静寂が、ゆっくりと部屋を包んでいく。
薬が効いてきたのか、椿の咳はようやく落ち着き、喉の奥に絡んでいた痺れも少しずつ遠ざかっていった。
夜更け。
囲炉裏の火はすでに落ち、部屋には、外から吹き込む風の音だけが残っていた。
浅野の薬が効いたのか、椿はようやく深く眠っていた。
その傍らに座していた山崎は、片膝を立て、静かに彼女の寝顔を見つめている。
その額にはまだ熱が残っていた。ときおり浅く咳き込むたびに、胸がひやりとする。
……せやけど、ほんの少し、顔色が戻ってきたな。
そう思った刹那――
「……す……すむ……」
寝言のように、微かに震える声が漏れた。
山崎は、息をのむ。
「……ちぃ……?」
再び、布団の中の彼女が小さく唇を動かす。
「……烝……こっち、に……」
夢の中で語りかけているのだろうか。
瞼は閉じたまま、けれどその声には確かな感情があった。
「……怖い……寒、い…」
山崎は、思わず拳をぎゅっと握りしめた。
その声は、かつて千夜だった頃に聞いたことがあるような、幼さを孕んだ響きだった。
けれど、これは椿。今の椿の声だった。
静かに、そっと布団の端に手をかけると、山崎は自分の上着を脱ぎ、彼女の肩にかけた。
「……おるで」
囁くように言葉を落とす。
「……ここに、おるから。寒ぅないように、したる」
椿の眉が、すこし緩んだ気がした。
山崎は、微かに笑った。
この胸の痛みは、ただの後悔でも、過去への償いでもない。
今、確かに――彼女を愛おしいと思っている。
そう、ただそれだけだった。
――静けさに、目が覚めた。
窓の外はまだ薄暗く、遠く鶏の声すらも聞こえない。
ぼんやりと天井を見上げていた椿は、ふと気配に気づき、そっと視線を横に向けた。
そこには、山崎がいた。
布団の脇に身を預けるようにして、椿のすぐそばで、眠っていた。
着物の襟が少し緩み、額には微かに疲れの色。
きっと、一晩中ついていてくれたのだろう。
起こさないように、椿は体をそっと起こし、彼の顔をじっと見つめた。
静かな呼吸。整ったまつ毛。
「……ほんと、寝てる顔は……やさしそう」
ぽつりと呟く。
けれど、それは揶揄でも皮肉でもなかった。
ただ、彼がこんなにも近くにいて、自分を守ろうとしてくれている――その事実に、胸の奥がじんわりと熱くなっていく。
彼の寝顔から目を離せなかった。
三年しか一緒にいないのに。
こんなふうに彼を近くに感じている今が、少しこわい。
だけど、だからこそ――見ていたかった。
まばたきもせず、じっと。
まるで、夢が冷めないようにと願うかのように。
そして――
「……お前はまた。近過ぎるゆうとるやろ?」
思いがけず、低くくぐもった声。
椿は、びくりと肩を揺らす。
山崎は、片目を開けたまま、じっとこちらを見ていた。
「な、寝てたんじゃないの?」
「寝とったけど、視線が痛てぇて……」
彼は眉を少ししかめながら、軽く溜息をつく。
「ったく。朝っぱらから姫に見つめられて、心臓もたんわ」
そう言いながら、どこか嬉しそうに笑った。
椿は、頬をほんのり赤く染めたまま、目をそらさずにいた。
「……でも、また安心して寝てくれた方が嬉しいの」
その声に、山崎の目元が緩む。
「……しゃあないな。ほな、もうちょい甘えさせてもらおか」
彼は布団に肩を落とし、椿の手をそっと取って、自分の頬に当てた。
その温もりに、椿は微かに震える。
静かな、始まりの朝だった。
やがて、宿の外から人の気配と、薪を割る音が聞こえ始める。
日が昇りかけた合図のように、ゆっくりと一日が始まりつつあった。
山崎が布団から身を起こしかけると――
「……もうちょい、見ててよかったのに」
不意に、椿の声がした。
「……ほんまに、そういうとこやぞ。あかんねんって」
ぶっきらぼうに言いながらも、山崎は顔を隠すように手を上げる。
椿は、ふふ、と笑って布団の中から目を細めた。
「寝顔、見てたのはお互い様でしょ?」
「いやいや、あんたのは……寝顔どころか寝言までしっかり拝ませてもろたわ」
「えっ……!」
ぴくんと跳ねるように椿の肩が揺れた。
「……な、何言ったの……?」
「さぁな。寒い言うて、おれの名、呼んでたんちゃう?」
「っ……!」
ぴくりと肩を震わせた椿は、すぐさま布団を引き寄せて顔を隠した。
「……寝顔は、いいの。寝言は恥ずかしい……」
もぐもぐと小声で呟くその背中に、山崎はくすりと笑う。
「なんや。ちょっと赤ぅなっとるやん」
「そっちが言うからでしょ!」
「ほな、聞かなかったことにしよか?」
「……ほんとに?」
「うん。たぶん」
「たぶん、ってなにそれ!ぜったい忘れなさい!」
椿が枕でぽすんと山崎の肩を叩く。
それがまた可笑しくて、山崎は肩を揺らして笑った。
「ほな、次はもっとはっきり言うてくれるん待っとるわ」
「待たないで!」
真っ赤な顔で椿が言い返したとき、ちょうど襖の向こうから誰かが咳払いをした。
「……お熱いことで」
小さな声で沖田の声がして、山崎と椿は同時にぴしりと固まった。
「……絶対、聞かれてた」
「そやな……詰んだな……」
顔を見合わせ、ふたりして深い溜め息をついた。
それでも、空気はやわらかく、温かった。
朝の宿。
広間には湯気の立つ味噌汁の香りと、焼き魚の匂いが漂い始めていた。簡素ながら心をほぐす膳がずらりと並べられ、浪士たちはいつもより少し早めに席についていた。
その中央に、椿の姿。
まだ顔に少し熱が残っているのが分かる。薬で咳こそ収まってはいるものの、頬はいつもより赤みを帯び、瞳もまだどこか熱っぽい。
「椿さま、ほら、味噌汁。熱いから気をつけて」
「漬物、塩気が強いと喉にしみますよ」
「湯冷まし、ここにあります」
「薬の時間……は、もう済ませたんか?」
周囲の男たちが、次々と世話を焼いてくる。さながら寺子屋帰りの若衆が、寝ついた年寄りの見舞いに押しかけたかのようだった。
「……みんな、過保護すぎない?」
椿が苦笑混じりに言っても、誰一人退かない。
「そら、心配にもなるやろ。昨日なんか、馬で完全に落ちかけとったんやで」
「……それを言うのは恥ずかしいからやめて」
「なあ椿さま、もう今日は歩かん方がええんちゃうか?」
「誰か、駕籠でも手配してこようか?」
「じゃあ俺、馬から布団持ってくる!」
――収拾がつかなくなってきたその時だった。
「おい、姫様を甘やかすな」
どす、と低い声が落ちた。
全員の背筋が一斉に伸びる。
広間の隅から、湯呑み片手に土方がじっと睨んでいた。
「ちょっと熱があるくらいで、大の男が何人集まってんだ。戦でも始まんのか」
「い、いえ……その……」
「まさか、見舞いの名目で近くにいたかったとか、そんな不純な――」
「そ、それは言いすぎです!」
「それ、土方さんが一番思ってることじゃ……」
沖田がひそひそと呟いて、永倉が肘で突っつく。
土方は無言で立ち上がり、椿の前に来ると、じっとその額を見た。
「……顔色、まだ赤いな。薬は?」
「浅野が……今朝も湯に溶かしてくれたから大丈夫」
「なら、それを飲んで、食えるぶんだけ食って……今日は歩くな」
「……うん」
椿が静かに頷くと、土方はようやく少し息を抜いた。
「ったく……こんな時ばっかり団結すんなよ。男の集団ってのは、ホント使えねぇな」
そして最後に、ぽつりと付け足した。
「……心配してんのは、俺も同じなんだよ」
その言葉に、椿も山崎も、言葉を失った。
周囲の浪士たちも、わずかに背筋を正す。
すると――
「なあ、姫。熱あるときって……寝言って、よく出るもん?」
唐突に沖田が問う。
椿がびくりと反応する。
「そうかぁ?昨日、『こっち…』って可愛く――」
「だーかーら!!」
沖田の無邪気すぎる一言に、椿は思わず箸を持った手を宙に凍らせる。
山崎が「やめとけって……」と慌てて止めに入るが、時すでに遅し。
わっと周囲が笑いを堪える気配に包まれる中で――
椿は、静かに箸を置いた。
そして、ゆっくりと額に手を当てた。
「……違う意味で、頭痛くなってきた……」
ぼそりと呟いたその声には、発熱でも咳でもない、羞恥とストレス由来の痛みがこもっている。
「姫さま、大丈夫で――」
「そういう優しさが一番痛いの」
ぴしゃりと言い放ち、椿はそのまま机に突っ伏した。
「もういっそ、このまま倒れたふりして運ばれようかな……」
「それ、さっきまで本気で倒れとった奴のセリフやないで……」
山崎が苦笑しながら囁き、沖田は「じゃあ、また寝言が聞けるかもしれないね」と無邪気に追い打ちをかけた。
「……あんたらほんとに、一回黙って」
突っ伏したままの椿の声は、床に向かってじんわりと響いた。
朝餉の席もようやく落ち着きを取り戻しつつあった頃。
椿は湯気の立つ粥をゆっくりと口に運び、時折くしゃみ混じりの咳をこらえながら、額に手を当ててはため息をついていた。照れ隠しとも体調不良ともつかないその仕草が、やけに子供っぽく映る。
それを斜め向かいから見ていた沖田は、箸を口元に止めたまま、土方へと小さく声をかけた。
「……あれ、素ですよね?」
「何がだ」
「いや、あの感じ。“姫”でも“巫女”でもなくて、ただの――椿様です」
淡く笑うその顔には、どこか感心したような、もしくは愛おしむような色が浮かんでいた。
土方は一瞬、箸を止めて椿の方を見る。
ちょうどそのとき、椿がむず痒そうに首をすくめてくしゃみをした。
「……はっ、くしゅっ」
「……」
「……見ないで……」
椿がじろりと睨んでくるが、その顔も目も、どこかぼんやりとしていて、まったく威圧感がない。
「……素だな」
土方はそう短く答えた。
「やっぱり」
沖田は楽しそうに頷く。
「でも、“あれ”見たら、たぶんもう、怖くて剣振るえませんよ。……可愛すぎて」
「振るう予定があるのか、お前に」
「ないですけど?」
こともなげに返す沖田に、土方は再びため息をついた。
「……あの無防備さで、京まで持つかね。まったく」
そう口では言いながら、土方の視線は椿の湯呑みに一瞬だけ移った。
少し中身が減っている。それを見て、ほんのわずかだけ表情が緩む。
「……倒れても、誰かが支えるだろ。あれを見て、放っとく奴はいないさ」
沖田の呟きは、確信に満ちていた。
土方は黙ってそれを聞きながら、そっと視線を戻した。
白の単衣を纏いながら、ふわりと笑った椿が、何かの拍子に山崎の腕に頭を預けていく。
そこには確かに、作られた顔ではない――ただの「椿」という少女の姿があった。