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第33話

夜が明けて間もないころ。

木立の隙間から、淡い光が差しはじめていた。


空気はまだ冷たく、露を含んだ草を踏む音が、控えめに旅路を彩っている。


山崎は、少しだけ前を歩いていた。

いつもと変わらぬ背中。けれど、どこか違って見えるのは、自分の目が変わったからだろうか。


椿は、いつもと変わらず、周りに声をかけていく。


山崎のすぐ後ろを歩いていたはずの椿は、いつの間にか脇道に逸れ、隊士たちに朝の挨拶をしてまわっていた。


「おはよう、もう少ししたら陽が出るよ」

「道の端に露が降りてた。滑らないようにね」


そんな風に、気づいたことをぽつりぽつりと伝えていく。


ひとつひとつの言葉は淡々としているのに、受け取った者たちはなぜか肩の力を抜き、笑って応えていた。


山崎は、その姿を少し離れた場所から見つめる。


(……変わらんな。あいつは)


けれど――そう思ったはずなのに、胸のどこかが、くすぐったく疼いた。


昨夜、あの腕の中にいた椿。

震えながら、けれどまっすぐに言葉を返してくれた彼女が、

今、こうして朝の光の中で、誰かの袖を引いて笑っている。


まるで、何事もなかったかのように。

いや、何事もなかったように“振る舞っている”のだろう。


山崎の足が自然と止まる。

そのまま、腰の鞘に手をかけ、深く息を吸った。


(……それでええ。変わらんでええ)


彼女が、いつもの椿であること。

それが、どれほど嬉しいことか。昨夜、初めて思い知った。


しかし、彼女は喘息の発作を先日したばかり。山崎が浅野の姿を視界の端に入れると、彼に歩み寄っていく。


「姫さんの体調、変わった事無かった?」


「微熱がある。あまり、無理しない方がいいんだがな。」


浅野の低い声に、山崎はわずかに目を伏せた。


そうか――

やっぱり、無理しとるんや。


ふと、視線をめぐらせると、椿はまだ隊士たちの間をゆっくり歩いていた。笑ってはいる。けれど、その笑みに、少しだけ影が差しているのがわかる。


「……あの子は、“大丈夫”をよう使う」


浅野がぽつりと漏らした。


山崎は頷きもせず、そのまま椿の方へ歩き出した。


やがて、草むらの露を踏み分けながら椿の隣に並ぶと、彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに笑った。


「どうしたの? まだ朝なのに、真剣な顔」


「……浅野から聞いた。微熱、あるらしいやないか。無理するんは、やめぇ。」


「もう少しだけ歩いたら、馬に乗る。」


椿の声は穏やかで、どこか冗談めかしてもいた。けれど、山崎には分かる。


その「もう少し」が、どれほど無理をして捻り出した言葉か。

椿の声はやわらかく、表情も穏やかだった。

けれど山崎には、その笑みの奥に滲む淡い疲労の色が見えた。


呼吸は浅くないか。歩幅は乱れていないか。

隣に並んだその瞬間から、山崎の意識は、すべて椿に向いていた。


「もう少しだけ、って……どこまでや?」


問いかけは静かだった。

責めるでも、脅すでもない。けれど、確かに芯があった。


椿は、ふと目を逸らす。


「……分からない。けど、今すぐじゃなくていいってだけ」


「なら、“もう少し”は、俺と歩け」


その一言に、椿の足が一瞬だけ止まりかけた。

けれど、すぐにまた歩き出す。

今度は、山崎と歩幅を合わせるように。


「ほんと、ずるいね。そういう言い方」


「ええやろ。俺はずっと、そっちの味方や」


椿の頬に、ふっと微笑みが戻った。

けれど、足取りはやはり重い。肩の揺れ方が、少しずつ大きくなってきている。


山崎は無言のまま、そっと手を伸ばした。

彼女の肘に、軽く触れる。

拒まれないことを確信して、ゆっくりと――そのまま、支えるように手を添えた。


「……だるいんやろ。素直に、そう言え」


「……少しだけ」


ぽつりと漏らしたその声は、風にさらわれるほど小さかった。

けれど、たしかに本音だった。


山崎の手に、力が入る。


「無理させん。でも、甘やかすわけでもない」


「……なにそれ」


「歩ける分だけ歩いて、あかんようになったら止まれ。

 そのときは俺が、馬に乗せる」


椿はゆっくりと目を閉じた。

そして、まるで自分の体重を試すように、ほんの少しだけ身体を山崎に預ける。


その重みを、山崎は黙って受け止めた。


「……ありがとう」


「礼なんかいらん」


淡く射し込む朝の光が、ふたりの影を長く伸ばしていた。

風が吹き、椿の羽織が揺れる。その裾が、山崎の膝をかすめた。


その一瞬だけでも、ふたりは確かに繋がっていた。


やがて、遠くから馬の蹄の音が近づいてくる。

浅野が、手綱を引いて戻ってきた。


「姫さん。そろそろ、交代の時間や」


山崎は黙って頷き、椿の背にそっと手を添える。


椿は一歩、また一歩と馬の方へ歩きながら、ふと振り返った。


「ねぇ、烝」


「ん」


「……あの夜、言ってくれたこと。あれが、今の私を歩かせてる」


「……そうか」


「もう少しだけ。そう言えるのは、君がいるからだよ」


それだけ言うと、椿は自分の力で馬に跨った。


すぐそばにあった山崎の手が、無言のまま、鞍の縁に触れていた。


彼女が乗り終えたそのとき――

その手が、ほんのわずかに震えていたのを、椿だけが気づいていた


「………烝、身体を支えて。

眠っちゃいそう。」


その声は、まるで夢の途中でこぼれた囁きのようだった。


椿の身体が、鞍の上でほんの少し傾ぐ。

その瞬間――


馬に飛び乗る影。

山崎の腕が、自然と彼女の背に添えられていた。ためらいも、逡巡もなかった。


彼女の身体を守るように、そっと己の胸へと椿の身体を導いていく。手を添え、肩口を支える。それだけで、椿の上体はゆるりと落ち着き、馬上の重みが安定した。


「……ん、ありがとう」


椿が小さく呟いた。

声の端には、もう眠気が滲んでいる。


山崎は、応えることもなくただ静かにその姿に視線を落とす。微熱を帯びた頬。揺れる睫毛。

その顔が、どれほど安らかであるかに、胸の奥がじんと熱くなる。


「……今だけ。こうしてる。

少し、寝ぇ。」


誰に聞かせるでもない言葉が、風に溶けた。


馬の歩みはゆるやかで、草を踏む音が穏やかに響いていた。


触れた指先に、熱が伝わる。

けれどそれを嫌がる様子もなく、椿はほんの少し、身を預けるように身体を傾けて――


そのまま、眠った。


まぶたを閉じ、浅い呼吸を繰り返す。


まるで、子どものように素直で、

それでいて、何もかもを信じきった者だけが見せる、完全な無防備。


山崎はその姿を見上げながら、

手を伸ばすことも、口を開くこともせず、ただ、歩いた。


彼女の眠りを乱さぬように。

一歩ずつ、彼女を守る距離を、崩さぬように。


その背を、風が追い越していく。


陽は徐々に昇り、道の先に薄く京の屋根が霞んでいた。


けれど、山崎にとって――

このとき、たったひとつの願いは、

馬上の彼女の眠りが、どうか少しでも長く、安らかなものであるようにという、それだけだった。


「……好き、だよ。烝」


それは、夢に落ちる直前の、最後の言葉だった。


「………アホ。」


それは、優しさでも、照れ隠しでもない。

守りきれなかったことへの悔しさと、

それでもなお自分を信じて託してくれる彼女への――


深い、深い、感謝だった。


椿はもう、何も応えなかった。

けれど、その小さな背中から伝わるぬくもりが、山崎の胸をじんわりと満たしていく。


「……好き、やなんて。そんな言葉……」


続けようとした声が、喉奥で止まった。


(今さら、俺に言わせんな)


言葉には出さず、代わりに、

馬の揺れに合わせて、そっと椿の身体をもう一度、抱き寄せた。


風が吹いた。

ただ、それだけの朝だった。


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