藁屋根の隙間から、やわらかな朝日が射し込んでいた。
ぼんやりと瞼が揺れ、椿はゆるやかに目を開けた。視界の輪郭が曖昧なまま、肺に入り込む空気の重さに、彼女はゆっくりと深く呼吸する。
……苦しくない。
身体はまだ重い。喉の奥には熱の名残が微かに残っているが、昨日のような胸の焼けるような痛みはなかった。
「……ん……」
小さく声を漏らすと、すぐそばで布ずれの音がした。顔を横に向ければ、山崎が膝をつき、こちらを見ていた。
「……おはよう、姫さん」
声は低く、けれどどこか、安心したような響きを帯びていた。
椿は、ふと山崎の顔を見つめた。まぶたの下には、深い疲労の影。おそらく、ほとんど眠っていないのだろう。
「……また、迷惑かけた」
「せやな。しこたま」
山崎はわざと肩をすくめて笑ってみせる。
椿は、そっと手を伸ばした。
指先が山崎の頬にふれる。
ただ、それだけで、心がじんわりとほどけていくようだった。
拒むどころか、山崎はその頬に添えられた椿の手に、自分の手を重ねた。
ただ、そっと。大きな手で、そのぬくもりを確かめるように。
「……なんや、姫さん。熱、うつったか?」
かすかに笑ってみせたが、声が震えていた。
椿は何も言わない。ただ、目を伏せたまま、山崎の頬をなぞる。
その肌に、血が通っていること。生きていること。傍に居てくれたという証が、指先に伝わってきた。
「ごめん。寝れなかったでしょう?」
冷たくも熱くもない、やわらかな指先だった。
「……ええねん」
山崎は俯いたまま、ぼそりと返す。
その声は小さく、けれど、喉の奥に何かを押し込めたように詰まっていた。
「ほんまに、平気やから」
「……ほんとうに?」
椿が優しく問い返すと、山崎はふいに視線を逸らす。堪えていたものが、音もなく崩れていくのがわかった。
「……俺、守れたんかな」
それは、自分に問うような声だった。
椿の命。椿の笑顔。椿が前に進むための力――
そのどれもを、守れたのかどうか、不安で仕方なかったのだ。
椿はなにも言わず、彼の手を取り、自分の胸元にそっと添えた。
「……あったかいでしょう?」
「……うん」
「生きてるよ、ちゃんと。ね?」
山崎は、瞳を伏せたまま、ゆっくりと息を吸い込んだ。
椿の胸から伝わる鼓動が、じんわりと手のひらに染みていく。
そして、ぽたり。
一粒の涙が、彼の頬を伝い、椿の着物に落ちた。
気づかぬうちに溢れていたそれを、山崎はすぐに拭おうともせず、ただ俯いたまま、唇を噛んでいた。
「……あかん……なんで、今さら……」
喉が震える。
「ほんまは、ずっと怖かったんや……間に合わんのちゃうかって、何度も……っ」
言葉にならない声が、彼の奥底から洩れる。そしてまた、静かに、涙が落ちる。
椿は、そんな山崎をそっと引き寄せた。
頭を自分の胸に抱きよせて、小さく、小さく撫でる。
「……よしよし。いいこ」
山崎の体が、小さく震えた。
「でも、泣いていいよ? 朝でも、夜でも。私の前なら、いつでも」
山崎の肩がふっと揺れた。
どこまでも柔らかくて、温かい声だった。
山崎はもう、なにも言えなかった。ただ、彼女の腕の中で、子供のように涙をこぼすことしかできなかった。
それが、どれほど彼の魂を軽くしたかを――椿は、よく知っていた。
額を椿の胸に預けたまま、山崎はしばらくの間、じっとしていた。
椿は黙って、その髪を撫でつづけていた。
山崎が流した涙の温もりが、椿の胸をじんわりと濡らしていく。けれど彼女はそれを拭おうともしない。ただ、静かに受け止めていた。
「……泣いてへんし」
ぼそりと、顔を上げずに山崎が言う。
椿はくすりと笑う。
「うん、泣いてない泣いてない。……ちょっと目から水がこぼれただけ」
「せや。……朝露、や」
「そっか。朝露が顔に落ちて、それで濡れただけなんだね」
「そうや。しかも……姫さんが勝手に撫でるから……」
山崎の声はどこかふてくされていたが、それ以上何も言えず、また小さくため息を落とした。
椿は、彼の肩に手をのせ、もう一度だけ優しく頭を撫でる。
「私の前では、泣いても怒っても、甘えてもいい」
「……そんな風に言うたら、調子乗るで」
「うん。いいよ、乗って」
山崎はようやく顔を上げた。目の周りが赤い。
「あかんて……朝から、姫さんに泣かされたとか、洒落にならん」
「うん。じゃあ、秘密にしとく」
そう言って、椿は人差し指を唇に当てる。
「ここだけの、ふたりの秘密」
それを見て、山崎はついにふっと笑った。
泣いたあとの笑顔は、どこか子どもっぽく、けれど確かに彼自身のもので。
「しゃあないな……全部、姫さんのせいや」
「えへへ、じゃあ責任とってあげる」
「どんな責任やねん……」
冗談を言い合いながらも、互いに触れている温もりが、何よりも心をやわらかく包んでいた。
まるで、冬が終わる朝の光のように。
————宿屋・一室
囲炉裏の端、酒を口にするにはまだ早い時間にもかかわらず、芹沢鴨は湯呑を手にして、煙管をくゆらせていた。
椿の方へ目をやるでもなく、天井の煤けた梁を見上げたまま、ぽつりと呟く。
「……あいつぁ、泣かせる女だな」
その声は、誰に言うでもなく、誰に聞かせるでもない。
けれど、原田と永倉がちらりと視線を寄せ、土方がわずかに目を伏せた。
芹沢は続ける。
「どこか壊れちまってるのかと思ってたが……壊れねぇために、誰より強がって生きてんだな、あれは」
煙草の煙が、ゆるやかに立ちのぼる。
「……道理で男どもが惑うわけだ。俺も若けりゃ、きっと惚れてた」
藤堂が「うわ、言った!」と小声で笑いを漏らすと、芹沢は煙管を軽く振って黙らせた。
その目は、まるで椿の生き様の奥に、かつての何かを見ているようだった。
————朝餉の席
囲炉裏の火は控えめに焚かれ、湯気の立つ味噌汁の香りが、しんと静まりかえった室内にほんのり漂っていた。
椿は、まだ少しぼんやりとした足取りで席についた。薬の副作用もあってか、どこか夢見心地な顔をしている。けれど、頬の色は昨日よりずっとよく、胸の動きも穏やかだ。
そんな彼女に、気づかれぬように視線を向ける者は多かった。
一番最初に椿の隣に膳を置いたのは、山崎だった。
朝露の名を借りた涙の痕跡は、すっかり拭い去られていたが、どこか誤魔化しきれない赤みが残る瞼のまま、彼はいつも通りに椿の前に湯を置き、ふわりと笑ってみせた。
「……冷めんうちに食べや」
「うん……ありがとう」
その返事に、山崎の耳がほんの少しだけ赤く染まる。
そこへ、湯の入った湯呑を無言で差し出してきたのは、土方だった。
目も合わさず、言葉もない。ただ、湯呑の底がひときわ強く畳に置かれた音だけが、気遣いの形だった。
山崎はわずかに目を伏せて、それを受け取る。
「……ありがと、ございます」
その声は小さくても、しっかりと土方に届いていた。
そのやりとりを斜め向かいで見ていた沖田が、口を覆いながら小声で囁いた。
「恋煩いですか?」
「違うわ」
山崎が即座に返すと、沖田はくすくすと笑いながら、味噌汁の具を箸でつついた。
「……けど、綺麗だったんだって。朝の姫さんと、泣いた君」
「聞いとったんか……っ」
「障子、薄いもんね」
周囲に聞かれぬような声量だったが、わざとらしく目を逸らす藤堂や、鼻を啜って誤魔化す井上が、実はみな耳をそばだてていたことを物語っていた。
誰も揶揄いはしない。
ただ、少しばかり、皆の表情が柔らかくなっているのが分かる。
椿が目を伏せて口をつけた湯は、少しだけ塩の味がした。
それでも、彼女はにこりと笑って言う。
「……あったかい」
誰にともなく漏れたそのひとことに、皆の手が一瞬止まり、そしてまた何事もなかったかのように箸を動かし始めた。
**
芹沢はひとり、少し離れた席で湯をすすりながら、その様子を黙って見ていた。
そして一言、ぽつりと。
「……あいつが居ると、妙に部屋が丸くなるな」
誰が返すでもない、静かな朝。
けれどその言葉に、誰もが何となく――心の中で頷いていた。