夜が明けて間もないころ。
木立の隙間から、淡い光が差しはじめていた。
空気はまだ冷たく、露を含んだ草を踏む音が、控えめに旅路を彩っている。
山崎は、少しだけ前を歩いていた。
いつもと変わらぬ背中。けれど、どこか違って見えるのは、自分の目が変わったからだろうか。
椿は、いつもと変わらず、周りに声をかけていく。
山崎のすぐ後ろを歩いていたはずの椿は、いつの間にか脇道に逸れ、隊士たちに朝の挨拶をしてまわっていた。
「おはよう、もう少ししたら陽が出るよ」
「道の端に露が降りてた。滑らないようにね」
そんな風に、気づいたことをぽつりぽつりと伝えていく。
ひとつひとつの言葉は淡々としているのに、受け取った者たちはなぜか肩の力を抜き、笑って応えていた。
山崎は、その姿を少し離れた場所から見つめる。
(……変わらんな。あいつは)
けれど――そう思ったはずなのに、胸のどこかが、くすぐったく疼いた。
昨夜、あの腕の中にいた椿。
震えながら、けれどまっすぐに言葉を返してくれた彼女が、
今、こうして朝の光の中で、誰かの袖を引いて笑っている。
まるで、何事もなかったかのように。
いや、何事もなかったように“振る舞っている”のだろう。
山崎の足が自然と止まる。
そのまま、腰の鞘に手をかけ、深く息を吸った。
(……それでええ。変わらんでええ)
彼女が、いつもの椿であること。
それが、どれほど嬉しいことか。昨夜、初めて思い知った。
しかし、彼女は喘息の発作を先日したばかり。山崎が浅野の姿を視界の端に入れると、彼に歩み寄っていく。
「姫さんの体調、変わった事無かった?」
「微熱がある。あまり、無理しない方がいいんだがな。」
浅野の低い声に、山崎はわずかに目を伏せた。
そうか――
やっぱり、無理しとるんや。
ふと、視線をめぐらせると、椿はまだ隊士たちの間をゆっくり歩いていた。笑ってはいる。けれど、その笑みに、少しだけ影が差しているのがわかる。
「……あの子は、“大丈夫”をよう使う」
浅野がぽつりと漏らした。
山崎は頷きもせず、そのまま椿の方へ歩き出した。
やがて、草むらの露を踏み分けながら椿の隣に並ぶと、彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに笑った。
「どうしたの? まだ朝なのに、真剣な顔」
「……浅野から聞いた。微熱、あるらしいやないか。無理するんは、やめぇ。」
「もう少しだけ歩いたら、馬に乗る。」
椿の声は穏やかで、どこか冗談めかしてもいた。けれど、山崎には分かる。
その「もう少し」が、どれほど無理をして捻り出した言葉か。
椿の声はやわらかく、表情も穏やかだった。
けれど山崎には、その笑みの奥に滲む淡い疲労の色が見えた。
呼吸は浅くないか。歩幅は乱れていないか。
隣に並んだその瞬間から、山崎の意識は、すべて椿に向いていた。
「もう少しだけ、って……どこまでや?」
問いかけは静かだった。
責めるでも、脅すでもない。けれど、確かに芯があった。
椿は、ふと目を逸らす。
「……分からない。けど、今すぐじゃなくていいってだけ」
「なら、“もう少し”は、俺と歩け」
その一言に、椿の足が一瞬だけ止まりかけた。
けれど、すぐにまた歩き出す。
今度は、山崎と歩幅を合わせるように。
「ほんと、ずるいね。そういう言い方」
「ええやろ。俺はずっと、そっちの味方や」
椿の頬に、ふっと微笑みが戻った。
けれど、足取りはやはり重い。肩の揺れ方が、少しずつ大きくなってきている。
山崎は無言のまま、そっと手を伸ばした。
彼女の肘に、軽く触れる。
拒まれないことを確信して、ゆっくりと――そのまま、支えるように手を添えた。
「……だるいんやろ。素直に、そう言え」
「……少しだけ」
ぽつりと漏らしたその声は、風にさらわれるほど小さかった。
けれど、たしかに本音だった。
山崎の手に、力が入る。
「無理させん。でも、甘やかすわけでもない」
「……なにそれ」
「歩ける分だけ歩いて、あかんようになったら止まれ。
そのときは俺が、馬に乗せる」
椿はゆっくりと目を閉じた。
そして、まるで自分の体重を試すように、ほんの少しだけ身体を山崎に預ける。
その重みを、山崎は黙って受け止めた。
「……ありがとう」
「礼なんかいらん」
淡く射し込む朝の光が、ふたりの影を長く伸ばしていた。
風が吹き、椿の羽織が揺れる。その裾が、山崎の膝をかすめた。
その一瞬だけでも、ふたりは確かに繋がっていた。
やがて、遠くから馬の蹄の音が近づいてくる。
浅野が、手綱を引いて戻ってきた。
「姫さん。そろそろ、交代の時間や」
山崎は黙って頷き、椿の背にそっと手を添える。
椿は一歩、また一歩と馬の方へ歩きながら、ふと振り返った。
「ねぇ、烝」
「ん」
「……あの夜、言ってくれたこと。あれが、今の私を歩かせてる」
「……そうか」
「もう少しだけ。そう言えるのは、君がいるからだよ」
それだけ言うと、椿は自分の力で馬に跨った。
すぐそばにあった山崎の手が、無言のまま、鞍の縁に触れていた。
彼女が乗り終えたそのとき――
その手が、ほんのわずかに震えていたのを、椿だけが気づいていた
「………烝、身体を支えて。
眠っちゃいそう。」
その声は、まるで夢の途中でこぼれた囁きのようだった。
椿の身体が、鞍の上でほんの少し傾ぐ。
その瞬間――
馬に飛び乗る影。
山崎の腕が、自然と彼女の背に添えられていた。ためらいも、逡巡もなかった。
彼女の身体を守るように、そっと己の胸へと椿の身体を導いていく。手を添え、肩口を支える。それだけで、椿の上体はゆるりと落ち着き、馬上の重みが安定した。
「……ん、ありがとう」
椿が小さく呟いた。
声の端には、もう眠気が滲んでいる。
山崎は、応えることもなくただ静かにその姿に視線を落とす。微熱を帯びた頬。揺れる睫毛。
その顔が、どれほど安らかであるかに、胸の奥がじんと熱くなる。
「……今だけ。こうしてる。
少し、寝ぇ。」
誰に聞かせるでもない言葉が、風に溶けた。
馬の歩みはゆるやかで、草を踏む音が穏やかに響いていた。
触れた指先に、熱が伝わる。
けれどそれを嫌がる様子もなく、椿はほんの少し、身を預けるように身体を傾けて――
そのまま、眠った。
まぶたを閉じ、浅い呼吸を繰り返す。
まるで、子どものように素直で、
それでいて、何もかもを信じきった者だけが見せる、完全な無防備。
山崎はその姿を見上げながら、
手を伸ばすことも、口を開くこともせず、ただ、歩いた。
彼女の眠りを乱さぬように。
一歩ずつ、彼女を守る距離を、崩さぬように。
その背を、風が追い越していく。
陽は徐々に昇り、道の先に薄く京の屋根が霞んでいた。
けれど、山崎にとって――
このとき、たったひとつの願いは、
馬上の彼女の眠りが、どうか少しでも長く、安らかなものであるようにという、それだけだった。
「……好き、だよ。烝」
それは、夢に落ちる直前の、最後の言葉だった。
「………アホ。」
それは、優しさでも、照れ隠しでもない。
守りきれなかったことへの悔しさと、
それでもなお自分を信じて託してくれる彼女への――
深い、深い、感謝だった。
椿はもう、何も応えなかった。
けれど、その小さな背中から伝わるぬくもりが、山崎の胸をじんわりと満たしていく。
「……好き、やなんて。そんな言葉……」
続けようとした声が、喉奥で止まった。
(今さら、俺に言わせんな)
言葉には出さず、代わりに、
馬の揺れに合わせて、そっと椿の身体をもう一度、抱き寄せた。
風が吹いた。
ただ、それだけの朝だった。