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第32話

夜の風が少し冷たくなり始めた頃。

椿は、薄い羽織を身に纏いながら、宿の裏手を歩いていた。


「……烝?」


探していた。ずっと。


心がふとした拍子に彼を求めるようになってから、姿が見えないと、息が落ち着かなくなる。


けれど、返事はない。

木の葉が揺れる音ばかりが響く。


「また、どこか行っちゃったのかな……」


その瞬間だった。


ふいに、背後から――強く、でも優しく、身体ごと引かれた。


驚いて息を呑む椿。


けれど、背中に感じたのは、あの温度。

そして、耳元に落ちる低く掠れた声。


「……悪い。驚かせた」


椿の身体は、山崎の腕の中にいた。

彼は何も言わず、ただその細い肩を抱きしめていた。


震えていたのは、山崎の手だった。

でも、その腕に力がこもっていく。

まるで、もう二度と離すものかと――そう誓うように。


椿は、しばらく何も言わなかった。

そして、ようやく絞り出すように問う。


「……どうしたの?」


山崎は、少しだけ間をおいて、答えた。


「怖かってん。……また、お前を泣かせるんちゃうかって」


「でもな。怖がっとるうちに、またお前の手ぇ、遠うなる気がして……それが、一番……怖かった」


椿の目が、ゆっくりと潤む。


その声が聞きたかった。

その想いが知りたかった。


「……じゃあ、今は?」


「今は……お前のそばにいたい。それだけや」


その言葉を聞いた瞬間――

椿は、息をするのを忘れていた。


胸の奥に、何かがぽたりと落ちて、

そのまま静かに、でも確かに溢れていくようだった。


「悪い………」


その声は、肩口に落ちるように低かった。

震えるほど小さくて、でも確かに――届いた。


椿は、彼の胸元に顔を寄せたまま、じっと目を閉じた。


「……何に“悪い”の?」


問うた声は、やさしかった。

責めるような気配は一切なかった。


けれど、それがかえって山崎の胸を締めつける。


「全部や……」


「気づいとったのに、ずっと知らんふりしてたこと。

お前が俺を見てる目に、甘えとったこと。

お前の想いを、怖いって理由で、ずっと避けとったこと、ほんまに悪かったって、そう思っとる」


それに————


「左腕、間に合わんかった。」


その言葉には、取り返しのつかない悔しさと、

自分自身への怒りと、

そして何より――椿への、深い後悔が滲んでいた。


彼は、ずっとそれを言えずにいた。

守ると誓った命に、傷をつけてしまった自分を、許せずにいた。


椿の背を抱く手に、またひとつ力がこもる。

離してしまえば、二度と触れられなくなる気がして。


「間に合わんで、ほんまに……ほんまに、すまんかった」


椿は、その言葉をただ、静かに受け止めた。


しばらく黙っていた。


けれどやがて、彼女は顔を上げて、

山崎の胸を、そっと人差し指で軽く突いた。


「でも、

この傷があったから、君は、言葉にできたんでしょう?」


山崎は、言葉を失った。


椿の指先が、彼の胸をそっと押したまま、

その目をまっすぐに見つめている。


涙も笑みもない、

けれど、確かな“信頼”だけが宿る眼差し。


その声に、責める色はなかった。


むしろ、どこか冗談のように軽く、

けれど、どこまでも深かった。


彼女は、左腕の包帯にちらりと視線を落とし、

そして、もう一度山崎を見上げた。


「傷は……きっと、いつかは薄くなる。

でもね、あなたが言ってくれた言葉は――

私の中では、きっと一生、消えないよ」


山崎の手が、ふるふると震えた。


「君の事が好き。もう、ずっと————。」


もう、涙を堪える必要はなかった。


そのまま、椿の細い身体を引き寄せ、

深く、深く、抱きしめた。



山崎の腕の中で、椿は目を閉じたまま、

その胸に頬を寄せていた。


耳に届く鼓動は、彼のものか、自分のものか、わからなかった。


けれど――あたたかい。

それだけで、じゅうぶんだった。



静かな間。

山崎は、そっと彼女の頬に手を添えた。


その指先がふれると同時に、椿のまつげがわずかに揺れる。


「……椿」


呼ばれた名に、彼女はゆっくりと目を開けた。

そこには、迷いもためらいもない、山崎の瞳があった。


何も言わずに微笑んだ椿の頬に涙の跡が光っているのに、本人は気づいていないようだった。


「……泣いてるで」


山崎の声は、少しだけ掠れていた。


椿はふっと笑って、言う。


「……なんか……どうしようもなく、嬉しくて、

 止まらないの」


「……こんなふうに、好きって言ってもらえる日が来るなんて――思ってもなかった」


涙がつっとこぼれる。


けれどそれは、悲しみでも痛みでもない。

幸福という感情が、ただ溢れて、流れているだけ。


山崎は、その涙を指先で拭うと――

そっと、顔を寄せた。


一瞬、椿の目が揺れた。


けれど、逃げなかった。むしろ、自分から、そっと目を閉じる。


――そして、唇がふれた。


やわらかく、あたたかく、触れるだけの、儚いほどに優しい口付け。


けれどそれは、言葉では伝えきれなかった想いの、何百倍もの重みを持っていた。



椿の指が、山崎の背に回る。まるで、もう二度と離さないと誓うように。涙が零れながらも、椿は笑っていた。震える肩を、山崎はそっと抱きしめる。


「俺もや……」


ふたりの額がそっと重なり、

呼吸とぬくもりを分け合うように、静かな夜が流れていった。


遠くで木の葉が揺れ、

夜の風が、ふたりを優しく包んでいた。




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