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第30話

京が近づくほどに、町の空気が熱を帯びていく。


「まるで信仰だな……」と永倉が呟いたのは、まだ柔らかな日差しの残る夕刻だった。


道行く人々の視線は、椿に集中していた。噂はもう巷に満ちていたのだ。「不老不死の巫女」「赤き蝶を呼ぶ神女」「天より遣われし者」——そんな名が、口々に囁かれている。


「これだけ歓迎されるの、慣れてるのですか?」と山南が訊けば、椿はただひとこと、こう答えた。


「慣れるわけないよ」


宿に入る頃には、椿の頬には熱が戻りきらず、薬の副作用か、足元がふらついていた。


「もう……馬の揺れ、きらい。走るならまだしも…」


そうぼやく椿の腰を、山崎が支えてやると、「ほんまに、これだけやったら、どんだけ楽か……」と苦笑を漏らした。そんなやり取りを、沖田が横目で見ている。


「甘いなぁ。でも、あんな顔されたら、手ぇ出しづらいよね」


土方はそれを後ろから見ていた。そして一言だけ、低く呟いた。


「……命張って守ってんだ」


その夜のことだった。


宿の一室。椿は薬のせいで深く眠っていた。——はずだった。だが、ふとした気配で目が覚める。


障子の向こうに、音もなく立つ黒い影。刀が、白い月光を切り裂いて振り下ろされた。


「——っ!」


椿はとっさに身を捻ったが、鋭い刃が左腕をかすめ、熱い血が畳に滴る。


血の匂いが部屋を満たす。


襖が吹き飛び、土方、沖田、そして山崎が駆け込んできた。


「姫さんっ!」


叫びとともに山崎が彼女に駆け寄る。

風が止まった。

誰もが、その一滴を見ていた。


椿の左腕から流れ落ちた鮮やかな血。

それはただの赤ではなかった。


どこか、紅に近い。

けれど紅ではない。

まるで光そのものが色を持ったように——生々しく、美しかった。


地に落ちたそれが、まるで“咲いた”ように見えたのは、気のせいではない。

その直後——


侵入者の男は刃についた椿の血を舐めた。


その瞬間。


「ぐっ……あ゛あああああッ!!!」


男は突如、地を転げ回りはじめた。喉を掻きむしり、白目を剥き、内側から焼かれるような悲鳴をあげる。


その異様な光景に、椿が振り返ろうとした——が。


「——見んくてええ!」


山崎が咄嗟にその目元を手で覆った。


大きな掌が椿の視界を遮り、彼女はその場でぴたりと動きを止める。


「……見んでええ。こんなもん」


その声は低く、苦く、震えていた。


後ろで呻き声が止み、男の身体がぐったりと崩れ落ちる。


「終わったか……」土方が静かに刃を収める。


——そして、沈黙。


椿の目元に、ぽたりと一粒、涙がこぼれ落ちる。


山崎は、何も言わず、まだ手を離さない。

その手に伝わる温もりと痛みが、何より雄弁に真実を語っていた。


「………これじゃ、化け物と変わらない。」


椿の口から溢れた言葉が皆の胸に深く突き刺さっていく。


それは自嘲でも、誰かを責めるものでもなかった。ただ、彼女自身の深い哀しみの色を宿していた。


誰も、すぐには返す言葉を持たなかった。


山崎の手は、まだ彼女の目元に添えられたまま。温もりだけが、静かにその震えを伝えていた。


土方は目を伏せ、沖田はただ静かに息をついた。永倉も藤堂も、声を出せずに立ち尽くす。


胸の奥に、冷たい石が沈んだようだった。


椿の血が「神の証」とも「呪い」とも囁かれる中、その本人が「化け物」と呟いた。


それは、どれほどの孤独か。


誰もが、たとえ一言でも何か返したかった。


——だが、この夜に言葉は追いつかない。


その場の静けさに、ただ風がすり抜けていった。


翌朝。町は騒然としていた。


宿の前には「巫女様をお守りください」と書かれた紙や、供物、花が山のように積まれていた。昨夜の騒動がどれだけ広がってしまったか、誰もが悟っていた。


「やべぇな、姫様……これ、ほんとに囲まないと危険じゃねぇか?」


永倉の言葉に、藤堂も珍しく神妙な顔をしていた。


「巫女の血は、呪いか、奇跡か……」


土方は何も言わなかった。ただ、遠くの空を見つめていた。


沖田がぽつりと呟く。


「……なんで京に近づく度に、狂気じみた信仰になってくんでしょうか」


椿はそのとき、黙って馬にまたがっていた。


白の装束の裾を風に揺らし、無表情で前を見つめていく。


皆の視線は、左腕の晒しへと向けられる。

あの後、縫った傷があの晒しの下に隠れている。


誰もが、椿の傷と涙の重みを理解し、己の心に静かな決意を刻んだ。

「化け物」と自嘲した椿の言葉が胸に刺さる中で、彼女をただ守るだけでなく、彼女が背負うものも受け止める覚悟が浪士組の中に生まれていた。

その日を境に、彼らの結束はさらに強くなり、京への道はただの旅路ではなく、命を賭ける覚悟の道となったのだ。



————宿屋・一室


宿屋の一室は、薄暗い灯りに包まれていた。畳の上に座る山崎の顔には、疲労と決意が混じっている。窓の外からは、静かな夜風が障子をかすかに揺らし、遠くで鶯の声が響いていた。


彼は静かに試衛館の面々を見渡し、深い息を吐く。重く沈んだ空気が室内を満たし、誰もが彼の言葉を待っていた。


山崎はゆっくりと顔を上げ、試衛館の面々一人ひとりを見渡す。疲労の影が見え隠れするその瞳には、決意と覚悟が宿っていた。


「話さな、いかん事がある。

————姫さんは、千夜や。」


その告白が放たれた瞬間、室内の時間が止まったかのようだった。誰もが言葉を失い、その重みを受け止めきれずにいた。静寂の中、山崎の声だけが確かに響き、胸に深く刻まれていった。


その名を聞いた瞬間、沈黙が落ちた。

「千夜」――それは、誰の胸にも淡く、しかし忘れ得ぬ名だった。


土方が最初に動いた。

静かに身を起こし、低く、しかし揺るがぬ声音で言葉を紡ぐ。


「山崎、お前が試衛館に来たのは、千夜が亡くなった後の筈だ。」


「あぁ。知っとる。

俺が試衛館で暮らしたんは、5年やない。

千夜が土方さんに助けられてからずっと、俺は、千夜の従者として常にそばにいた。」


山崎の言葉に、室内の空気がさらに重くなった。


「俺達は、ちぃが亡くなったのを確認して、弔ったんだぞ?」


「俺も確認した。確かに死んだんよ。千夜は。

でも5年目の命日に、千夜が死んだ河原で男達に襲われてた所を俺が助けた。

そん時は、まだ、千夜と同じ、桜色の髪の碧瞳やった。」


沖田の喉がひくりと動いた。

その色を、彼も記憶の底で覚えていた。


「そいつが……椿ちゃんだったってのか?」


山崎は、頷く。

その目に浮かぶのは懐かしさでも感動でもない。深く沈んだ悔恨と、言いようのない恐れだった。


桜色の髪。

千夜以外で出会った事などない。

千夜が生きてて嬉しい。そんな感情は男達には持ち合わせてもいなかった。彼らを包み込むのは、恐怖である。


「姫さんは、三年より前の記憶が無い。

当たり前の事も出来んかった。桜の花の名前すら知らんかった。」


山崎が一番隠しておきたかった本音を口にした。


「俺は、幼い椿を誘拐した大罪人や。

罪人の様に扱われた姫を連れ、逃げる途中に賊に襲われて、千夜を見失った。その後、助けてくれたんは、土方さんやった。」


深く頭を垂れる男は、感謝を表していく。

自分が守れなかった千夜。大罪人。それを犯してでも、助けたかった山崎の気持ちは、痛いほど男達には伝わった。


「ホンマに、あんたには頭上がらん。」


千夜だけじゃなく、自分も助けられた。


その言葉に、土方はふっと目を細めた。


「……助けた覚えなんざねぇよ。

あの時、ただそこにいたのが俺だっただけだ」


それでも、山崎の言葉は揺るがない。


「それでも、俺にとっては恩や。

あの時、千夜が死んだと思うしかなかったあの日……土方さんが、遺された俺を拾ってくれた。

だから、俺は今日まで——生きてこれたんや」


静まり返る部屋の中で、男たちの呼吸が静かに重なる。


沖田が、ぽつりと漏らすように呟いた。


「……じゃあ、千夜は、本当に“姫様”なんですね」


その声に、誰も反論しなかった。


「桜色の髪に、碧の瞳。……それは、俺たちの知る千夜だけだった。

でも今、俺たちが見てるのは、椿って名前の、少し気の強い、でもまっすぐな女の子で……」


「それでも、同じ魂がそこに在るってことか」永倉が続ける。


藤堂が小さく頷いた。


「“巫女の生まれ変わり”とか、“不老不死”とか——

そういうことばっかりが町で噂になってたけど、

そんなの全部吹き飛ばすぐらい……昨日の“あの涙”で、全部わかった気がします」


「椿は、椿や。誰がなんと言おうと、俺たちの姫で、俺たちの仲間や」

山南の静かな声が、部屋の空気を落ち着かせていく。


土方がようやく目を開け、山崎を見た。


「……お前が罪人だって思ってるのは、たぶん椿も気づいてる。

でも、あの子の瞳にお前を映すとき、どんな風に見えてるか……それを信じろ」


山崎は、その言葉に目を伏せた。


「……信じたい。けど、俺が守れんかった命がある。

千夜を、二度も殺しかけたのは、俺や。

今こうして“椿”として生きとっても……それでも、俺は……許されへん」


静かに、けれど確かに響く自責の念。

山崎は窓の外の遠く霞む京の灯りをじっと見つめながら、言葉を続けた。


「三年より前の記憶が無い。何も覚えてないまま、あの時から今まで……

俺はずっと、あの子を守ることだけを考えてきた。」


永倉が静かに頷いた。


「そうだな。あの子が背負うもんは、俺らには計り知れんが、俺らの役目は守ることだけだ。」


藤堂も力強く言う。


「巫女の血が何だろうと関係ねぇ。椿は仲間だ。命を賭けて守る価値がある。」


土方が重々しい声で言った。


「お前がそう思うなら、俺らも同じだ。

姫を守るのに理由はいらねぇ。」


山南が静かに輪に加わる。


「姫の背中は、俺らが預かる。誰にも渡さん。」


山崎は震える手を握りしめ、目を伏せる。


「それでも俺は……許されへん。

守れんかった命がある。」


沖田がそっと近づき、温かく言葉をかけた。


「山崎がここにいる限り、俺たちはお前の背中を守る。だから自分を責めるのはやめろ。」


沈黙の中、鶯の声が遠くから響いた。


自分たちも、守れなかった命があった。

何も出来なかった悔しさは、よく知っている。

山崎にかけた言葉は、きっと、己にかけた言葉と同じ。


永倉が微笑みを浮かべた。


「あの子は強い。自分の力で未来を掴もうとしてる。俺らも、その背中を押すんだ。」


土方が拳を握り締める。


「命を賭けて守る覚悟はできてる。

お前らもそうだろ?」


山崎は深く頷いた。


「みんな、ありがとう……」


部屋の空気が少し柔らかくなり、男たちの決意が静かに固まった。

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