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第25話

静寂が、ゆっくりと部屋を包んでいく。

薬が効いてきたのか、椿の咳はようやく落ち着き、喉の奥に絡んでいた痺れも少しずつ遠ざかっていった。


夜更け。


囲炉裏の火はすでに落ち、部屋には、外から吹き込む風の音だけが残っていた。


浅野の薬が効いたのか、椿はようやく深く眠っていた。


その傍らに座していた山崎は、片膝を立て、静かに彼女の寝顔を見つめている。


その額にはまだ熱が残っていた。ときおり浅く咳き込むたびに、胸がひやりとする。


……せやけど、ほんの少し、顔色が戻ってきたな。


そう思った刹那――


「……す……すむ……」


寝言のように、微かに震える声が漏れた。


山崎は、息をのむ。


「……ちぃ……?」


再び、布団の中の彼女が小さく唇を動かす。


「……烝……こっち、に……」


夢の中で語りかけているのだろうか。

瞼は閉じたまま、けれどその声には確かな感情があった。


「……怖い……寒、い…」


山崎は、思わず拳をぎゅっと握りしめた。

その声は、かつて千夜だった頃に聞いたことがあるような、幼さを孕んだ響きだった。


けれど、これは椿。今の椿の声だった。


静かに、そっと布団の端に手をかけると、山崎は自分の上着を脱ぎ、彼女の肩にかけた。


「……おるで」


囁くように言葉を落とす。


「……ここに、おるから。寒ぅないように、したる」


椿の眉が、すこし緩んだ気がした。


山崎は、微かに笑った。

この胸の痛みは、ただの後悔でも、過去への償いでもない。


今、確かに――彼女を愛おしいと思っている。


そう、ただそれだけだった。


――静けさに、目が覚めた。


窓の外はまだ薄暗く、遠く鶏の声すらも聞こえない。


ぼんやりと天井を見上げていた椿は、ふと気配に気づき、そっと視線を横に向けた。


そこには、山崎がいた。


布団の脇に身を預けるようにして、椿のすぐそばで、眠っていた。


着物の襟が少し緩み、額には微かに疲れの色。

きっと、一晩中ついていてくれたのだろう。


起こさないように、椿は体をそっと起こし、彼の顔をじっと見つめた。


静かな呼吸。整ったまつ毛。


「……ほんと、寝てる顔は……やさしそう」


ぽつりと呟く。


けれど、それは揶揄でも皮肉でもなかった。

ただ、彼がこんなにも近くにいて、自分を守ろうとしてくれている――その事実に、胸の奥がじんわりと熱くなっていく。


彼の寝顔から目を離せなかった。


三年しか一緒にいないのに。

こんなふうに彼を近くに感じている今が、少しこわい。


だけど、だからこそ――見ていたかった。


まばたきもせず、じっと。

まるで、夢が冷めないようにと願うかのように。


そして――


「……お前はまた。近過ぎるゆうとるやろ?」


思いがけず、低くくぐもった声。


椿は、びくりと肩を揺らす。


山崎は、片目を開けたまま、じっとこちらを見ていた。


「な、寝てたんじゃないの?」


「寝とったけど、視線が痛てぇて……」


彼は眉を少ししかめながら、軽く溜息をつく。


「ったく。朝っぱらから姫に見つめられて、心臓もたんわ」


そう言いながら、どこか嬉しそうに笑った。


椿は、頬をほんのり赤く染めたまま、目をそらさずにいた。


「……でも、また安心して寝てくれた方が嬉しいの」


その声に、山崎の目元が緩む。


「……しゃあないな。ほな、もうちょい甘えさせてもらおか」


彼は布団に肩を落とし、椿の手をそっと取って、自分の頬に当てた。


その温もりに、椿は微かに震える。


静かな、始まりの朝だった。


やがて、宿の外から人の気配と、薪を割る音が聞こえ始める。

日が昇りかけた合図のように、ゆっくりと一日が始まりつつあった。


山崎が布団から身を起こしかけると――


「……もうちょい、見ててよかったのに」


不意に、椿の声がした。


「……ほんまに、そういうとこやぞ。あかんねんって」


ぶっきらぼうに言いながらも、山崎は顔を隠すように手を上げる。

椿は、ふふ、と笑って布団の中から目を細めた。


「寝顔、見てたのはお互い様でしょ?」


「いやいや、あんたのは……寝顔どころか寝言までしっかり拝ませてもろたわ」


「えっ……!」


ぴくんと跳ねるように椿の肩が揺れた。


「……な、何言ったの……?」


「さぁな。寒い言うて、おれの名、呼んでたんちゃう?」


「っ……!」


ぴくりと肩を震わせた椿は、すぐさま布団を引き寄せて顔を隠した。


「……寝顔は、いいの。寝言は恥ずかしい……」


もぐもぐと小声で呟くその背中に、山崎はくすりと笑う。


「なんや。ちょっと赤ぅなっとるやん」


「そっちが言うからでしょ!」


「ほな、聞かなかったことにしよか?」


「……ほんとに?」


「うん。たぶん」


「たぶん、ってなにそれ!ぜったい忘れなさい!」


椿が枕でぽすんと山崎の肩を叩く。

それがまた可笑しくて、山崎は肩を揺らして笑った。


「ほな、次はもっとはっきり言うてくれるん待っとるわ」


「待たないで!」


真っ赤な顔で椿が言い返したとき、ちょうど襖の向こうから誰かが咳払いをした。


「……お熱いことで」


小さな声で沖田の声がして、山崎と椿は同時にぴしりと固まった。


「……絶対、聞かれてた」


「そやな……詰んだな……」


顔を見合わせ、ふたりして深い溜め息をついた。


それでも、空気はやわらかく、温かった。


朝の宿。


広間には湯気の立つ味噌汁の香りと、焼き魚の匂いが漂い始めていた。簡素ながら心をほぐす膳がずらりと並べられ、浪士たちはいつもより少し早めに席についていた。


その中央に、椿の姿。


まだ顔に少し熱が残っているのが分かる。薬で咳こそ収まってはいるものの、頬はいつもより赤みを帯び、瞳もまだどこか熱っぽい。


「椿さま、ほら、味噌汁。熱いから気をつけて」


「漬物、塩気が強いと喉にしみますよ」


「湯冷まし、ここにあります」


「薬の時間……は、もう済ませたんか?」


周囲の男たちが、次々と世話を焼いてくる。さながら寺子屋帰りの若衆が、寝ついた年寄りの見舞いに押しかけたかのようだった。


「……みんな、過保護すぎない?」


椿が苦笑混じりに言っても、誰一人退かない。


「そら、心配にもなるやろ。昨日なんか、馬で完全に落ちかけとったんやで」


「……それを言うのは恥ずかしいからやめて」


「なあ椿さま、もう今日は歩かん方がええんちゃうか?」


「誰か、駕籠でも手配してこようか?」


「じゃあ俺、馬から布団持ってくる!」


――収拾がつかなくなってきたその時だった。


「おい、姫様を甘やかすな」


どす、と低い声が落ちた。


全員の背筋が一斉に伸びる。

広間の隅から、湯呑み片手に土方がじっと睨んでいた。


「ちょっと熱があるくらいで、大の男が何人集まってんだ。戦でも始まんのか」


「い、いえ……その……」


「まさか、見舞いの名目で近くにいたかったとか、そんな不純な――」


「そ、それは言いすぎです!」


「それ、土方さんが一番思ってることじゃ……」


沖田がひそひそと呟いて、永倉が肘で突っつく。


土方は無言で立ち上がり、椿の前に来ると、じっとその額を見た。


「……顔色、まだ赤いな。薬は?」


「浅野が……今朝も湯に溶かしてくれたから大丈夫」


「なら、それを飲んで、食えるぶんだけ食って……今日は歩くな」


「……うん」


椿が静かに頷くと、土方はようやく少し息を抜いた。


「ったく……こんな時ばっかり団結すんなよ。男の集団ってのは、ホント使えねぇな」


そして最後に、ぽつりと付け足した。


「……心配してんのは、俺も同じなんだよ」


その言葉に、椿も山崎も、言葉を失った。

周囲の浪士たちも、わずかに背筋を正す。


すると――


「なあ、姫。熱あるときって……寝言って、よく出るもん?」


唐突に沖田が問う。


椿がびくりと反応する。

「そうかぁ?昨日、『こっち…』って可愛く――」


「だーかーら!!」


沖田の無邪気すぎる一言に、椿は思わず箸を持った手を宙に凍らせる。


山崎が「やめとけって……」と慌てて止めに入るが、時すでに遅し。


わっと周囲が笑いを堪える気配に包まれる中で――


椿は、静かに箸を置いた。


そして、ゆっくりと額に手を当てた。


「……違う意味で、頭痛くなってきた……」


ぼそりと呟いたその声には、発熱でも咳でもない、羞恥とストレス由来の痛みがこもっている。


「姫さま、大丈夫で――」


「そういう優しさが一番痛いの」


ぴしゃりと言い放ち、椿はそのまま机に突っ伏した。


「もういっそ、このまま倒れたふりして運ばれようかな……」


「それ、さっきまで本気で倒れとった奴のセリフやないで……」


山崎が苦笑しながら囁き、沖田は「じゃあ、また寝言が聞けるかもしれないね」と無邪気に追い打ちをかけた。


「……あんたらほんとに、一回黙って」


突っ伏したままの椿の声は、床に向かってじんわりと響いた。


朝餉の席もようやく落ち着きを取り戻しつつあった頃。


椿は湯気の立つ粥をゆっくりと口に運び、時折くしゃみ混じりの咳をこらえながら、額に手を当ててはため息をついていた。照れ隠しとも体調不良ともつかないその仕草が、やけに子供っぽく映る。


それを斜め向かいから見ていた沖田は、箸を口元に止めたまま、土方へと小さく声をかけた。


「……あれ、素ですよね?」


「何がだ」


「いや、あの感じ。“姫”でも“巫女”でもなくて、ただの――椿様です」


淡く笑うその顔には、どこか感心したような、もしくは愛おしむような色が浮かんでいた。


土方は一瞬、箸を止めて椿の方を見る。


ちょうどそのとき、椿がむず痒そうに首をすくめてくしゃみをした。


「……はっ、くしゅっ」


「……」


「……見ないで……」


椿がじろりと睨んでくるが、その顔も目も、どこかぼんやりとしていて、まったく威圧感がない。


「……素だな」


土方はそう短く答えた。


「やっぱり」


沖田は楽しそうに頷く。


「でも、“あれ”見たら、たぶんもう、怖くて剣振るえませんよ。……可愛すぎて」


「振るう予定があるのか、お前に」


「ないですけど?」


こともなげに返す沖田に、土方は再びため息をついた。


「……あの無防備さで、京まで持つかね。まったく」


そう口では言いながら、土方の視線は椿の湯呑みに一瞬だけ移った。


少し中身が減っている。それを見て、ほんのわずかだけ表情が緩む。


「……倒れても、誰かが支えるだろ。あれを見て、放っとく奴はいないさ」


沖田の呟きは、確信に満ちていた。


土方は黙ってそれを聞きながら、そっと視線を戻した。


白の単衣を纏いながら、ふわりと笑った椿が、何かの拍子に山崎の腕に頭を預けていく。


そこには確かに、作られた顔ではない――ただの「椿」という少女の姿があった。


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