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第23話


春の陽光が柔らかく寺の境内を照らす中、浪士たちは整然と集まっていた。凛とした佇まいの椿が、膝上丈の巫女装束を翻しながら静かに歩み寄る。


その時、清河八郎が人混みの中からゆったりとした足取りで現れた。彼の目が細まり、優しいがどこか狡猾さを感じさせる猫撫で声で、椿に声をかける。


「おお、姫君。今日も麗しいな。そちらにおいでになるとは、風も気まぐれだ」


椿は振り返らず、淡々と答える。


「風は気まぐれではなく、抜け道を探しているだけです」


清河の笑みがわずかに深まる。


「ふむ、さすがは巫女。言葉の裏に意味を隠すとは、興味深い」


その言葉に、芹沢鴨が煙管をくゆらせながら目を細める。


(……風は西を撫で、蛇は音もなく土に眠る)


緊張が走る中、浪士たちは改めて気を引き締め、椿の背にそれぞれの覚悟を重ねるのだった。


その時だった。

京の空を撫でる風が一筋、椿の前を吹き抜けた。


まるで、その者の到着を告げるかのように——。


草履の音が石畳を打ち、乾いた砂を巻き上げる。肩を大きく上下させた一人の男が駆け込んできたかと思えば、膝をつき、勢いのままに頭を垂れた。

「浅野。間に合ってよかった。」


静かにそう告げると、彼女はそっと手を伸ばし、浅野の頭に掌を置いた。


白くしなやかな指が、彼の乱れた髪に触れる。

まるで、帰るべき場所に帰ってきた者を迎えるような、柔らかな仕草だった。


その一瞬、浅野の肩がわずかに震えた。


「……置いてくこと、ねぇだろ?」

浅野がぽつりと呟いた声は、ほんの僅かに拗ねていた。


「だって、よく寝てたから。起こすの、忍びなくて」

椿の声もまた、柔らかく冗談めいていた。


そのやり取りに、静まり返っていた周囲の空気が少しだけ緩む。

遠巻きに見ていた浪士たちがざわめき、試衛館の面々が顔を見合わせる。


「誰や?あいつ……」

「随分と遅れて来たな…」


「んー。なるほど、気に入りか」

沖田の口元に、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。


「ちゃうよ。アイツは、医者や。」

山崎が低く呟いたその声に、周囲の視線が再び集中する。


「……医者?」

「なんや、あの歳で?」


山崎は少しだけ顎を上げて、椿の隣に立つその男を一瞥した。

そして、ふっと笑う。


「姫さんの――腹違いの弟や」


空気が一瞬で変わる。


誰かが息を呑み、別の誰かが眉を寄せた。

「……嘘やろ」「マジか」そんな小声が、いくつか洩れ聞こえる。


けれど、当の椿は何も言わない。

その沈黙が、何よりも答えを裏付けていた。


椿はそんな周囲の視線もどこ吹く風と、浅野の額に手を当てる。

「……熱、ないみたいね。走ってきたから顔が赤いだけ」


「うるせぇ。……置いてくなって言ったのに」

浅野が目を逸らしながら呟くと、椿はふっと笑った。


その笑みに、浪士たちの間でまた小さなどよめきが起きる。


「……姫、笑ったで」

「……初めて見たかも」


土方がじっとそのやり取りを見つめていた。


浪士たちの注目が集まる中、浅野はゆっくりと頭を下げた。

京の柔らかな日差しが、彼の落ち着いた声を引き立てる。


「浅野薫と申します。医術を学び、今は——椿様の主治医を務めております。今回、皆様と共に京へ向かうこととなりましたのは、道中の衛生管理と体調管理のためです。どうぞ、よろしくお願いいたします。」


静かな声だったが、凛とした確かな芯があった。

その場にいた浪士たちは一瞬言葉を失い、そして次第にざわめき始める。


「主治医?姫さんの……」

「へぇ、こんな若ぇのに立派なもんだな」

「なんか…品があるな」


浅野は軽く会釈しながら視線を上げると、そっと椿の方を見やった。

だが椿は特に何も言わず、ただ彼の背を静かに見守っていた。



文久三年二月二十三日。

冬の名残を残した朝の空気は冷たく、ぴんと張り詰めた空気の中に、何かが始まる前の緊張が漂っていた。


江戸・伝通院前。

そこには百五十名を超える男たちが列を成していた。刀を腰に、誰もが張りつめた面持ちで、東海道を進む覚悟を静かに胸に秘めている。


その先頭。

白木蓮の花びらを思わせる、淡い白の単衣を纏ったひときわ小柄な少女が、ゆっくりと列の前に進み出る。

椿。浪士組を率いる、若き巫女。


膝上までしかない巫女装束は、京の娘としての洒落気か、それとも武の者としての覚悟か。

白布の下から覗く細くしなやかな脚に、ざわめく男たちの視線が注がれた。


その視線を遮るように、山崎烝がすっと一歩前に出る。彼の羽織が風にひるがえり、さりげなく椿の身体を覆った。


「姫さん、風、冷たいさかいな」

そう言って肩越しに笑いかける山崎の姿に、少しだけ場の空気が和んだ。


そんな中、浅野薫が列の横に姿を現した。黒い羽織の裾を翻し、椿の元へと静かに近づく。


「姫……椿様、準備は整いました」

彼は控えめにそう告げると、列の男たちに向き直って一礼する。


「浅野薫。椿様の主治医として同行します。道中、何かあれば声をかけてください」


椿は一歩前に出ると、皆をぐるりと見渡し、ゆっくりと口を開いた。


「……これより、我らは京へ向かいます。誰か一人が欠けることなく、全員が無事に京の地に立つこと。それが、私の第一の願いです」


静かな声に、百五十名の男たちは思わず背筋を正した。その目には、畏敬とともに、目の前の巫女に向けた信頼の色が滲んでいた。


そして、馬のいななきが空を裂いた。


椿が一歩、列の先へと進む。

その小さな背に、百五十の意思が重なってゆく。


まるで、あの風が導いたように。


浪士組、いま——出立す。



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