低く、白い雲が流れていく。
地の冷たさを残した空気の中、隊列はゆっくりと西へ向かっていた。
剥き出しの街道にはまだ冬の匂いが漂っており、両脇には枯れ残ったススキと、名残雪の跡。時折、土の香りにまじって、農家の囲炉裏の煙が風に乗って流れてくる。
「……姫、ほんとに最後尾にいるな」
ふいに前を歩く原田が呟いた。
その声に、周囲の何人かがちらと振り返る。
遠く、列の一番後ろ。
白の単衣が、風に翻って揺れていた。まるで、冬の名残に咲く花のように。陽の光に少し透けたその布が、まっすぐに地を踏みしめている。
「最初は、目立ちたがりかと思ってたけどな」
隣を歩いていた永倉が笑った。
「いや、あれは違ぇよ。……倒れたら、自分で支えるつもりなんだろ」
「支える? 女が?」
「……違ぇって。あの人、“姫”なんて呼ばれてるけど、実際は――」
永倉が言いかけて、黙る。
正確な言葉が見つからなかった。
その先で、野を渡る風が隊列の間をすり抜けた。凛とした空気が、首元を抜けて背筋を撫でる。
先に歩く芹沢は、手に持った煙管を口元に運びながら小さく鼻を鳴らしていた。
(用心深い女だ……いや、“姫”だなんて甘く呼ぶには鋭すぎる)
列の最後尾というのは、全体が崩れたとき、真っ先に敵に背を見せる場所だ。
逃げるのではなく、支える者が立つ位置。
そういう立ち回りを、女一人でやるとはな。
その目に映ったのは、野をゆく一羽の鷹だった。高く、けれど孤独に――自由でも、ある意味では獰猛に。
「ふっ……」
一つだけ煙を吐き、芹沢は前を向く。誰にも悟らせず、ただ自分だけが静かに笑った。
**
その少し後ろ、浅野薫が空を仰いでいた。
道の端に咲く小さな菜の花に気づいて、歩きながら目を落とす。
「……あんなに綺麗なのに、寒さの中で立ってる」
呟いたのは椿のことか、草花のことか、自分でも分からなかった。彼女は、どこか絵の中の存在のようだった。けれど、江戸を出る前――自分の額に手を置いて、「あんまり無理しないでね」と言ってくれた手の温もりは、確かに現実にあった。
「誰より人間らしいのに、誰より遠い……」
ぽつりと漏らした声は、誰にも拾われなかった。だが、道端に咲くたった一輪の白椿が、どこかで風に揺れたように見えた。
「半分血が繋がってるなんて、嘘みたい。」
**
その最後尾。
椿は風に吹かれながら歩いていた。
咳を堪え、鼻をひとつ啜りながら。それでも姿勢は崩さず、誰にも見せぬよう、静かに歩く。
この列が、誰一人取り残されずに進むために。
誰かが倒れたら、必ず手を伸ばせる位置にいるために。
そして――
「もし、敵が後ろから来たなら……私が止める」
ぽつりと、誰にも聞こえぬ声で言った。
誰も彼女の背を見ていない。
けれど、誰もがどこかでその背中を“意識して”歩いている。
それが、椿という存在だった。
風が冷たい。空は晴れているが、土はまだ湿り、靴の裏に重くまとわりつく。黙々と歩き続ける浪士たちの背中は、どこか重たげだった。
「……寒いですね」
その声に、びくりと肩を揺らす者がいた。
列の後ろから、やわらかな声が届く。
振り返ると、椿がいた。
白い単衣を纏い、小さな包みを胸元に抱いている。
「あ、はい。……いや、平気です、姫」
「そう。でも、無理しないで。顔、真っ青だから」
笑みを浮かべたまま、彼女は懐から小さな飴を取り出し、甘さが恋しい道中の慰めだった。
「どうぞ。喉にもいいのよ、これ」
渡された若い隊士は、言葉もなく頷いた。
列の流れに引き戻されるように前を向きながら、口に含む。その小さな甘味が、不思議と胸に沁みた。
しばらく歩くと、今度は前方で足を引きずる音がした。
「……痛むの?」
椿は再び歩を早め、小さく肩で息をしながら近づいていく。
「ん……いや、ちょっと、靴擦れで。別に、大丈夫だって」
「見せて」
「いや、あの、でも――」
「見せて」
ふと目が合う。
何も言えなくなる。
椿の目は、決して強く責めるようなものではない。けれど、絶対に曖昧を許さない、まっすぐなものだった。
しゃがみこんだ椿は、懐から細布を取り出し、足元にそっと巻く。
指先は冷たく、けれど驚くほど丁寧だった。
「これで、少しは楽になるはず」
「……ありがとう、姫」
「名前で呼んでくれていい。」
そう言って、椿はまた静かに列の後ろに戻っていく。
**
そうして一歩一歩、誰かの背中を見送りながら歩き続ける椿に、次第に浪士たちの目が変わっていった。最初は“巫女”であり、“姫”だったその存在は、今――
「……守られてるの、こっちの方じゃねぇか」
ぽつりと、原田が呟いた。
列の少し前では、浅野が黙って後ろを振り返っていた。その眼差しには、焦がれるような何かと、同時に拭いきれぬ後ろめたさが宿っていた。
「俺、あの人のこと、何も知らねぇんだな……」
**
一番後ろから、今日も椿は声をかけていく。
「転ばないようにね」
「その荷、代わりましょうか」
「喉が乾いたら言って。少しだけですが、水あります」
優しさを押しつけず、でも確かに手を差し伸べる声。それが、浪士たちの背に届いていく。
**
夕方、薄曇りの空に陽が沈む頃。
冷えた空気に混じって、椿の咳がひとつ、響いた。
それを聞いた誰かが、列を抜けて引き返しかける。しかし、椿は微笑んで首を振った。
「大丈夫。……少し咳が出るだけ。風邪ではないの」
「……」
「だから、皆は、前を向いて」
その一言に、男は黙って頷いた。
その背中が再び列に戻るとき。
椿はそっと、自分の喉に手をあてる。
咳は、確かに悪化していた。
けれど、それを知られないことが、今の彼女にとっては何よりも重要だった。
宿屋につき、椿は、浅野に声をかけた。
彼は、椿の顔色を見るなり、部屋へと腕を引いて行く。
「何でもっと早く言わないんですか?」
「………ごめん。」
「とにかく、横になって下さい。
————大丈夫。貴女は眠っていたらいい。」
小さく頷く椿は、目蓋を閉じていく。
浅野が手にしたモノは、この時代には似つかわしくない注射器で、手慣れた様に椿に処置を施していった。
「あんただけだ。
未来から来た俺を側に置き、信用してくれのは。」
何の疑いもなく、彼女は、未来の話を聞いてくれた。幕末に生き、新選組と共に歩んだ軌跡をそこに、千夜という女がいた話も……
「居ないぜ?パラレルワールドなんて理解できる人間なんて。」
その言葉をかけてくれたのは、あの日、あの神社の境内だった
————数日前・八坂神社
「この時代は、本来あるはずだった歴史とは違うんです。
運命が、どこかで分かれてしまった。
まるで、川の流れが岐れて別の道を流れていくように――
ここは、その“もう一つの川”なんです」
彼女は、それだけで理解した。
「そうした無数の『もうひとつの世界』そこから貴方はきたのね?」
疑いもせず、驚きもせず、真っ直ぐに見つめられた時、彼女は、確かに
————見えているのだと悟った。
————そして、
「浅野は、彼女を憎んでたんだね。」
的確にそれを当てた。
何故分かったのかを聞いたら、言葉の端々にそんな感情を読み取っただけだと言った。
大事な人を死に追いやった。それが彼女の仲間だった。誰を傷つければ、仲間達が傷つくか。それが、彼女であっただけ。
「————なら、
共に京に行こう。君に、診てもらいたい人もいるし、何より、いく場所ないでしょう?」
唐突過ぎるほどに、唐突だった。
確かに、松本良順は、未来から来たという事を信じなかった。居場所が無いと感じてしまった俺に、何の躊躇いもなく手を差し出した。
戻ってきた意味も、何もわからない俺に、全てを知りながら、そう声を掛けてくれた。その言葉が、ただただ嬉しかった。
そして女は告げる。
————君、私の腹違いの弟だと思うよ。
それは、水戸藩の書物に記してあったのだと言う。
「でも、信じたく無かったら信じなくていい。巫女の弟なんて、周りが変な期待して肩身が狭くなっちゃうし。」
ふっと笑った。彼女は、寂しげだった。
「————名乗る。」
気付けば、そう言っていた。