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京へ向かう道中

第24話

低く、白い雲が流れていく。

地の冷たさを残した空気の中、隊列はゆっくりと西へ向かっていた。


剥き出しの街道にはまだ冬の匂いが漂っており、両脇には枯れ残ったススキと、名残雪の跡。時折、土の香りにまじって、農家の囲炉裏の煙が風に乗って流れてくる。


「……姫、ほんとに最後尾にいるな」


ふいに前を歩く原田が呟いた。

その声に、周囲の何人かがちらと振り返る。


遠く、列の一番後ろ。

白の単衣が、風に翻って揺れていた。まるで、冬の名残に咲く花のように。陽の光に少し透けたその布が、まっすぐに地を踏みしめている。


「最初は、目立ちたがりかと思ってたけどな」

隣を歩いていた永倉が笑った。


「いや、あれは違ぇよ。……倒れたら、自分で支えるつもりなんだろ」


「支える? 女が?」


「……違ぇって。あの人、“姫”なんて呼ばれてるけど、実際は――」


永倉が言いかけて、黙る。

正確な言葉が見つからなかった。


その先で、野を渡る風が隊列の間をすり抜けた。凛とした空気が、首元を抜けて背筋を撫でる。


先に歩く芹沢は、手に持った煙管を口元に運びながら小さく鼻を鳴らしていた。


(用心深い女だ……いや、“姫”だなんて甘く呼ぶには鋭すぎる)


列の最後尾というのは、全体が崩れたとき、真っ先に敵に背を見せる場所だ。

逃げるのではなく、支える者が立つ位置。

そういう立ち回りを、女一人でやるとはな。


その目に映ったのは、野をゆく一羽の鷹だった。高く、けれど孤独に――自由でも、ある意味では獰猛に。


「ふっ……」


一つだけ煙を吐き、芹沢は前を向く。誰にも悟らせず、ただ自分だけが静かに笑った。


**


その少し後ろ、浅野薫が空を仰いでいた。

道の端に咲く小さな菜の花に気づいて、歩きながら目を落とす。


「……あんなに綺麗なのに、寒さの中で立ってる」


呟いたのは椿のことか、草花のことか、自分でも分からなかった。彼女は、どこか絵の中の存在のようだった。けれど、江戸を出る前――自分の額に手を置いて、「あんまり無理しないでね」と言ってくれた手の温もりは、確かに現実にあった。


「誰より人間らしいのに、誰より遠い……」


ぽつりと漏らした声は、誰にも拾われなかった。だが、道端に咲くたった一輪の白椿が、どこかで風に揺れたように見えた。


「半分血が繋がってるなんて、嘘みたい。」


**


その最後尾。

椿は風に吹かれながら歩いていた。


咳を堪え、鼻をひとつ啜りながら。それでも姿勢は崩さず、誰にも見せぬよう、静かに歩く。


この列が、誰一人取り残されずに進むために。

誰かが倒れたら、必ず手を伸ばせる位置にいるために。

そして――


「もし、敵が後ろから来たなら……私が止める」


ぽつりと、誰にも聞こえぬ声で言った。


誰も彼女の背を見ていない。

けれど、誰もがどこかでその背中を“意識して”歩いている。


それが、椿という存在だった。



風が冷たい。空は晴れているが、土はまだ湿り、靴の裏に重くまとわりつく。黙々と歩き続ける浪士たちの背中は、どこか重たげだった。


「……寒いですね」


その声に、びくりと肩を揺らす者がいた。

列の後ろから、やわらかな声が届く。


振り返ると、椿がいた。

白い単衣を纏い、小さな包みを胸元に抱いている。


「あ、はい。……いや、平気です、姫」


「そう。でも、無理しないで。顔、真っ青だから」


笑みを浮かべたまま、彼女は懐から小さな飴を取り出し、甘さが恋しい道中の慰めだった。


「どうぞ。喉にもいいのよ、これ」


渡された若い隊士は、言葉もなく頷いた。

列の流れに引き戻されるように前を向きながら、口に含む。その小さな甘味が、不思議と胸に沁みた。


しばらく歩くと、今度は前方で足を引きずる音がした。


「……痛むの?」


椿は再び歩を早め、小さく肩で息をしながら近づいていく。


「ん……いや、ちょっと、靴擦れで。別に、大丈夫だって」


「見せて」


「いや、あの、でも――」


「見せて」


ふと目が合う。

何も言えなくなる。


椿の目は、決して強く責めるようなものではない。けれど、絶対に曖昧を許さない、まっすぐなものだった。


しゃがみこんだ椿は、懐から細布を取り出し、足元にそっと巻く。

指先は冷たく、けれど驚くほど丁寧だった。


「これで、少しは楽になるはず」


「……ありがとう、姫」


「名前で呼んでくれていい。」


そう言って、椿はまた静かに列の後ろに戻っていく。


**


そうして一歩一歩、誰かの背中を見送りながら歩き続ける椿に、次第に浪士たちの目が変わっていった。最初は“巫女”であり、“姫”だったその存在は、今――


「……守られてるの、こっちの方じゃねぇか」


ぽつりと、原田が呟いた。


列の少し前では、浅野が黙って後ろを振り返っていた。その眼差しには、焦がれるような何かと、同時に拭いきれぬ後ろめたさが宿っていた。


「俺、あの人のこと、何も知らねぇんだな……」


**


一番後ろから、今日も椿は声をかけていく。


「転ばないようにね」

「その荷、代わりましょうか」

「喉が乾いたら言って。少しだけですが、水あります」


優しさを押しつけず、でも確かに手を差し伸べる声。それが、浪士たちの背に届いていく。


**


夕方、薄曇りの空に陽が沈む頃。

冷えた空気に混じって、椿の咳がひとつ、響いた。


それを聞いた誰かが、列を抜けて引き返しかける。しかし、椿は微笑んで首を振った。


「大丈夫。……少し咳が出るだけ。風邪ではないの」


「……」


「だから、皆は、前を向いて」


その一言に、男は黙って頷いた。


その背中が再び列に戻るとき。

椿はそっと、自分の喉に手をあてる。


咳は、確かに悪化していた。

けれど、それを知られないことが、今の彼女にとっては何よりも重要だった。


宿屋につき、椿は、浅野に声をかけた。

彼は、椿の顔色を見るなり、部屋へと腕を引いて行く。


「何でもっと早く言わないんですか?」


「………ごめん。」


「とにかく、横になって下さい。

————大丈夫。貴女は眠っていたらいい。」


小さく頷く椿は、目蓋を閉じていく。

浅野が手にしたモノは、この時代には似つかわしくない注射器で、手慣れた様に椿に処置を施していった。


「あんただけだ。

未来から来た俺を側に置き、信用してくれのは。」


何の疑いもなく、彼女は、未来の話を聞いてくれた。幕末に生き、新選組と共に歩んだ軌跡をそこに、千夜という女がいた話も……


「居ないぜ?パラレルワールドなんて理解できる人間なんて。」


その言葉をかけてくれたのは、あの日、あの神社の境内だった


————数日前・八坂神社


「この時代は、本来あるはずだった歴史とは違うんです。

運命が、どこかで分かれてしまった。

まるで、川の流れが岐れて別の道を流れていくように――

ここは、その“もう一つの川”なんです」


彼女は、それだけで理解した。


「そうした無数の『もうひとつの世界』そこから貴方はきたのね?」


疑いもせず、驚きもせず、真っ直ぐに見つめられた時、彼女は、確かに

————見えているのだと悟った。



————そして、

「浅野は、彼女を憎んでたんだね。」


的確にそれを当てた。

何故分かったのかを聞いたら、言葉の端々にそんな感情を読み取っただけだと言った。


大事な人を死に追いやった。それが彼女の仲間だった。誰を傷つければ、仲間達が傷つくか。それが、彼女であっただけ。



「————なら、

共に京に行こう。君に、診てもらいたい人もいるし、何より、いく場所ないでしょう?」


唐突過ぎるほどに、唐突だった。


確かに、松本良順は、未来から来たという事を信じなかった。居場所が無いと感じてしまった俺に、何の躊躇いもなく手を差し出した。


戻ってきた意味も、何もわからない俺に、全てを知りながら、そう声を掛けてくれた。その言葉が、ただただ嬉しかった。



そして女は告げる。


————君、私の腹違いの弟だと思うよ。


それは、水戸藩の書物に記してあったのだと言う。


「でも、信じたく無かったら信じなくていい。巫女の弟なんて、周りが変な期待して肩身が狭くなっちゃうし。」


ふっと笑った。彼女は、寂しげだった。


「————名乗る。」


気付けば、そう言っていた。





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