背を擦る。
「大丈夫や、もう誰も死なん。もう掴まんでええ。ええから、息せぇ」
その指先は震えていた。だが、声は決して弱くならなかった。
椿は、荒く短い息を繰り返しながら、必死に目を閉じ、山崎の声に意識を集中させる。
少しして漸く、息の苦しさが少しずつ和らいでいく。喉の奥で擦れた音が止まり、代わりに肩の震えだけが残った。
山崎は、抱きしめるように椿の身体を包み、耳元で小さくつぶやいた。
「……無理すんな言うたやろ」
彼の声は、今にも崩れそうだった。
「命、賭けるんは最後でええ。まだ先があるんやから」
それでも、涙も怒りもすべて飲み込んで、ただ静かに、椿の息が戻るのを待った。
彼女が発作を起こすまで、誰も想像していなかった。あの娘が、あの時、どれほどの無理をしていたのかを
「ありゃ、喘息か。あんな身体で、あそこまで……」
原田がぽつりと呟く。
「……命、懸けてたんだな。ほんとに」
藤堂は、黙って握りこぶしを強くした。
そして永倉は、遠くから見ながら、ただ目を伏せた。
「本物の“覚悟”ってやつを……見せられたな」
椿の呼吸がようやく整い、かすかに瞼が開かれた。
まだ全身の力は抜けたままで、視線も定まらない。
それでも、傍にいる気配に気づいた彼女は、ゆっくりと顔を上げる。
山崎の顔が、すぐ近くにあった。
泥だらけで、濡れた髪が頬に張り付き、眉間には深い皺が寄っている。
(怒ってる……)
そう思った瞬間、椿は唇をかすかに動かした。
「……ごめ……ん、なさい」
それは、声とも言えぬほど弱い響きだった。
けれど、確かに謝罪だった。
咄嗟に手を伸ばし、誰かを救おうとしたこと。
無理を押して、限界まで動いてしまったこと。
結果として、自分が倒れて皆を騒がせたこと──そして、何よりも彼に心配をかけたこと。
すべてを詰め込んだ「ごめんなさい」だった。
けれどその瞬間。
「……アホか、お前は」
山崎が低く、呟くように言った。
怒っていた。
それは怒鳴るような怒りではなく、胸の奥でぐつぐつ煮えたぎるような、深い怒りだった。
彼は俯いた椿の額に、自分の手のひらをそっと当てた。
泥の感触も、熱も、すべてを感じる掌で、撫でるように。
「……お前が謝る筋合いなんか、どこにもないわ」
震える声だった。
けれど、決して壊れはしなかった。
椿はもう何も言わなかった。
ただ、弱々しくその目を閉じると、小さく頭を彼の掌に預けた。
その瞬間、山崎は椿の頭を、もう一度、そっと撫でた。
それは怒りでも許しでもない。
ただ、「お前が生きてて良かった」と、そう伝える手だった。
そして、誰にも聞こえぬように、ぽつりと呟いた。
「……死ぬなや。絶対に」
その声は、涙を押し殺すように、静かだった。
椿は、俯いたまま泥まみれの手を見つめていた。
さっきまで、仲間を救うために伸ばしていた手。
今は、自分の命すら握りしめられないほどに、震えていた。
そして――
「馬、乗れんか?」
山崎が、視線を落とさずに言った。
椿は一瞬、困ったように眉を寄せたが、ゆっくりと頷いた。
**
周囲の隊士たちは、既に出発の準備に戻っていた。
それぞれが、椿の名を遠巻きに囁きながら。
山崎は、黙って椿を抱き上げた。
抗う力は、彼女には残っていなかった。
少し冷えた身体を抱き寄せると、その細さに、山崎はまた無性に腹が立った。
「これ以上、無理さすなよ……」
ぼそりと呟いて、馬の腹に脚をかける。
椿を自分の前に乗せると、彼女の背が、すっぽりと胸に収まった。
髪にはまだ泥が残り、肌は薄く冷たかった。
それでも椿は、背を真っ直ぐにして、前を見据えていた。
「ちぃ」
「……うん」
「また、なんかあったら」
「言う。すぐ言う」
「……嘘つけ」
「……うそ、つくかも」
正直だった。
だからこそ、山崎は溜息をつく。
「ほな、俺が全部見張っとく。お前が黙っても、勝手に読むわ」
「読めんの?」
「読める」
少しだけ間が空いて、椿の背中がふるりと揺れた。
それが、笑ったせいだと気づくまでに、数秒かかった。
山崎は、ふっと鼻で笑ってから、馬の腹を軽く蹴った。
夕陽が射してきていた。
冷たい風が、馬の歩みに合わせて二人の間を撫でていく。
椿は、背後のあたたかさに身を委ねながら、小さく囁く。
「……ありがと、烝」
その言葉に、山崎は何も返さなかった。
ただ、片手を伸ばして、椿の頬にかかる髪をひと筋、風から庇うように整えた。
馬の背に揺られながら、椿のまぶたは徐々に重くなっていった。疲れ切った体が静かに力を抜き、ついには深い眠りへと沈み込む。
彼女の小さな体はふわりと山崎の胸元に寄りかかり、暖かな体温が伝わる。その重みは決して負担ではなく、むしろ守るべきものの存在を実感させた。
山崎はゆっくりと呼吸を整え、無言のまま椿を抱きしめる。
馬の蹄音が静かに響く中、彼の目は遠くを見つめていたが、その視線は確かに椿を捉えていた。
風がひと吹き、彼の黒羽織を揺らす。
その背中に、椿の穏やかな寝息だけが寄り添っていた。