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第31話

薄暗い部屋の隅、月明かりに照らされた山崎の手が震えている。彼は俯き、声を絞り出すように言った。


「……守れんかった。あんな近くに居たのに。」


その沈黙を破ったのは、穏やかながらも真っ直ぐな声だった。


「山崎くん、椿ちゃんのこと、好きなんだろう?」


聞かずしても分かる。二人を見てれば尚のこと、なんともむず痒い、自分には経験すらない事だ。だからこそ、沖田は聞けたのかもしれない。


山崎は顔を上げず、しばらく黙ったままだった。やがて、頷いた後、震える声で答える。


「もう、どうしようもないくらいには……」


もう後は、絞り出す様な声だった。

仲間が苦しむ場面など、そう経験する事など無い。だが、彼の声は、皆の胸を打つ。


「だから、守れんかったことが余計に胸を締め付ける。」


言葉は続けられず、震える手がまた少しだけ強く握りしめられた。


土方はゆっくりと歩み寄り、静かに肩に手を置いた。


「好きでもなんでも、今は関係ない。守れなかった過去を引きずるのはわかるが、それで前を向かねば、誰も守れねぇ。」


「お前は守りたいんだろう?なら、腹くくれ。」


山崎の震える手を強く握り締め、土方の厳しい視線に決意が宿る。


「俺たちはお前の背中を守る。泣き言いってる場合じゃねぇぞ。」


月明かりが二人の影を長く伸ばし、静かな誓いの夜が深まっていった。



————宿・一室


浅野は、椿の傷の手当てをしていた。

左腕の傷は、思ったより深く、縫う処置をしたが、化膿を防ぐためにも消毒と手拭いの交換は必要だった。


「痛くねぇか?」


「平気。」


刀傷は、数センチなんてことはなく、十数センチの傷で、浅野の方が顔を顰めていく。


白い肌にその傷はあまりに目立つ。


「左腕で良かったって、言ったら皆怒るんだろうな。」


「当たり前だ。バカ。」


「そう言ってくれるの、薫ぐらいだよ。」


「避けきれなかったのは、私が悪いじゃない。みんなが暗くなることないって、思ったのに、この傷で、皆に迷惑かけちゃった。」


——そう呟く椿の横顔を、浅野はしばし黙って見つめていた。


「……迷惑なんて言葉、姫様の口から聞きたかねぇな。」


言いながら、手拭いを軽く押し当て、指先でその縫い目をなぞる。


「誰も、お前を責めてなんかねぇよ。みんな、ただ……悔しいだけなんだ。」


椿がふと視線を逸らすと、浅野は続けた。


「俺らの手がもう少し早けりゃ、こんな傷は負わずに済んだかもしれねぇ。

だけどな、それでも、お前が生きててくれて、本当に良かったって思ってる奴ばっかだ。」


「……そっか。」


椿は、そう短くだけ返し、瞳を伏せた。どこか泣きそうな顔にも見えたが、それでも泣きはしなかった。


————これじゃ、化け物と変わらない。


そう思ったのは、本心だ。

血の色も、のたうち回って絶命した男も


己の血が、普通じゃない事を改めて突きつけられた。


椿は、右耳を摩る。


「耳がどうかしたか?」


浅野に聞かれ、肩を揺らす椿。


「な、何でもない。」


……見んでええ。こんなもん


低く、苦く、震えた山崎の声が、耳から離れないなんて言える筈もなく、顔に熱が集まっていく。


「顔赤いけど、もしかして、熱かっ!?」


慌てた様子の浅野の声に、椿は更に狼狽える。


「ち、違うってば……っ」


その声すら少し裏返って、自分で自分に嫌気が差す。


「傷口が痛むんか?いや、でも額熱くねぇか……」


「薫っ!」


椿が声を荒げると、浅野は一瞬たじろいだが、すぐにふっと微笑を浮かべる。


「……なんだ、ちゃんと怒る元気はあるじゃねぇか。」


「っ……意地悪。」


「姉上には、これくらいが丁度いい。」


浅野の声はいつもと変わらず優しくて、それがまた、椿の胸の奥を締め付ける。自分の血がどれほど異常であっても、それでも変わらずにいてくれる――それが、痛いほどに、温かかった。





——その頃。


廊下の角、わずかに開いた障子の前で、山崎烝は立ち尽くしていた。

立っているというより、立ってしまったというべきかもしれない。


浅野と椿の声が聞こえた。


少し掠れた声に、昨日のあの声が重なった。


……これじゃ、化け物と変わらない。


まるで、自分を責めるようなその囁きに、山崎の胸が、ぐっと痛む。


(そんなこと、言うなや……)


血は、生まれながらに選べない。山崎自身もそうだった。身分もそう。


「選べんもんに、苦しめられる。」


身分も、生まれも、宿命も。全部。


彼自身、それを嫌というほど知っている。

選べなかった過去を恨み、それでも前を向くしかないと思って生きてきた。


だけど——椿のそれは、あまりにも酷すぎた。


化け物。呪い。

そんなふうに自分の身を口にする椿の声が、やけに遠く聞こえる。

傷つけた男の絶命と流れてしまった椿の血、

そして耳元で聞いた、自分自身の、あの震える声。


(……ほんまに怖かったんは、あの血やない)


山崎は目を伏せ、拳を握りしめた。


(怖かったんは、自分の手が、もう二度とあの子に触れられんかもしれへんってことや)


あの夜、あの震えた肩を、抱き締めることができなかった。手を伸ばせば届いたのに、届かせなかった。自分が、この手を、汚れてると思っていたからだ。


けど今ならわかる。


——彼女こそ、ずっと一人で、震えていたんだ。


その震えを、己のものと錯覚した自分が愚かだった。


椿の小さな笑い声が障子の向こうから聞こえてくる。けれどその笑いは、どこか、無理やり浮かべたもののように聞こえた。


その笑顔の奥にある痛みを、山崎は知っていた。



浅野は椿の傷を丁寧に手当てしながら、ふと障子の隙間から立ち尽くす影に気づいた。山崎の存在を感じつつ、彼には声をかけず、代わりに椿にそっと言葉をかける。


「山崎のこと、気にしてるんだろ?」


椿は手を止め、少しだけうなずいた。


浅野は少し微笑んで続ける。


「お前が動かねぇと、あいつもきっと立ち止まるままだ。動く時は自分で決めるしかないが、あいつに待ってるだけじゃ何も変わらねぇって、俺は思うぜ。」


障子越しに微かな気配を感じて、山崎の肩が小さく揺れた。


浅野の言葉は直接ではないけれど、確かに届いていた。



————翌朝、


二人の距離は、相変わらず。


「あーもう。もどかしい。」


沖田が小さく舌打ちをした。

土方が呆れた様にそれを見て、視線の先を見て納得する。そして呟くように言った。


「お前も分かるんだな。あの二人の気持ち。」


沖田は少しだけ苦笑しながら、


「分かると何も、恋とは無縁のこの僕でも焦ったいって思うぐらいだ。でも、焦らせたら余計に引っ込む厄介な性格同士ですよ。あの二人は。」


土方はふっと息を吐き、腕を組んだまま考え込む。


「焦らず、じっと見守るしかねぇか。」


静かな朝の宿。まるで二人の行く末をそっと見守っているようだった。







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