京が近づくほどに、町の空気が熱を帯びていく。
「まるで信仰だな……」と永倉が呟いたのは、まだ柔らかな日差しの残る夕刻だった。
道行く人々の視線は、椿に集中していた。噂はもう巷に満ちていたのだ。「不老不死の巫女」「赤き蝶を呼ぶ神女」「天より遣われし者」——そんな名が、口々に囁かれている。
「これだけ歓迎されるの、慣れてるのですか?」と山南が訊けば、椿はただひとこと、こう答えた。
「慣れるわけないよ」
宿に入る頃には、椿の頬には熱が戻りきらず、薬の副作用か、足元がふらついていた。
「もう……馬の揺れ、きらい。走るならまだしも…」
そうぼやく椿の腰を、山崎が支えてやると、「ほんまに、これだけやったら、どんだけ楽か……」と苦笑を漏らした。そんなやり取りを、沖田が横目で見ている。
「甘いなぁ。でも、あんな顔されたら、手ぇ出しづらいよね」
土方はそれを後ろから見ていた。そして一言だけ、低く呟いた。
「……命張って守ってんだ」
その夜のことだった。
宿の一室。椿は薬のせいで深く眠っていた。——はずだった。だが、ふとした気配で目が覚める。
障子の向こうに、音もなく立つ黒い影。刀が、白い月光を切り裂いて振り下ろされた。
「——っ!」
椿はとっさに身を捻ったが、鋭い刃が左腕をかすめ、熱い血が畳に滴る。
血の匂いが部屋を満たす。
襖が吹き飛び、土方、沖田、そして山崎が駆け込んできた。
「姫さんっ!」
叫びとともに山崎が彼女に駆け寄る。
風が止まった。
誰もが、その一滴を見ていた。
椿の左腕から流れ落ちた鮮やかな血。
それはただの赤ではなかった。
どこか、紅に近い。
けれど紅ではない。
まるで光そのものが色を持ったように——生々しく、美しかった。
地に落ちたそれが、まるで“咲いた”ように見えたのは、気のせいではない。
その直後——
侵入者の男は刃についた椿の血を舐めた。
その瞬間。
「ぐっ……あ゛あああああッ!!!」
男は突如、地を転げ回りはじめた。喉を掻きむしり、白目を剥き、内側から焼かれるような悲鳴をあげる。
その異様な光景に、椿が振り返ろうとした——が。
「——見んくてええ!」
山崎が咄嗟にその目元を手で覆った。
大きな掌が椿の視界を遮り、彼女はその場でぴたりと動きを止める。
「……見んでええ。こんなもん」
その声は低く、苦く、震えていた。
後ろで呻き声が止み、男の身体がぐったりと崩れ落ちる。
「終わったか……」土方が静かに刃を収める。
——そして、沈黙。
椿の目元に、ぽたりと一粒、涙がこぼれ落ちる。
山崎は、何も言わず、まだ手を離さない。
その手に伝わる温もりと痛みが、何より雄弁に真実を語っていた。
「………これじゃ、化け物と変わらない。」
椿の口から溢れた言葉が皆の胸に深く突き刺さっていく。
それは自嘲でも、誰かを責めるものでもなかった。ただ、彼女自身の深い哀しみの色を宿していた。
誰も、すぐには返す言葉を持たなかった。
山崎の手は、まだ彼女の目元に添えられたまま。温もりだけが、静かにその震えを伝えていた。
土方は目を伏せ、沖田はただ静かに息をついた。永倉も藤堂も、声を出せずに立ち尽くす。
胸の奥に、冷たい石が沈んだようだった。
椿の血が「神の証」とも「呪い」とも囁かれる中、その本人が「化け物」と呟いた。
それは、どれほどの孤独か。
誰もが、たとえ一言でも何か返したかった。
——だが、この夜に言葉は追いつかない。
その場の静けさに、ただ風がすり抜けていった。
翌朝。町は騒然としていた。
宿の前には「巫女様をお守りください」と書かれた紙や、供物、花が山のように積まれていた。昨夜の騒動がどれだけ広がってしまったか、誰もが悟っていた。
「やべぇな、姫様……これ、ほんとに囲まないと危険じゃねぇか?」
永倉の言葉に、藤堂も珍しく神妙な顔をしていた。
「巫女の血は、呪いか、奇跡か……」
土方は何も言わなかった。ただ、遠くの空を見つめていた。
沖田がぽつりと呟く。
「……なんで京に近づく度に、狂気じみた信仰になってくんでしょうか」
椿はそのとき、黙って馬にまたがっていた。
白の装束の裾を風に揺らし、無表情で前を見つめていく。
皆の視線は、左腕の晒しへと向けられる。
あの後、縫った傷があの晒しの下に隠れている。
誰もが、椿の傷と涙の重みを理解し、己の心に静かな決意を刻んだ。
「化け物」と自嘲した椿の言葉が胸に刺さる中で、彼女をただ守るだけでなく、彼女が背負うものも受け止める覚悟が浪士組の中に生まれていた。
その日を境に、彼らの結束はさらに強くなり、京への道はただの旅路ではなく、命を賭ける覚悟の道となったのだ。
————宿屋・一室
宿屋の一室は、薄暗い灯りに包まれていた。畳の上に座る山崎の顔には、疲労と決意が混じっている。窓の外からは、静かな夜風が障子をかすかに揺らし、遠くで鶯の声が響いていた。
彼は静かに試衛館の面々を見渡し、深い息を吐く。重く沈んだ空気が室内を満たし、誰もが彼の言葉を待っていた。
山崎はゆっくりと顔を上げ、試衛館の面々一人ひとりを見渡す。疲労の影が見え隠れするその瞳には、決意と覚悟が宿っていた。
「話さな、いかん事がある。
————姫さんは、千夜や。」
その告白が放たれた瞬間、室内の時間が止まったかのようだった。誰もが言葉を失い、その重みを受け止めきれずにいた。静寂の中、山崎の声だけが確かに響き、胸に深く刻まれていった。
その名を聞いた瞬間、沈黙が落ちた。
「千夜」――それは、誰の胸にも淡く、しかし忘れ得ぬ名だった。
土方が最初に動いた。
静かに身を起こし、低く、しかし揺るがぬ声音で言葉を紡ぐ。
「山崎、お前が試衛館に来たのは、千夜が亡くなった後の筈だ。」
「あぁ。知っとる。
俺が試衛館で暮らしたんは、5年やない。
千夜が土方さんに助けられてからずっと、俺は、千夜の従者として常にそばにいた。」
山崎の言葉に、室内の空気がさらに重くなった。
「俺達は、ちぃが亡くなったのを確認して、弔ったんだぞ?」
「俺も確認した。確かに死んだんよ。千夜は。
でも5年目の命日に、千夜が死んだ河原で男達に襲われてた所を俺が助けた。
そん時は、まだ、千夜と同じ、桜色の髪の碧瞳やった。」
沖田の喉がひくりと動いた。
その色を、彼も記憶の底で覚えていた。
「そいつが……椿ちゃんだったってのか?」
山崎は、頷く。
その目に浮かぶのは懐かしさでも感動でもない。深く沈んだ悔恨と、言いようのない恐れだった。
桜色の髪。
千夜以外で出会った事などない。
千夜が生きてて嬉しい。そんな感情は男達には持ち合わせてもいなかった。彼らを包み込むのは、恐怖である。
「姫さんは、三年より前の記憶が無い。
当たり前の事も出来んかった。桜の花の名前すら知らんかった。」
山崎が一番隠しておきたかった本音を口にした。
「俺は、幼い椿を誘拐した大罪人や。
罪人の様に扱われた姫を連れ、逃げる途中に賊に襲われて、千夜を見失った。その後、助けてくれたんは、土方さんやった。」
深く頭を垂れる男は、感謝を表していく。
自分が守れなかった千夜。大罪人。それを犯してでも、助けたかった山崎の気持ちは、痛いほど男達には伝わった。
「ホンマに、あんたには頭上がらん。」
千夜だけじゃなく、自分も助けられた。
その言葉に、土方はふっと目を細めた。
「……助けた覚えなんざねぇよ。
あの時、ただそこにいたのが俺だっただけだ」
それでも、山崎の言葉は揺るがない。
「それでも、俺にとっては恩や。
あの時、千夜が死んだと思うしかなかったあの日……土方さんが、遺された俺を拾ってくれた。
だから、俺は今日まで——生きてこれたんや」
静まり返る部屋の中で、男たちの呼吸が静かに重なる。
沖田が、ぽつりと漏らすように呟いた。
「……じゃあ、千夜は、本当に“姫様”なんですね」
その声に、誰も反論しなかった。
「桜色の髪に、碧の瞳。……それは、俺たちの知る千夜だけだった。
でも今、俺たちが見てるのは、椿って名前の、少し気の強い、でもまっすぐな女の子で……」
「それでも、同じ魂がそこに在るってことか」永倉が続ける。
藤堂が小さく頷いた。
「“巫女の生まれ変わり”とか、“不老不死”とか——
そういうことばっかりが町で噂になってたけど、
そんなの全部吹き飛ばすぐらい……昨日の“あの涙”で、全部わかった気がします」
「椿は、椿や。誰がなんと言おうと、俺たちの姫で、俺たちの仲間や」
山南の静かな声が、部屋の空気を落ち着かせていく。
土方がようやく目を開け、山崎を見た。
「……お前が罪人だって思ってるのは、たぶん椿も気づいてる。
でも、あの子の瞳にお前を映すとき、どんな風に見えてるか……それを信じろ」
山崎は、その言葉に目を伏せた。
「……信じたい。けど、俺が守れんかった命がある。
千夜を、二度も殺しかけたのは、俺や。
今こうして“椿”として生きとっても……それでも、俺は……許されへん」
静かに、けれど確かに響く自責の念。
山崎は窓の外の遠く霞む京の灯りをじっと見つめながら、言葉を続けた。
「三年より前の記憶が無い。何も覚えてないまま、あの時から今まで……
俺はずっと、あの子を守ることだけを考えてきた。」
永倉が静かに頷いた。
「そうだな。あの子が背負うもんは、俺らには計り知れんが、俺らの役目は守ることだけだ。」
藤堂も力強く言う。
「巫女の血が何だろうと関係ねぇ。椿は仲間だ。命を賭けて守る価値がある。」
土方が重々しい声で言った。
「お前がそう思うなら、俺らも同じだ。
姫を守るのに理由はいらねぇ。」
山南が静かに輪に加わる。
「姫の背中は、俺らが預かる。誰にも渡さん。」
山崎は震える手を握りしめ、目を伏せる。
「それでも俺は……許されへん。
守れんかった命がある。」
沖田がそっと近づき、温かく言葉をかけた。
「山崎がここにいる限り、俺たちはお前の背中を守る。だから自分を責めるのはやめろ。」
沈黙の中、鶯の声が遠くから響いた。
自分たちも、守れなかった命があった。
何も出来なかった悔しさは、よく知っている。
山崎にかけた言葉は、きっと、己にかけた言葉と同じ。
永倉が微笑みを浮かべた。
「あの子は強い。自分の力で未来を掴もうとしてる。俺らも、その背中を押すんだ。」
土方が拳を握り締める。
「命を賭けて守る覚悟はできてる。
お前らもそうだろ?」
山崎は深く頷いた。
「みんな、ありがとう……」
部屋の空気が少し柔らかくなり、男たちの決意が静かに固まった。