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第34話

——春浅き朝、京へと続く街道。


夜明けの空は淡く白み始め、遠くの山々の稜線がようやく輪郭を帯びていた。

土道はまだ湿り気を残しており、馬の蹄に押された跡がいくつも重なり、ところどころぬかるんでいる。


浪士たちの足音が、規則もなく続く。

誰かの草履がず、と泥を掻き、誰かの裾が、しゅるりと擦れる。早朝の冷えがまだ頬を刺す中、吐く息がかすかに白い。


行列の先頭には、土方歳三の背がある。

裾を僅かに翻し、黙々と進むその背に、言葉はない。だが、誰もがその歩幅に合わせていた。

威圧ではない。だが、抗えぬ空気。

静かに一歩ずつ、彼の足跡を踏むように続く者たちの列が、京へと向かっていく。


風が、乾いた草を揺らす。

梢にとまった小鳥が一声鳴き、また静寂が戻る。


その静けさの中、まだ見ぬ都に、誰かの鼓動が高鳴っていた。正義の名を信じる者も、名を捨てた者も、誰もがそれぞれの思惑を胸に——

春の土道を、踏みしめていた。


遠くに京の屋根が霞んで見えてきたころ、道の向こうから一人の男が歩いてきた。


袴の裾を風に揺らし、まっすぐに、こちらへと向かってくる。その背には何も負っておらず、連れもいない。ただ――


その男を見た瞬間、浪士組の数名が、思わず足を止めた。


「……誰だ、あれ……」


「ただ者じゃねぇぞ。気配が違う」


数名が手を腰の柄に伸ばす気配を見せたそのときだった。


「止まれ」


山崎が、一歩、椿の前へと出た。

低く鋭い声音。まなざしは、男の目を正面からとらえている。


男は――微笑した。


「おや、随分と物々しい出迎えですね」


その声音は静かで、どこか涼やかだった。

けれど、その響きには、ひとつも隙がなかった。


男の目が、椿を捉える。


そして――


まるで誰にも邪魔させぬとばかりに、するすると浪士組たちの間をすり抜けるように歩み寄り、何の躊躇もなく、椿のすぐ目の前に立った。


「お変わりないようで、なによりです。姫君――いや、“椿”様とお呼びすべきかな?」


その名を口にした瞬間、浪士たちの空気が凍る。


山崎は即座に間合いを詰めかけたが――


「待って」


椿が、静かに手を上げた。


その声だけで、場の空気が一変する。

浪士たちの手が、じり、と柄から離れていく。


「……久しいね、久坂玄瑞」


椿の声は穏やかだったが、その瞳は決して笑っていなかった。


久坂は、わずかに目を細めた。


「記憶を失った。そう聞いてたがな。」


椿はわずかに眉を動かしただけで、すぐに表情を戻した。


「記憶が戻ったとは、言っていない」


「だが、目が違う」


久坂の言葉は鋭いが、どこか切実だった。


「“己が何者か”という芯が、貴女の中に戻ってきた。……あのころの、椿の目だ」


くつくつと喉の奥で笑いながら、久坂は横目に山崎を見やった。


「……よほど、大事にされているらしい。まさか、椿様の“前”に立つ男が現れるとは思っていなかったよ」


「ふざけた口を利くな」


山崎の声音は低く、今にも地を穿つほどの圧を孕んでいた。


「貴様が誰であろうと、姫の名を軽々しく呼ぶなら……その舌、叩き落とすで」


「やれやれ、恐ろしい。……けれど、良い従者を得たな、椿」


久坂の視線が椿へ戻る。

その眼差しには、冷たさも敵意もない。ただ、燃えるような信念だけが宿っていた。


椿は額に手を当てたまま、深く短い息を吐いた。


そして、後ろで手を腰にかけたまま震える浪士たちを見やり、言った。


「やめときなさい。君たちが敵う相手じゃない」


その言葉に、一同がざわめく。


「は……?」


「椿様、それは――」


「いいから」


椿の声が重なる。


静かでありながら、どこか冷えた水のように場を凍らせる響きだった。


「久坂玄瑞は、剣では計れない男よ。

刃を交えた瞬間に殺されるのは――きっと、あなたたちのほう」


浪士たちは、言葉を失ったまま目を伏せた。


そんな中、久坂はわずかに微笑を深める。


「……変わらないな。そうやって、力ではなく言葉で人を止めるところ。

それを“強さ”と呼ぶのは、おそらく、俺くらいだろうが」


「そうね。きっと馬鹿なのよ。」


椿の吐き出すような言葉に、場の空気が微かに揺れた。


久坂は、一瞬だけ目を細める。


「……椿に、馬鹿と言われるとはね」


椿は、何も答えなかった。


「まぁ、いい。

君に記憶があっても無くても、俺達のしたい事は変わらないからね。」


久坂の声は穏やかだった。

だが、その“俺たち”という言葉に、周囲の空気がぴたりと止まる。


椿の眉が、ほんのわずかに動いた。


「“俺たち”、ね。……君一人で来たのかと思っていたけれど」


「君に挨拶をしたいのは、俺だけじゃないということだよ。知ってるだろう?長州は、巫女を信じてるって」


久坂は笑みを崩さず、肩を軽くすくめてみせる。


「君がこの京に戻ってくるという報せは、火のように広がった。この国の在り方を変えたいと願う者にとって、君の存在は“奇跡”だからね」


椿は小さく鼻で笑い、うっすらと目を伏せた。


「なるほど。

京に向かうにつれ、噂が肥大していた意味が分かった。火のように広がる噂を誰かが流した訳ね。」


だから京に近くなればなるほど、信仰のような半端なカケラを見た訳だ。


その誰かは、

目の前の男、久坂。


そして彼が目の前に現れたのは、巫女と長州の結びつき。


「君は、やはり頭がキレるね。」


椿は、何も言わなかった。


次の瞬間、久坂が地に膝を着き頭を垂れた。まごう事なき忠誠の証として、全てが計算された様な姿に、椿は、言葉を発する事すら頭から抜け落ちた。


「————巫女をこの国の頂点に。」


浪士組の面々は、静かに息を呑んだ。


久坂の言葉は、突拍子もない夢想のようでいて——しかし、その熱を纏った声に、どこか現実味が宿っていた。


(……国の頂点、だと?)


誰かがそう呟いたが、それを笑う者はいなかった。


芹沢の背後に控えていた浅野も、椿を一瞥しながら目を伏せる。

彼にとっては、椿の力と、その正体を知るがゆえに、久坂の言葉は無視できるものではなかった。


土方だけが、黙して動かぬまま、椿の背を見つめていた。


久坂は、椿の前に膝をつき、深々と頭を垂れる。


「——どうか、この国を、変えてください。

 巫女様を、この国の“頂点”に据える。それが、我らの願いです」


その場に、ぴんと張りつめた空気が流れた。


誰も笑わない。

誰も嘲らない。


なぜなら、椿という存在がすでに——ただの女ではなかったからだ。


「今の世のまま、私が象徴として頂点に立とうものなら、叩き落とされる。それは、貴方にも分かるでしょう?」


久坂の目線にしゃがみ込む椿に敵意のカケラも感じなかった。


その場の空気は張り詰めていた。だが、椿はその緊張の只中で、まるで舞台の幕が上がる前のように、ほんのわずかに唇の端をゆがめた。


「絵草紙になりそうな構図ね。これ。」


久坂にだけ届くような声で、椿は静かに呟く。


言葉というより、吐息のような響きだった。だが、久坂にははっきりと聞こえた。


「………お前。」


隣で立つ久坂玄瑞は、肩をわずかにすくめ、呆れたような声を返すしかなかった。


その視線は、目の前に広がる浪士組の面々へと向けられていたが、瞳の端には確かに、椿の横顔を映していた。


まるで戦支度を整えた役者と、それを見つめる観客のようだ――


そんなことを思ってしまった自分にも、久坂は腹立たしさを覚えていた。だが同時に、背筋に走る微かな戦慄が、椿の只ならぬ存在を雄弁に物語っていた。


椿の声は、あくまで穏やかだった。


「人は、自ずと動くもの。己が信じる何かに、あるいは、抗いきれぬ熱に……心が傾いた時にね」


彼女の足が一歩、土道を滑るように進む。その背には一切の躊躇もない。


「私は、正義を説かない。理を押し付けることも、涙を誘う芝居をする気もない。ただ——生き様を晒すだけ」


ここまでついて来た浪士組の面々は、彼女の背を見つめ、誰一人として口を挟む様な事はしなかった。けれどその眼差しは、確かに彼女の言葉の先を追っていた。


「生き様を晒す………」


彼女らしいと久坂は思う。縛る事すらしない。命じる事さえしない。眩しいほどの光。


ここまでついて来た男達。彼らもまた、彼女に魅せられた者達だ。


琥珀の瞳がわずかに揺れていた。


「君の想いが、ただの矜持なのか、誰かのために背負ったものなのか」


着物の袖を払うように、ふわりと手を差し出す。


「その生き様を、私に見せて。久坂玄瑞」


「……!」


久坂の胸に、小さく震えるものがあった。

それは怒りではなく、劣情でもなく、

己が何度も封じてきた、恐れと、赦しの感情だった。


「君は……」


「私は、君を否定しない。

けど、認めるかどうかは——君の生き様を見てから決める」


椿の指先は、まだそこに在る。

掴むか否かは、久坂自身に委ねられていた。


「この手に意味なんてない。

ただ、頭下げられるの、好きじゃないの。ただ、それだけの事。」


そう口にした途端だった。

彼は迷いなく、私の指を取った。

冷たくなりかけていた掌に、熱を込めるように。


「俺は――こういう手に、弱い」


その声音は艶やかで、湿度を孕んでいた。

どこか甘く、けれど剣のような男の色気が、息の間に滲む。


彼の親指が、私の手の甲をなぞった。


指先は驚くほど滑らかで、でも、そこに籠められた“力”は確かなものだった。

ふいに、ぞくりと背筋を撫でる何かが走る。


「……君は、自分で気づいていないだろうが」


久坂の声が低く落ちる。耳元に注がれる吐息は、ただの言葉ではなかった。


「この首筋ひとつ、眼差しひとつで、幾人の男が夜も眠れなくなるか……」


椿はきょとんと、首を傾げた。

何を言っているのか、よくわからなかった。


その仕草に、久坂の目許がふっと綻ぶ。

――やれやれ、というように。


「その手、離しなはれ。――その人に触れたまま、冗談言うたら、命は持ちませんで?」


久坂は視線だけで山崎を一瞥し、にやりと口端を吊り上げた。


「嫉妬か?」


「……いや。忠告や」


刃のように張りつめた空気が、唐突に場を支配する。ざわ、と浪士たちがわずかに身を引いた。

それでも――誰も、目を逸らせなかった。

その手の交錯も、息の詰まる一瞬も、どこか艶めいていたからだ。


椿はぼんやりと久坂と山崎、二人の間の火花に気づかぬまま、手のぬくもりを不思議そうに見下ろしていた。


そんな彼女を見ていた浪士組の面々は、誰もが固唾を呑んでいた。色香と緊張が入り混じる空気に、誰かが土を踏む音すら響いてしまう。


その向こうでは、永倉と原田が「……久坂の色気、やばいな」「いや、山崎の方が一枚上手だろ」とひそやかに囁き合い、沖田は面白そうに笠をくるくると回している。


土方だけが、静かに椿の一挙手一投足を見つめていた。その視線には、言葉にならぬ何かが、隠れていた。







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