春の陽光が柔らかく寺の境内を照らす中、浪士たちは整然と集まっていた。凛とした佇まいの椿が、膝上丈の巫女装束を翻しながら静かに歩み寄る。
その時、清河八郎が人混みの中からゆったりとした足取りで現れた。彼の目が細まり、優しいがどこか狡猾さを感じさせる猫撫で声で、椿に声をかける。
「おお、姫君。今日も麗しいな。そちらにおいでになるとは、風も気まぐれだ」
椿は振り返らず、淡々と答える。
「風は気まぐれではなく、抜け道を探しているだけです」
清河の笑みがわずかに深まる。
「ふむ、さすがは巫女。言葉の裏に意味を隠すとは、興味深い」
その言葉に、芹沢鴨が煙管をくゆらせながら目を細める。
(……風は西を撫で、蛇は音もなく土に眠る)
緊張が走る中、浪士たちは改めて気を引き締め、椿の背にそれぞれの覚悟を重ねるのだった。
その時だった。
京の空を撫でる風が一筋、椿の前を吹き抜けた。
まるで、その者の到着を告げるかのように——。
草履の音が石畳を打ち、乾いた砂を巻き上げる。肩を大きく上下させた一人の男が駆け込んできたかと思えば、膝をつき、勢いのままに頭を垂れた。
「浅野。間に合ってよかった。」
静かにそう告げると、彼女はそっと手を伸ばし、浅野の頭に掌を置いた。
白くしなやかな指が、彼の乱れた髪に触れる。
まるで、帰るべき場所に帰ってきた者を迎えるような、柔らかな仕草だった。
その一瞬、浅野の肩がわずかに震えた。
「……置いてくこと、ねぇだろ?」
浅野がぽつりと呟いた声は、ほんの僅かに拗ねていた。
「だって、よく寝てたから。起こすの、忍びなくて」
椿の声もまた、柔らかく冗談めいていた。
そのやり取りに、静まり返っていた周囲の空気が少しだけ緩む。
遠巻きに見ていた浪士たちがざわめき、試衛館の面々が顔を見合わせる。
「誰や?あいつ……」
「随分と遅れて来たな…」
「んー。なるほど、気に入りか」
沖田の口元に、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「ちゃうよ。アイツは、医者や。」
山崎が低く呟いたその声に、周囲の視線が再び集中する。
「……医者?」
「なんや、あの歳で?」
山崎は少しだけ顎を上げて、椿の隣に立つその男を一瞥した。
そして、ふっと笑う。
「姫さんの――腹違いの弟や」
空気が一瞬で変わる。
誰かが息を呑み、別の誰かが眉を寄せた。
「……嘘やろ」「マジか」そんな小声が、いくつか洩れ聞こえる。
けれど、当の椿は何も言わない。
その沈黙が、何よりも答えを裏付けていた。
椿はそんな周囲の視線もどこ吹く風と、浅野の額に手を当てる。
「……熱、ないみたいね。走ってきたから顔が赤いだけ」
「うるせぇ。……置いてくなって言ったのに」
浅野が目を逸らしながら呟くと、椿はふっと笑った。
その笑みに、浪士たちの間でまた小さなどよめきが起きる。
「……姫、笑ったで」
「……初めて見たかも」
土方がじっとそのやり取りを見つめていた。
浪士たちの注目が集まる中、浅野はゆっくりと頭を下げた。
京の柔らかな日差しが、彼の落ち着いた声を引き立てる。
「浅野薫と申します。医術を学び、今は——椿様の主治医を務めております。今回、皆様と共に京へ向かうこととなりましたのは、道中の衛生管理と体調管理のためです。どうぞ、よろしくお願いいたします。」
静かな声だったが、凛とした確かな芯があった。
その場にいた浪士たちは一瞬言葉を失い、そして次第にざわめき始める。
「主治医?姫さんの……」
「へぇ、こんな若ぇのに立派なもんだな」
「なんか…品があるな」
浅野は軽く会釈しながら視線を上げると、そっと椿の方を見やった。
だが椿は特に何も言わず、ただ彼の背を静かに見守っていた。
文久三年二月二十三日。
冬の名残を残した朝の空気は冷たく、ぴんと張り詰めた空気の中に、何かが始まる前の緊張が漂っていた。
江戸・伝通院前。
そこには百五十名を超える男たちが列を成していた。刀を腰に、誰もが張りつめた面持ちで、東海道を進む覚悟を静かに胸に秘めている。
その先頭。
白木蓮の花びらを思わせる、淡い白の単衣を纏ったひときわ小柄な少女が、ゆっくりと列の前に進み出る。
椿。浪士組を率いる、若き巫女。
膝上までしかない巫女装束は、京の娘としての洒落気か、それとも武の者としての覚悟か。
白布の下から覗く細くしなやかな脚に、ざわめく男たちの視線が注がれた。
その視線を遮るように、山崎烝がすっと一歩前に出る。彼の羽織が風にひるがえり、さりげなく椿の身体を覆った。
「姫さん、風、冷たいさかいな」
そう言って肩越しに笑いかける山崎の姿に、少しだけ場の空気が和んだ。
そんな中、浅野薫が列の横に姿を現した。黒い羽織の裾を翻し、椿の元へと静かに近づく。
「姫……椿様、準備は整いました」
彼は控えめにそう告げると、列の男たちに向き直って一礼する。
「浅野薫。椿様の主治医として同行します。道中、何かあれば声をかけてください」
椿は一歩前に出ると、皆をぐるりと見渡し、ゆっくりと口を開いた。
「……これより、我らは京へ向かいます。誰か一人が欠けることなく、全員が無事に京の地に立つこと。それが、私の第一の願いです」
静かな声に、百五十名の男たちは思わず背筋を正した。その目には、畏敬とともに、目の前の巫女に向けた信頼の色が滲んでいた。
そして、馬のいななきが空を裂いた。
椿が一歩、列の先へと進む。
その小さな背に、百五十の意思が重なってゆく。
まるで、あの風が導いたように。
浪士組、いま——出立す。