夜の風が少し冷たくなり始めた頃。
椿は、薄い羽織を身に纏いながら、宿の裏手を歩いていた。
「……烝?」
探していた。ずっと。
心がふとした拍子に彼を求めるようになってから、姿が見えないと、息が落ち着かなくなる。
けれど、返事はない。
木の葉が揺れる音ばかりが響く。
「また、どこか行っちゃったのかな……」
その瞬間だった。
ふいに、背後から――強く、でも優しく、身体ごと引かれた。
驚いて息を呑む椿。
けれど、背中に感じたのは、あの温度。
そして、耳元に落ちる低く掠れた声。
「……悪い。驚かせた」
椿の身体は、山崎の腕の中にいた。
彼は何も言わず、ただその細い肩を抱きしめていた。
震えていたのは、山崎の手だった。
でも、その腕に力がこもっていく。
まるで、もう二度と離すものかと――そう誓うように。
椿は、しばらく何も言わなかった。
そして、ようやく絞り出すように問う。
「……どうしたの?」
山崎は、少しだけ間をおいて、答えた。
「怖かってん。……また、お前を泣かせるんちゃうかって」
「でもな。怖がっとるうちに、またお前の手ぇ、遠うなる気がして……それが、一番……怖かった」
椿の目が、ゆっくりと潤む。
その声が聞きたかった。
その想いが知りたかった。
「……じゃあ、今は?」
「今は……お前のそばにいたい。それだけや」
その言葉を聞いた瞬間――
椿は、息をするのを忘れていた。
胸の奥に、何かがぽたりと落ちて、
そのまま静かに、でも確かに溢れていくようだった。
「悪い………」
その声は、肩口に落ちるように低かった。
震えるほど小さくて、でも確かに――届いた。
椿は、彼の胸元に顔を寄せたまま、じっと目を閉じた。
「……何に“悪い”の?」
問うた声は、やさしかった。
責めるような気配は一切なかった。
けれど、それがかえって山崎の胸を締めつける。
「全部や……」
「気づいとったのに、ずっと知らんふりしてたこと。
お前が俺を見てる目に、甘えとったこと。
お前の想いを、怖いって理由で、ずっと避けとったこと、ほんまに悪かったって、そう思っとる」
それに————
「左腕、間に合わんかった。」
その言葉には、取り返しのつかない悔しさと、
自分自身への怒りと、
そして何より――椿への、深い後悔が滲んでいた。
彼は、ずっとそれを言えずにいた。
守ると誓った命に、傷をつけてしまった自分を、許せずにいた。
椿の背を抱く手に、またひとつ力がこもる。
離してしまえば、二度と触れられなくなる気がして。
「間に合わんで、ほんまに……ほんまに、すまんかった」
椿は、その言葉をただ、静かに受け止めた。
しばらく黙っていた。
けれどやがて、彼女は顔を上げて、
山崎の胸を、そっと人差し指で軽く突いた。
「でも、
この傷があったから、君は、言葉にできたんでしょう?」
山崎は、言葉を失った。
椿の指先が、彼の胸をそっと押したまま、
その目をまっすぐに見つめている。
涙も笑みもない、
けれど、確かな“信頼”だけが宿る眼差し。
その声に、責める色はなかった。
むしろ、どこか冗談のように軽く、
けれど、どこまでも深かった。
彼女は、左腕の包帯にちらりと視線を落とし、
そして、もう一度山崎を見上げた。
「傷は……きっと、いつかは薄くなる。
でもね、あなたが言ってくれた言葉は――
私の中では、きっと一生、消えないよ」
山崎の手が、ふるふると震えた。
「君の事が好き。もう、ずっと————。」
もう、涙を堪える必要はなかった。
そのまま、椿の細い身体を引き寄せ、
深く、深く、抱きしめた。
山崎の腕の中で、椿は目を閉じたまま、
その胸に頬を寄せていた。
耳に届く鼓動は、彼のものか、自分のものか、わからなかった。
けれど――あたたかい。
それだけで、じゅうぶんだった。
静かな間。
山崎は、そっと彼女の頬に手を添えた。
その指先がふれると同時に、椿のまつげがわずかに揺れる。
「……椿」
呼ばれた名に、彼女はゆっくりと目を開けた。
そこには、迷いもためらいもない、山崎の瞳があった。
何も言わずに微笑んだ椿の頬に涙の跡が光っているのに、本人は気づいていないようだった。
「……泣いてるで」
山崎の声は、少しだけ掠れていた。
椿はふっと笑って、言う。
「……なんか……どうしようもなく、嬉しくて、
止まらないの」
「……こんなふうに、好きって言ってもらえる日が来るなんて――思ってもなかった」
涙がつっとこぼれる。
けれどそれは、悲しみでも痛みでもない。
幸福という感情が、ただ溢れて、流れているだけ。
山崎は、その涙を指先で拭うと――
そっと、顔を寄せた。
一瞬、椿の目が揺れた。
けれど、逃げなかった。むしろ、自分から、そっと目を閉じる。
――そして、唇がふれた。
やわらかく、あたたかく、触れるだけの、儚いほどに優しい口付け。
けれどそれは、言葉では伝えきれなかった想いの、何百倍もの重みを持っていた。
椿の指が、山崎の背に回る。まるで、もう二度と離さないと誓うように。涙が零れながらも、椿は笑っていた。震える肩を、山崎はそっと抱きしめる。
「俺もや……」
ふたりの額がそっと重なり、
呼吸とぬくもりを分け合うように、静かな夜が流れていった。
遠くで木の葉が揺れ、
夜の風が、ふたりを優しく包んでいた。