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第26話

控えの間に落ちた冷たい静寂。

朝の江戸はまだ静まり返り、遠くの鳥の鳴き声が響く。町の喧騒が始まる前の凛とした空気が庭先を包み、障子をかすかに揺らす風の音だけが響く。


芹沢の声は低く、怒りを秘めていた。

「――どういうことだ。俺のところには一文も来てねぇ」


誰かがぽろりと口にした言葉が重く隊士たちの間に広がり、空気は重たく沈黙に包まれた。


椿が一歩前に出る。白い単衣が朝の光に透けて揺れる。

「えぇ……その通りです、芹沢」

声は柔らかく、それでいて確かな意志がこもっていた。


「支度金を“すでに受け取った者”が、ごく少数、確かにおります」


浪士たちのざわめきが広がるが、椿は片手をあげて静める。

「ですが、それは決してえこひいきではありません」


芹沢の目が鋭く光る。

「だったら、どういう区別だ」


椿は凛とした声で答える。

「浪士組結成以前、幕臣の要請で動いていた者たちへの“前金”です。動きを命じたのはこちら側であり、責任を持って早めに処理しただけのことです」


「俺たちには何の説明もなし、ってのか?


「申し訳ありません」

椿ははっきりと頭を下げる。

「情報の伝達が全体に行き渡らなかったことは私の責任です。ですが、誤解のないように言わせてください。これは“差別”ではなく、情報の不均一によるズレです。京に着き次第、支度金は全員に等しく支給されます。幕府の中でもすでに手配は進んでおります」


芹沢は腕を組んだまま動かず、静かな緊張が支配する。


土方は静かに目を細め、沖田は表情を消して椿を見つめる。


「……差別じゃねぇと、言い切れるのか?」

芹沢の低い問いに、椿は迷いなく頷いた。


「言い切れます。しかし、“信じられぬ”と仰るなら、今からでも正式に書面をご用意します。幕府からの命を受けて、私が文を携えてまいりました。そこには支度金の詳細も記されております」


庭の木々が風に揺れ、一枚の葉がひらりと舞う。


芹沢はその風を追うように視線をそらした。


「……あんたの言葉が本当かどうか、京で見せてもらおうか」


「はい。喜んで」

椿は頭を下げ、その場をゆっくりと後にした。


張り詰めた空気の中、遠くで馬のいななきが聞こえる。

江戸の空が白み始めていた。


言葉もなく見つめていた土方が、椿の背に向かって静かに息を吐いた。

「腹の据わった女だ」


「見てました?あの目。怖いくらい真っ直ぐでしたよ」

沖田は肩をすくめ、笑みを浮かべた。


芹沢は黙ったまま、椿の姿を遠くに見つめていた。その目に、怒りよりもわずかな“警戒”が混ざっていた。


(やはり、見破ったか。怖ぇ女だぜ。全く。)


浪士たちの間に、

「この女は只者ではない」

という空気がひたひたと広がり始めていた。


風が吹く。

乾いた江戸の空気に、春の匂いが混ざりながら。


───


試衛館の面々、京へ向かう決意を固めた者たちには、すでに支度金が支払われていた。

困窮する者たちにも、支度金は確実に届けられている。


それは、これから待つ厳しい時代への小さな希望の灯だった。


原田の呟きが、さらさらと吹く風に乗って馬場にこだました。

「しかし、芹沢さん。江戸を出る前に支度金の話じゃ、戻るつもりだったのかもな」


その言葉がざわつく浪士たちの間を漂う中、椿は静かに馬上で体を起こし、冷たい目で答えた。

「つもり。ではなく、初めから京に行くつもりは無かったんです。あの人。だからこそ、火をつけたんです」


一瞬、辺りが凍りついたかのように静まり返る。


土方は鋭い目で椿を見据え、わずかに息を吐いた。

「……それを知っていて、黙っていたのか?」


その問いに、椿はゆっくりと頷いた。


「状況を見極めるために、今は黙していた方が良いと判断しました」


土方は無言で俯き、しばらくの間沈黙が続く。やがて顔を上げ、硬く言葉を紡いだ。

「……覚悟が足りねえ奴らには、容赦はできねえ。だが、お前のその覚悟は……認める」


周囲の浪士たちも、土方の言葉に自然と引き締まった空気が広がった。


「火種は、潰すより火をつけた方が役に立つ。」


ぽつりと椿が言い残した言葉を、馬場の隅で聞いていた山南は、風に揺れる草の音とともに思索を重ねる。


(……火種は芹沢。潰すより、火をつける……)


静かに目を閉じ、風の音に耳を澄ます。


(潰すは、抑え込むこと。だが火をつけるとは、曝け出し、覚悟を問うこと――)


ふと、椿の姿を仰ぐ。


(その炎を、どう扱うつもりか……)


————

———


道端に咲く小さな花々。椿は馬を降り、そっと手を伸ばした。


細く繊細な茎を傷つけないように、慎重に一輪の花を摘み取る。


薄紫の花びらは朝露に濡れて、きらりと光った。


彼女の指先に触れた花は、まるで生きているかのように柔らかく、優しい香りを放つ。


風がそっと吹き、花びらがふわりと揺れた。


椿は一瞬目を閉じ、その香りと静かな朝の息吹を胸いっぱいに吸い込んだ。


その姿は凛としながらも、どこか柔らかな女性の優しさを纏っていた。


山崎が目を細め、口を開く。


「何摘んでるん?」


椿はゆっくりと顔を上げ、摘んだ小さな草花を見つめながら答えた。


「薬草よ。傷や咳に効くものを見つけたの」


彼女の記憶は、三年より前は無い。

薬草を見分けるのは、彼女が必死に覚えたからだ。


「よぉ、覚えたな。たった、三年で」


椿の言葉は、風に乗って小さく零れ落ちた。


「三年後も……烝と一緒にいれたらいいな」


ぽつりとした声音は、まるで独り言のようでもあり、しかし確かに彼に向けられていた。


山崎は少し驚いたように目を見開く。隣にいる椿の横顔は、どこか照れくさそうで、それでいて真っすぐだった。


「……あかん。そない言われたら、離れにくなるやろ」


照れを隠すように軽口を返しながらも、山崎の声はどこか嬉しそうだった。だが視線の先では、戦が待つ京の空が静かに揺れていた。


「離れる気だった?」


山崎は一瞬動きを止め、視線を遠くの山影にやった。風が草を揺らし、鳥の鳴き声がぽつんと降る。


「……そやな」


ぽつりと、山崎は答えた。


「姫が、巫女としてちゃんと立ってしもたら、もう俺の役目、終いやろって思てた。……そろそろ身を引く頃かなって」


椿は、その言葉に何も返さなかった。けれど、その横顔は、わずかに揺れた。


「……ダメだから。離れたら」


ぽつりと落ちた椿の声は、いつになく幼く、寂しげだった。


山崎は目を見開いたまま、言葉を失った。


彼女は、視線を前に向けたまま、表情を見せない。けれどその声には、確かな熱があった。


「勝手に終わらせないでよ。誰が“終い”なんて言ったの」


山崎の喉が小さく鳴った。けれど、何も言えない。ただ、風の音だけが二人の間を吹き抜けていく。


「……私、ようやく烝のそばに戻れたのに」


それは椿の本音だった。力ではなく、肩書きでもない、ただの“椿”としての、かすかな願い。


「離れたら……もう、どこにもいけなくなる」


その呟きに、山崎の指先がわずかに震えた。


「……わかった」


静かに、けれど確かに、彼は言った。


「離れへん。たとえ姫がどんな場所に立っても、俺はそばにおる」


そう言った山崎の横顔に、椿はちらりと視線を向けた。目が合うことはなかったけれど、その一言だけで、胸の奥の冷えたところが、ほんの少し温まった気がした。


「……三年後も?」


「そや。三年後も、十年後もや」


椿は、風に揺れる薬草を見つめながら、小さく笑った。

「約束。」


ぽそりと呟き、小指をすっと差し出す椿。


薬草を摘んだ指先には、まだ土の匂いが残っていた。けれどその仕草は、まるで子供のように真っ直ぐで、曇りなくて――


山崎は、一瞬だけ目を逸らした。


「……あかん。可愛すぎる」


思わずこぼれた声に、椿が小首をかしげる。


「なにが?」


「いや、なんでもない。ほんま、なんでもない」


顔を真っ赤にしたまま、山崎はため息交じりに小指を重ねた。


指先と指先が、ぴたりと重なる。


その温度が、言葉よりずっと強く、確かに伝わってくる。

椿が、ふいにふわっと笑った。


薬草の葉を一枚、指でくるくると弄びながら、無邪気に、なんの含みもない笑顔だった。


「……ふふ。よかった」


その笑みは、風に乗った光のように柔らかく、あどけなくて――まるで昔の千夜が、そのまま今に重なったようだった。


山崎は、息を呑んだ。


「……あかん」


頭を抱えるように、顔を伏せる。


「ほんま、あかんて……」


肩がわずかに震える。笑っているのか、悶えているのか、自分でももう分からない。


見上げれば、椿は屈託なく、まっすぐこちらを見ていた。


「ねぇ、なんで顔赤いの?」


「……それ、今訊くか?」


「だって、変なんだもん。暑い?」


「……違う。むしろ、寒いくらいや」


「ふーん?」


無邪気に首を傾げる椿に、山崎は天を仰いだ。


(……ああ、これでよう我慢しとるな俺)


「ちぃ、お前ほんま……罪な女やで」


風が草を揺らし、春の陽が、ふたりの影を淡く落とした。



永倉と原田は、やや離れた場所で馬を引きながら、ぽつりと二人の様子を眺めていた。


「……あれ、どう見ても惚れてるだろ、山崎」


原田が呆れ混じりに笑い、くくっと肩を揺らす。


「ま、ああいうのが一番タチ悪いんだよな。自分の気持ちにも気づかねぇか、気づいてても認めねぇヤツ」


ちげぇねぇ。と永倉が呟き、

「ま、せいぜい悶絶してりゃいいさ。山崎のやつ」


二人はそのまま、何も言わずに足を進める。

そして、椿がしてた様に遅れた浪士達に声をかけていく。



椿の行いは、確かに引き継がれていた。



春の風が通り過ぎ、花の香りをふわりと乗せていった。

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