薄暗い部屋の隅、月明かりに照らされた山崎の手が震えている。彼は俯き、声を絞り出すように言った。
「……守れんかった。あんな近くに居たのに。」
その沈黙を破ったのは、穏やかながらも真っ直ぐな声だった。
「山崎くん、椿ちゃんのこと、好きなんだろう?」
聞かずしても分かる。二人を見てれば尚のこと、なんともむず痒い、自分には経験すらない事だ。だからこそ、沖田は聞けたのかもしれない。
山崎は顔を上げず、しばらく黙ったままだった。やがて、頷いた後、震える声で答える。
「もう、どうしようもないくらいには……」
もう後は、絞り出す様な声だった。
仲間が苦しむ場面など、そう経験する事など無い。だが、彼の声は、皆の胸を打つ。
「だから、守れんかったことが余計に胸を締め付ける。」
言葉は続けられず、震える手がまた少しだけ強く握りしめられた。
土方はゆっくりと歩み寄り、静かに肩に手を置いた。
「好きでもなんでも、今は関係ない。守れなかった過去を引きずるのはわかるが、それで前を向かねば、誰も守れねぇ。」
「お前は守りたいんだろう?なら、腹くくれ。」
山崎の震える手を強く握り締め、土方の厳しい視線に決意が宿る。
「俺たちはお前の背中を守る。泣き言いってる場合じゃねぇぞ。」
月明かりが二人の影を長く伸ばし、静かな誓いの夜が深まっていった。
————宿・一室
浅野は、椿の傷の手当てをしていた。
左腕の傷は、思ったより深く、縫う処置をしたが、化膿を防ぐためにも消毒と手拭いの交換は必要だった。
「痛くねぇか?」
「平気。」
刀傷は、数センチなんてことはなく、十数センチの傷で、浅野の方が顔を顰めていく。
白い肌にその傷はあまりに目立つ。
「左腕で良かったって、言ったら皆怒るんだろうな。」
「当たり前だ。バカ。」
「そう言ってくれるの、薫ぐらいだよ。」
「避けきれなかったのは、私が悪いじゃない。みんなが暗くなることないって、思ったのに、この傷で、皆に迷惑かけちゃった。」
——そう呟く椿の横顔を、浅野はしばし黙って見つめていた。
「……迷惑なんて言葉、姫様の口から聞きたかねぇな。」
言いながら、手拭いを軽く押し当て、指先でその縫い目をなぞる。
「誰も、お前を責めてなんかねぇよ。みんな、ただ……悔しいだけなんだ。」
椿がふと視線を逸らすと、浅野は続けた。
「俺らの手がもう少し早けりゃ、こんな傷は負わずに済んだかもしれねぇ。
だけどな、それでも、お前が生きててくれて、本当に良かったって思ってる奴ばっかだ。」
「……そっか。」
椿は、そう短くだけ返し、瞳を伏せた。どこか泣きそうな顔にも見えたが、それでも泣きはしなかった。
————これじゃ、化け物と変わらない。
そう思ったのは、本心だ。
血の色も、のたうち回って絶命した男も
己の血が、普通じゃない事を改めて突きつけられた。
椿は、右耳を摩る。
「耳がどうかしたか?」
浅野に聞かれ、肩を揺らす椿。
「な、何でもない。」
……見んでええ。こんなもん
低く、苦く、震えた山崎の声が、耳から離れないなんて言える筈もなく、顔に熱が集まっていく。
「顔赤いけど、もしかして、熱かっ!?」
慌てた様子の浅野の声に、椿は更に狼狽える。
「ち、違うってば……っ」
その声すら少し裏返って、自分で自分に嫌気が差す。
「傷口が痛むんか?いや、でも額熱くねぇか……」
「薫っ!」
椿が声を荒げると、浅野は一瞬たじろいだが、すぐにふっと微笑を浮かべる。
「……なんだ、ちゃんと怒る元気はあるじゃねぇか。」
「っ……意地悪。」
「姉上には、これくらいが丁度いい。」
浅野の声はいつもと変わらず優しくて、それがまた、椿の胸の奥を締め付ける。自分の血がどれほど異常であっても、それでも変わらずにいてくれる――それが、痛いほどに、温かかった。
⸻
——その頃。
廊下の角、わずかに開いた障子の前で、山崎烝は立ち尽くしていた。
立っているというより、立ってしまったというべきかもしれない。
浅野と椿の声が聞こえた。
少し掠れた声に、昨日のあの声が重なった。
……これじゃ、化け物と変わらない。
まるで、自分を責めるようなその囁きに、山崎の胸が、ぐっと痛む。
(そんなこと、言うなや……)
血は、生まれながらに選べない。山崎自身もそうだった。身分もそう。
「選べんもんに、苦しめられる。」
身分も、生まれも、宿命も。全部。
彼自身、それを嫌というほど知っている。
選べなかった過去を恨み、それでも前を向くしかないと思って生きてきた。
だけど——椿のそれは、あまりにも酷すぎた。
化け物。呪い。
そんなふうに自分の身を口にする椿の声が、やけに遠く聞こえる。
傷つけた男の絶命と流れてしまった椿の血、
そして耳元で聞いた、自分自身の、あの震える声。
(……ほんまに怖かったんは、あの血やない)
山崎は目を伏せ、拳を握りしめた。
(怖かったんは、自分の手が、もう二度とあの子に触れられんかもしれへんってことや)
あの夜、あの震えた肩を、抱き締めることができなかった。手を伸ばせば届いたのに、届かせなかった。自分が、この手を、汚れてると思っていたからだ。
けど今ならわかる。
——彼女こそ、ずっと一人で、震えていたんだ。
その震えを、己のものと錯覚した自分が愚かだった。
椿の小さな笑い声が障子の向こうから聞こえてくる。けれどその笑いは、どこか、無理やり浮かべたもののように聞こえた。
その笑顔の奥にある痛みを、山崎は知っていた。
浅野は椿の傷を丁寧に手当てしながら、ふと障子の隙間から立ち尽くす影に気づいた。山崎の存在を感じつつ、彼には声をかけず、代わりに椿にそっと言葉をかける。
「山崎のこと、気にしてるんだろ?」
椿は手を止め、少しだけうなずいた。
浅野は少し微笑んで続ける。
「お前が動かねぇと、あいつもきっと立ち止まるままだ。動く時は自分で決めるしかないが、あいつに待ってるだけじゃ何も変わらねぇって、俺は思うぜ。」
障子越しに微かな気配を感じて、山崎の肩が小さく揺れた。
浅野の言葉は直接ではないけれど、確かに届いていた。
————翌朝、
二人の距離は、相変わらず。
「あーもう。もどかしい。」
沖田が小さく舌打ちをした。
土方が呆れた様にそれを見て、視線の先を見て納得する。そして呟くように言った。
「お前も分かるんだな。あの二人の気持ち。」
沖田は少しだけ苦笑しながら、
「分かると何も、恋とは無縁のこの僕でも焦ったいって思うぐらいだ。でも、焦らせたら余計に引っ込む厄介な性格同士ですよ。あの二人は。」
土方はふっと息を吐き、腕を組んだまま考え込む。
「焦らず、じっと見守るしかねぇか。」
静かな朝の宿。まるで二人の行く末をそっと見守っているようだった。