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第29話

藁屋根の隙間から、やわらかな朝日が射し込んでいた。


ぼんやりと瞼が揺れ、椿はゆるやかに目を開けた。視界の輪郭が曖昧なまま、肺に入り込む空気の重さに、彼女はゆっくりと深く呼吸する。


……苦しくない。


身体はまだ重い。喉の奥には熱の名残が微かに残っているが、昨日のような胸の焼けるような痛みはなかった。


「……ん……」


小さく声を漏らすと、すぐそばで布ずれの音がした。顔を横に向ければ、山崎が膝をつき、こちらを見ていた。


「……おはよう、姫さん」


声は低く、けれどどこか、安心したような響きを帯びていた。


椿は、ふと山崎の顔を見つめた。まぶたの下には、深い疲労の影。おそらく、ほとんど眠っていないのだろう。


「……また、迷惑かけた」


「せやな。しこたま」


山崎はわざと肩をすくめて笑ってみせる。


椿は、そっと手を伸ばした。

指先が山崎の頬にふれる。

ただ、それだけで、心がじんわりとほどけていくようだった。


拒むどころか、山崎はその頬に添えられた椿の手に、自分の手を重ねた。

ただ、そっと。大きな手で、そのぬくもりを確かめるように。


「……なんや、姫さん。熱、うつったか?」


かすかに笑ってみせたが、声が震えていた。


椿は何も言わない。ただ、目を伏せたまま、山崎の頬をなぞる。


その肌に、血が通っていること。生きていること。傍に居てくれたという証が、指先に伝わってきた。


「ごめん。寝れなかったでしょう?」


冷たくも熱くもない、やわらかな指先だった。


「……ええねん」


山崎は俯いたまま、ぼそりと返す。

その声は小さく、けれど、喉の奥に何かを押し込めたように詰まっていた。


「ほんまに、平気やから」


「……ほんとうに?」


椿が優しく問い返すと、山崎はふいに視線を逸らす。堪えていたものが、音もなく崩れていくのがわかった。


「……俺、守れたんかな」


それは、自分に問うような声だった。

椿の命。椿の笑顔。椿が前に進むための力――


そのどれもを、守れたのかどうか、不安で仕方なかったのだ。


椿はなにも言わず、彼の手を取り、自分の胸元にそっと添えた。


「……あったかいでしょう?」


「……うん」


「生きてるよ、ちゃんと。ね?」


山崎は、瞳を伏せたまま、ゆっくりと息を吸い込んだ。

椿の胸から伝わる鼓動が、じんわりと手のひらに染みていく。


そして、ぽたり。


一粒の涙が、彼の頬を伝い、椿の着物に落ちた。


気づかぬうちに溢れていたそれを、山崎はすぐに拭おうともせず、ただ俯いたまま、唇を噛んでいた。


「……あかん……なんで、今さら……」


喉が震える。


「ほんまは、ずっと怖かったんや……間に合わんのちゃうかって、何度も……っ」


言葉にならない声が、彼の奥底から洩れる。そしてまた、静かに、涙が落ちる。


椿は、そんな山崎をそっと引き寄せた。


頭を自分の胸に抱きよせて、小さく、小さく撫でる。


「……よしよし。いいこ」


山崎の体が、小さく震えた。


「でも、泣いていいよ? 朝でも、夜でも。私の前なら、いつでも」


山崎の肩がふっと揺れた。


どこまでも柔らかくて、温かい声だった。


山崎はもう、なにも言えなかった。ただ、彼女の腕の中で、子供のように涙をこぼすことしかできなかった。


それが、どれほど彼の魂を軽くしたかを――椿は、よく知っていた。


額を椿の胸に預けたまま、山崎はしばらくの間、じっとしていた。


椿は黙って、その髪を撫でつづけていた。


山崎が流した涙の温もりが、椿の胸をじんわりと濡らしていく。けれど彼女はそれを拭おうともしない。ただ、静かに受け止めていた。


「……泣いてへんし」


ぼそりと、顔を上げずに山崎が言う。


椿はくすりと笑う。


「うん、泣いてない泣いてない。……ちょっと目から水がこぼれただけ」


「せや。……朝露、や」


「そっか。朝露が顔に落ちて、それで濡れただけなんだね」


「そうや。しかも……姫さんが勝手に撫でるから……」


山崎の声はどこかふてくされていたが、それ以上何も言えず、また小さくため息を落とした。


椿は、彼の肩に手をのせ、もう一度だけ優しく頭を撫でる。


「私の前では、泣いても怒っても、甘えてもいい」


「……そんな風に言うたら、調子乗るで」


「うん。いいよ、乗って」


山崎はようやく顔を上げた。目の周りが赤い。


「あかんて……朝から、姫さんに泣かされたとか、洒落にならん」


「うん。じゃあ、秘密にしとく」


そう言って、椿は人差し指を唇に当てる。


「ここだけの、ふたりの秘密」


それを見て、山崎はついにふっと笑った。

泣いたあとの笑顔は、どこか子どもっぽく、けれど確かに彼自身のもので。


「しゃあないな……全部、姫さんのせいや」


「えへへ、じゃあ責任とってあげる」


「どんな責任やねん……」


冗談を言い合いながらも、互いに触れている温もりが、何よりも心をやわらかく包んでいた。


まるで、冬が終わる朝の光のように。


————宿屋・一室


囲炉裏の端、酒を口にするにはまだ早い時間にもかかわらず、芹沢鴨は湯呑を手にして、煙管をくゆらせていた。

椿の方へ目をやるでもなく、天井の煤けた梁を見上げたまま、ぽつりと呟く。


「……あいつぁ、泣かせる女だな」


その声は、誰に言うでもなく、誰に聞かせるでもない。


けれど、原田と永倉がちらりと視線を寄せ、土方がわずかに目を伏せた。


芹沢は続ける。


「どこか壊れちまってるのかと思ってたが……壊れねぇために、誰より強がって生きてんだな、あれは」


煙草の煙が、ゆるやかに立ちのぼる。


「……道理で男どもが惑うわけだ。俺も若けりゃ、きっと惚れてた」


藤堂が「うわ、言った!」と小声で笑いを漏らすと、芹沢は煙管を軽く振って黙らせた。


その目は、まるで椿の生き様の奥に、かつての何かを見ているようだった。


————朝餉の席


囲炉裏の火は控えめに焚かれ、湯気の立つ味噌汁の香りが、しんと静まりかえった室内にほんのり漂っていた。


椿は、まだ少しぼんやりとした足取りで席についた。薬の副作用もあってか、どこか夢見心地な顔をしている。けれど、頬の色は昨日よりずっとよく、胸の動きも穏やかだ。


そんな彼女に、気づかれぬように視線を向ける者は多かった。


一番最初に椿の隣に膳を置いたのは、山崎だった。


朝露の名を借りた涙の痕跡は、すっかり拭い去られていたが、どこか誤魔化しきれない赤みが残る瞼のまま、彼はいつも通りに椿の前に湯を置き、ふわりと笑ってみせた。


「……冷めんうちに食べや」


「うん……ありがとう」


その返事に、山崎の耳がほんの少しだけ赤く染まる。


そこへ、湯の入った湯呑を無言で差し出してきたのは、土方だった。


目も合わさず、言葉もない。ただ、湯呑の底がひときわ強く畳に置かれた音だけが、気遣いの形だった。


山崎はわずかに目を伏せて、それを受け取る。


「……ありがと、ございます」


その声は小さくても、しっかりと土方に届いていた。


そのやりとりを斜め向かいで見ていた沖田が、口を覆いながら小声で囁いた。


「恋煩いですか?」


「違うわ」


山崎が即座に返すと、沖田はくすくすと笑いながら、味噌汁の具を箸でつついた。


「……けど、綺麗だったんだって。朝の姫さんと、泣いた君」


「聞いとったんか……っ」


「障子、薄いもんね」


周囲に聞かれぬような声量だったが、わざとらしく目を逸らす藤堂や、鼻を啜って誤魔化す井上が、実はみな耳をそばだてていたことを物語っていた。


誰も揶揄いはしない。

ただ、少しばかり、皆の表情が柔らかくなっているのが分かる。


椿が目を伏せて口をつけた湯は、少しだけ塩の味がした。


それでも、彼女はにこりと笑って言う。


「……あったかい」


誰にともなく漏れたそのひとことに、皆の手が一瞬止まり、そしてまた何事もなかったかのように箸を動かし始めた。


**


芹沢はひとり、少し離れた席で湯をすすりながら、その様子を黙って見ていた。


そして一言、ぽつりと。


「……あいつが居ると、妙に部屋が丸くなるな」


誰が返すでもない、静かな朝。


けれどその言葉に、誰もが何となく――心の中で頷いていた。

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