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第27話

————京へ向かう道中

江戸から出てすぐの事だった。

土と岩が唸りをあげ、轟音が谷間に響き渡る。

風が巻き上がり、細かな砂利が舞った。

一瞬のうちに視界が霞み、浪士たちの足元が揺らぐ。


「危ねぇッ!!」

声が割れ、誰かが叫んだ。

しかし、足を取られた浪士はもがきながら、斜面を転げ落ちそうになっている。


周囲は動けず、ただ見守るしかなかった。

時間が止まったように、空気が張りつめる。


その時、誰よりも早く動いたのは、椿だった。

白い巫女装束は泥にまみれ、裾は跳ね上がり、素足はぬかるみに沈む。


しかし彼女の動きは迷いなく、鋭く、確かだった。彼女は滑る足で勢いをつけ、泥の中を飛び込む。


「っ、手を——!」

必死に伸ばされた小さな腕が浪士の手首を掴んだ。


崩れそうな斜面を見つめる浪士の視線は、いつしか、その小さな背中に釘付けになった。


「おい……、誰か助けを呼べ!」

「縄を……、縄がいる!」


浪士の体重に引きずられそうになりながらも、彼女は手を離さなかった。

筋肉に力が入る。爪が手首に食い込む。


「離せ! お前まで……!」

恐怖と焦りが声に滲む。


「……嫌。手を離すなら、死んだ方がマシだ。」


轟音と土煙の中、斜面で必死に浪士の手を掴む椿。その小さな腕がじわじわと力尽きそうなとき——


「おい、椿! 手ぇ離せ!」


背後から低く鋭い声が響いた。

それは山崎烝だった。彼の黒羽織が風を切り裂き、泥の中をまるで疾風のように駆け抜ける。


短刀を片手に抜き放ち、彼は斜面に飛び込んだ。膝をついて足元の土をしっかりと捉え、滑る足で一気に浪士の脇を抱き寄せる。


「俺に任せとき!」


その声は冷静だが、揺るぎない命令だった。

山崎の鋭い視線が浪士と椿を交互に捕らえ、瞬時に状況を把握する。それと同時に、椿は、胸元をキュッと握りしめた。


彼は浪士の体をしっかり抱き上げると、手早く腰の縄を取り出し、手際よく巻きつけた。

その動きはまるで、何度も繰り返された修練の賜物のように、迷いがなかった。


「椿、今だ! 縄掴め!」


泥だらけの椿の目に、一瞬の覚悟が光る。

彼女はすぐに縄を握りしめ、山崎は力強く地面を蹴った。


山崎の力強い引き上げに呼応して、浪士たちも縄を引き上げ始める。

土煙が巻き上がり、みるみる斜面が安定していく中、山崎の背中はまさに“風”そのものだった。


彼の動きに無駄はなく、ただ一つ、確かな目的だけがあった。それは仲間を救うこと。


――そして、彼の目に映ったのは、泥にまみれながらも命を懸け仲間を助けようとした椿の姿だった。


その瞬間、助けられた浪士の胸に熱い感情が走る。


(あいつは、ただの姫や巫女じゃない――仲間だ。)


やがて浪士は安全な地へと引き上げられ、山崎は椿の手を軽く掴んで支えた。


「……よう、やった。」


短く言葉をかけながら、彼の視線は彼女の泥だらけの顔をじっと見つめる。

その目には言葉にならぬ想いが宿っていた。


椿は軽く咳き込みながらも、目を伏せて小さく笑う。


「……ありがとう、烝」


その声はかすかだったが、確かに彼の心に届いた。


浪士たちもまた、黙ってその光景を見守り、尊敬の念を新たにしていた。


椿はその場に膝をつき、泥まみれの手で口元を覆っていた。


「椿……?」


呼びかけた山崎の声に、椿は応えなかった。

代わりに、かすれた呼吸が微かに耳に届く。


「……っ、けほっ……けほ、けほっ」


喉を引っ掻くような乾いた咳。

浅く短い呼吸が、間を詰めていく。


彼女の背中が、苦しげに上下していた。


「……あかん、来よったか」


山崎の顔色が変わった。

彼だけは知っている。

椿が、無理を重ねたあとに時折襲われる“あれ”を。


「おい、どうした! 姫さんが……!」


「おい誰か水持ってこい!」


浪士たちがざわめく。だが、どうしていいか分からず、動きが鈍る。


そのなかで、ただ一人、山崎だけが迷わなかった。すぐに椿の背に回り、膝に抱え込むようにして支える。


「深呼吸せぇ、ちぃ……落ち着け。俺がいる」


泥のついた髪をかき分け、手のひらで背を擦る。


「大丈夫や、もう誰も死なん。もう掴まんでええ。ええから、息せぇ」


その指先は震えていた。だが、声は決して弱くならなかった。


椿は、荒く短い息を繰り返しながら、必死に目を閉じ、山崎の声に意識を集中させる。


少しして漸く、息の苦しさが少しずつ和らいでいく。喉の奥で擦れた音が止まり、代わりに肩の震えだけが残った。


山崎は、抱きしめるように椿の身体を包み、耳元で小さくつぶやいた。


「……無理すんな言うたやろ」


彼の声は、今にも崩れそうだった。


「命、賭けるんは最後でええ。まだ先があるんやから」


それでも、涙も怒りもすべて飲み込んで、ただ静かに、椿の息が戻るのを待った。


彼女が発作を起こすまで、誰も想像していなかった。あの娘が、あの時、どれほどの無理をしていたのかを


「ありゃ、喘息か。あんな身体で、あそこまで……」


原田がぽつりと呟く。


「……命、懸けてたんだな。ほんとに」


藤堂は、黙って握りこぶしを強くした。

そして永倉は、遠くから見ながら、ただ目を伏せた。


「本物の“覚悟”ってやつを……見せられたな」




椿の呼吸がようやく整い、かすかに瞼が開かれた。


まだ全身の力は抜けたままで、視線も定まらない。

それでも、傍にいる気配に気づいた彼女は、ゆっくりと顔を上げる。


山崎の顔が、すぐ近くにあった。

泥だらけで、濡れた髪が頬に張り付き、眉間には深い皺が寄っている。


(怒ってる……)


そう思った瞬間、椿は唇をかすかに動かした。


「……ごめ……ん、なさい」


それは、声とも言えぬほど弱い響きだった。


けれど、確かに謝罪だった。


咄嗟に手を伸ばし、誰かを救おうとしたこと。

無理を押して、限界まで動いてしまったこと。

結果として、自分が倒れて皆を騒がせたこと──そして、何よりも彼に心配をかけたこと。


すべてを詰め込んだ「ごめんなさい」だった。


けれどその瞬間。


「……アホか、お前は」


山崎が低く、呟くように言った。


怒っていた。

それは怒鳴るような怒りではなく、胸の奥でぐつぐつ煮えたぎるような、深い怒りだった。


彼は俯いた椿の額に、自分の手のひらをそっと当てた。


泥の感触も、熱も、すべてを感じる掌で、撫でるように。


「……お前が謝る筋合いなんか、どこにもないわ」


震える声だった。

けれど、決して壊れはしなかった。


椿はもう何も言わなかった。

ただ、弱々しくその目を閉じると、小さく頭を彼の掌に預けた。


その瞬間、山崎は椿の頭を、もう一度、そっと撫でた。


それは怒りでも許しでもない。

ただ、「お前が生きてて良かった」と、そう伝える手だった。


そして、誰にも聞こえぬように、ぽつりと呟いた。


「……死ぬなや。絶対に」


その声は、涙を押し殺すように、静かだった。



椿は、俯いたまま泥まみれの手を見つめていた。

さっきまで、仲間を救うために伸ばしていた手。


今は、自分の命すら握りしめられないほどに、震えていた。


そして――


「馬、乗れんか?」


山崎が、視線を落とさずに言った。


椿は一瞬、困ったように眉を寄せたが、ゆっくりと頷いた。


**


周囲の隊士たちは、既に出発の準備に戻っていた。

それぞれが、椿の名を遠巻きに囁きながら。


山崎は、黙って椿を抱き上げた。


抗う力は、彼女には残っていなかった。


少し冷えた身体を抱き寄せると、その細さに、山崎はまた無性に腹が立った。


「これ以上、無理さすなよ……」


ぼそりと呟いて、馬の腹に脚をかける。


椿を自分の前に乗せると、彼女の背が、すっぽりと胸に収まった。


髪にはまだ泥が残り、肌は薄く冷たかった。


それでも椿は、背を真っ直ぐにして、前を見据えていた。


「ちぃ」


「……うん」


「また、なんかあったら」


「言う。すぐ言う」


「……嘘つけ」


「……うそ、つくかも」


正直だった。

だからこそ、山崎は溜息をつく。


「ほな、俺が全部見張っとく。お前が黙っても、勝手に読むわ」


「読めんの?」


「読める」


少しだけ間が空いて、椿の背中がふるりと揺れた。


それが、笑ったせいだと気づくまでに、数秒かかった。


山崎は、ふっと鼻で笑ってから、馬の腹を軽く蹴った。


夕陽が射してきていた。


冷たい風が、馬の歩みに合わせて二人の間を撫でていく。


椿は、背後のあたたかさに身を委ねながら、小さく囁く。


「……ありがと、烝」


その言葉に、山崎は何も返さなかった。


ただ、片手を伸ばして、椿の頬にかかる髪をひと筋、風から庇うように整えた。


馬の背に揺られながら、椿のまぶたは徐々に重くなっていった。疲れ切った体が静かに力を抜き、ついには深い眠りへと沈み込む。


彼女の小さな体はふわりと山崎の胸元に寄りかかり、暖かな体温が伝わる。その重みは決して負担ではなく、むしろ守るべきものの存在を実感させた。


山崎はゆっくりと呼吸を整え、無言のまま椿を抱きしめる。

馬の蹄音が静かに響く中、彼の目は遠くを見つめていたが、その視線は確かに椿を捉えていた。


風がひと吹き、彼の黒羽織を揺らす。

その背中に、椿の穏やかな寝息だけが寄り添っていた。

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