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社長室の蜜月
社長室の蜜月
ゆる
恋愛現代恋愛
2025年05月20日
公開日
4.7万字
完結済
相沢結衣は秘書課に異動となり、冷徹と噂される若き社長・西園寺蓮のもとで働くことになる。彼の完璧主義に振り回されながらも、仕事を通じて互いに信頼を築いていく二人。秘書として彼を支え続ける結衣の前に、次第に明かされる蓮の本当の姿とは――。仕事と恋愛が交錯する中で紡がれる、大人の純愛ストーリー。

第1話 突然の異動と運命の出会い

1-1:平穏な日常の終わり


相沢結衣にとって、今日もいつも通りの平穏な一日になるはずだった。9時の定時に始まり、上司から指示された業務を淡々とこなす。残業はなるべく避けるようにしているが、緊急案件があればその限りではない。昼休みには同期の椎名理香と他数人で近くのカフェへランチに行く。特別に目立つこともなく、何かを失敗することもなく、平凡で地味な日々。それが結衣にとっての「普通」であり、「安全圏」だった。


しかし、その日、結衣の世界は突然揺れ動いた。


午後の業務がひと段落し、少し伸びをした頃、部長が結衣の席までやってきた。その表情はどこか真剣で、少し緊張した様子すら見せていた。


「相沢君、ちょっといいか?」

「はい、部長。何でしょうか?」


いつものように柔らかく応じる結衣。しかし、その直後に告げられた言葉に、彼女の頭は一瞬で真っ白になった。


「君を秘書課に異動させることが決まった。来週からはそちらで働いてくれ。」


結衣は思わず目を見開いた。秘書課? なぜ自分が? 耳にした瞬間、まるで遠い場所からの声のように響いた。


「え、えっと……私ですか?」

「そうだ。詳しいことは後で説明するが、会社の方針でね。君の能力が評価された結果だ。」


部長はそう言い残して去って行ったが、結衣の胸には説明しきれない不安が渦巻いていた。突然の異動、それも秘書課という特別なポジション。自分がそんな重要な役目を果たせるのだろうか。



---


昼休み、同期の椎名理香をはじめ、同僚たちとのランチでその話題は瞬く間に広がった。


「秘書課って、あの西園寺社長直属のところよね?」

理香が目を輝かせて言う。

「ええ、そうみたい。だけど私なんかが務まるのかな……正直、全然自信ないよ。」

結衣はため息混じりに答えた。


「何言ってるの、結衣。地味で目立たないけど、仕事は丁寧だし、あの部署ならぴったりだと思うよ!」

軽口なのか本気なのか分からない理香の言葉に、他の同僚たちも笑いながら頷いた。


だが、彼女の胸の内には大きなプレッシャーがのしかかっていた。秘書課の仕事は普通のデスクワークとは異なり、細かな気配りや即断即決の能力、そして高いコミュニケーションスキルが求められると聞いている。


それ以上に、直属の上司となる西園寺蓮社長の存在が結衣を不安にさせていた。グループ全体を統括する若きカリスマとして知られる彼は、社内で「冷徹」「完璧主義」と恐れられていた。社員に対する評価は厳しく、失敗を許さないという噂もある。そんな人物と直接働くことになるなんて――。


「ねえ、結衣。西園寺社長ってすごくカッコいいらしいよ。写真で見たけど、モデルみたいだった!」

理香の浮かれた声が耳に入るが、結衣は無意識のうちに顔を曇らせた。



---


その日の夜、結衣は自宅で一人、ソファに座ってぼんやりと天井を見上げていた。

「本当に大丈夫なのかな……」

ぽつりとつぶやき、抱えた不安をそのまま飲み込む。


一歩間違えれば社長の足を引っ張り、会社全体に迷惑をかけるかもしれない。それだけは避けたい。結衣は明日からの自分にできることを考え、気を引き締めるしかなかった。


「とにかく、まずはやれることをやろう……」

結衣はそう自分に言い聞かせながら、眠りについた。


しかし、この異動が彼女の運命を大きく変えることになるとは、このときまだ知らなかった。


1-2:秘書課での初日と運命の出会い


月曜の朝、相沢結衣は緊張した面持ちで、秘書課の扉の前に立っていた。これまでとは全く異なる環境、そして直属の上司となる社長・西園寺蓮。今まで以上に慎重に、そして失敗を恐れずに働くしかない、と心の中で自分に言い聞かせる。


ノックをし、扉を開けると、秘書課のオフィスは彼女が想像していた以上に洗練された空間だった。白を基調としたモダンな内装に、几帳面に並べられたデスクと書類の山。それぞれの席に座る秘書たちは、全員が端正なスーツに身を包み、背筋を伸ばしてパソコンに向かっている。その雰囲気は、結衣がいた営業部の賑やかさとは対照的で、張り詰めた空気が漂っていた。


「相沢さんね。こちらへどうぞ。」

控えめな笑みを浮かべた女性が結衣に声をかけた。彼女は秘書課のリーダー、長谷川綾子だった。30代半ばの落ち着いた雰囲気の女性で、その端整な身のこなしから秘書としての経験値が滲み出ている。


「本日からこちらでお世話になります、相沢結衣です。どうぞよろしくお願いいたします。」

結衣は緊張しながら頭を下げた。長谷川は軽く頷き、手早く秘書課のルールや業務内容を説明し始めた。


「基本的なことはこれまでと変わりませんが、秘書課では特に細かい気配りと正確さが求められます。そして――」

長谷川の声が一瞬止まり、目が厳しくなる。

「何よりも重要なのは、社長が何を望んでいるかを先読みして動くこと。彼は完璧主義者で、無駄や遅れを嫌います。相沢さんも覚悟しておいてください。」


その言葉に、結衣の緊張はさらに高まった。



---


しばらくして、結衣は自分の席に案内された。デスクには既に新しい業務用のノートパソコンが用意されており、隣の席には長谷川が座っている。これからしばらくは、彼女の指導の下で業務を覚えることになるようだ。


初めての仕事は、簡単なスケジュール管理だった。西園寺社長が会議で使う資料の整理や、今後の予定確認。細かい作業だが、ミスが許されない雰囲気に結衣は慎重に手を動かしていった。


そんな時だった。


「長谷川、昨日の資料はまだか?」

低く、しかしどこか冷たい響きを持った声がオフィスに響いた。思わず顔を上げると、そこに立っていたのは、一目で威圧感を感じさせる男性だった。


西園寺蓮。


背の高い彼は黒いスーツを完璧に着こなし、彫刻のような端正な顔立ちをしていた。冷ややかな視線を秘書課全体に走らせるその姿は、まさに「冷徹なカリスマ」と噂される彼そのものだった。


「こちらに用意してあります。」

長谷川が手際よく資料を差し出すと、蓮は一瞥して受け取った。そして、その目が結衣に向けられた。


「新人か?」

冷たさを感じさせるその言葉に、結衣は思わず背筋を伸ばした。

「はい、本日から秘書課に配属されました、相沢結衣と申します。」

自分でも驚くほど硬い声が出てしまった。


蓮は少しの間、結衣を見つめた後、興味を失ったように視線を外し、短く言った。

「仕事に支障が出ないように。」


それだけを言い残し、彼は去っていった。その背中は完璧な冷徹さを体現しているかのようだった。



---


昼休み、結衣は一息つこうと休憩室に向かった。初日からすっかり疲れ果て、気を引き締め直さなければと思いつつも、胃が重く感じる。


「どう、社長と初対面してみて?」

長谷川が穏やかな笑みを浮かべながら聞いてきた。


「想像以上に怖かったです。正直、あの視線だけで緊張してしまいました……」

結衣が正直に答えると、長谷川はクスッと笑った。


「最初は皆そうよ。でも、社長は決して理不尽に怒る人ではないわ。むしろ、実力を認めればちゃんと評価してくれるの。」

その言葉に、結衣は少しだけ安心した気持ちになった。



---


午後の業務中、蓮のスケジュール調整を担当することになった結衣。彼がいくつもの会議に参加し、時には重要な取引先と面会をする予定を確認しながら、その多忙さに驚かされた。そんな中、何かを忘れているような気がしてならなかった。


「社長室にこの資料を届けておいて。」

長谷川に言われ、結衣は資料を手に社長室のドアをノックした。


「失礼します。」

中に入ると、広々とした社長室の中心で、蓮が書類に目を通していた。ちらりと顔を上げた彼の表情は変わらず冷たい。


「机の上に置いておけ。」

蓮は短く指示を出し、再び書類に目を戻した。その態度に結衣はほっとしながら資料を置こうとしたが、手元が滑り、書類が床に散らばってしまった。


「あっ、すみません!」

慌てて拾おうとする結衣を見て、蓮が小さくため息をついた。


「不注意だな。」

そう言いながら、蓮自身も床に膝をつき、散らばった書類を拾い始めた。その姿に結衣は驚きを隠せなかった。


「いいか、仕事は正確さが命だ。ただ、ミスをしたら次に活かせばいい。」

冷たいはずの声に、どこか優しさを感じる。その瞬間、結衣の中で「冷徹なカリスマ」のイメージが少しだけ崩れた。



---


社長室を後にする結衣は、自分の鼓動が少し速くなっているのを感じた。初日の緊張感とともに、彼の意外な一面を垣間見たことが心に残り、胸の奥で小さな波紋を生んでいた。


1-3:完璧主義に振り回される日々


秘書課での業務が始まって数日。相沢結衣は、これまで経験したことのない仕事の厳しさに圧倒されていた。これまでは営業部で与えられたタスクをこなせば良かったが、秘書課では全く別のスキルが求められる。特に直属の上司である西園寺蓮の完璧主義には、結衣の神経が張り詰めるばかりだった。



---


「相沢さん、これ、間違ってるわよ。」


午後の業務中、長谷川が静かに指摘した。結衣が作成したスケジュール表を見せられると、会議時間が他の予定と重複している部分があった。


「すみません……すぐ修正します!」

結衣は慌ててパソコンに向かい、ミスを訂正し始めた。長谷川は表情を崩さず、冷静に次の業務指示を続ける。


「いい? スケジュール管理は社長の指示を反映するだけじゃないの。彼が効率よく動けるように、こちらで調整案を提示することも必要なのよ。」


「調整案……ですか?」

結衣は手を止めて長谷川を見つめた。スケジュール管理は言われた通りに入力するものだと思っていたが、長谷川はそれを「受け身すぎる」と指摘する。


「そう。例えば、会議の順番を少し変えれば移動時間を短縮できるとか、オンライン会議に切り替えられる提案をするとか。社長が何も言わなくても、私たちが気づいて動くべきなの。」


その言葉に、結衣は頭を抱えた。今でも緊張の中で必死に業務をこなしているのに、先を読んで提案する余裕などどこにもない。



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さらに、結衣を追い詰めたのは蓮の完璧主義だった。彼の業務は常に時間に追われ、どんな些細なミスも許されない。ある日、結衣が用意した資料のフォントサイズが指定と異なっていることに気づいた蓮は、鋭い目で彼女を見つめた。


「資料作成は基本中の基本だ。それを間違えるとはどういうことだ?」

彼の低い声には冷たさが宿っている。結衣は瞬時に頭を下げ、謝罪した。


「申し訳ありません。確認が足りませんでした……!」


「確認が足りないなら、何度でも見直せ。それが秘書の仕事だ。」


その後、蓮は特に何も言わずに去ったが、結衣は自分の失敗に深く落ち込み、涙が滲みそうになるのを必死に堪えた。



---


そんな日々の中、結衣は蓮の業務スタイルに少しずつ慣れていった。毎朝出社すると、彼がどのように一日を過ごすかを想像しながらスケジュールを確認する。細かい部分まで気を配り、次の業務を準備しておく。ミスを減らすために、退社後も自宅で資料を見直す時間を作った。


ある日、結衣は蓮のスケジュールを見直し、会議の順番を入れ替えた提案をした。すると、蓮が彼女をちらりと見て言った。


「悪くない判断だ。」


たった一言だったが、その言葉が結衣にとってどれほど嬉しかったか。彼の評価を得ることがどれほど難しいかを知っているからこそ、その一言が自信に繋がった。



---


しかし、蓮の完璧主義の裏には意外な一面もあった。


ある日、ランチタイム中に蓮から急に呼び出され、結衣は緊張しながら社長室に入った。すると、彼は書類の山に囲まれたデスクで眉をひそめながら、手に持ったコーヒーカップを見つめていた。


「相沢、このコーヒー、何か変だと思わないか?」

突然の質問に戸惑いながら、結衣はカップを覗き込んだ。香りは普通のコーヒーのようだが、どうやら味が違うらしい。


「えっと……いつものものと違う豆かもしれませんね。」

そう言いながら、結衣は蓮のデスクに置かれたコーヒーサーバーを確認した。確かに、いつも使っている豆ではなかった。


「なるほど……細かいことだが、こういう違いにも気づけるようになれ。」


その後、結衣が新しいコーヒーを用意し直すと、蓮は静かに頷き、言った。


「これでいい。」


それだけのやり取りだったが、彼が完璧を求めるのは仕事だけでなく、日常の些細なことにも及んでいるのだと結衣は気づいた。そして、それは彼の一途さと不器用さの現れでもあると感じた。



---


数週間が経ち、結衣は徐々に秘書としてのスキルを身につけていった。蓮の厳しい指導に振り回されながらも、彼の言葉から学ぶことは多い。そして、彼の冷たさの中に隠された温かさを知るたびに、結衣の胸には小さな感情が芽生え始めていた。


「社長の期待に応えたい。」


その思いが、結衣を支える原動力となっていく。完璧主義に振り回されながらも、彼のために努力を重ねる日々が始まった。



1-4:同期との摩擦と理香の嫉妬


相沢結衣の秘書課での生活が始まってから数週間が経った。業務には少しずつ慣れてきたが、依然としてプレッシャーは大きい。特に、西園寺蓮社長の完璧主義には毎日振り回されるばかりだった。そんな中、同期であり友人でもある椎名理香の存在が結衣をさらに悩ませることになる。



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その日、ランチタイムに営業部の同期たちと久しぶりに会った。彼女たちの中心には、いつも明るく場を盛り上げる理香がいた。

「結衣、秘書課ってどう? 西園寺社長のそばで働けるなんて、すごいじゃない!」

理香は目を輝かせながら声をかけてきた。結衣は少し困惑しながら答える。


「うん、確かにやりがいはあるけど、すごく大変だよ。ミスが許されないし、常に先を読んで動かないといけなくて……。」


結衣の言葉に、理香は軽く笑った。

「そんなこと言って、実は楽しいんじゃないの? 社長ってカッコいいんでしょ?」


「え、そんなことはないよ!」

結衣は慌てて否定したが、理香は興味津々の表情を崩さなかった。


「でもさ、社長って独身でしょ? 結衣、近くにいるんだからアピールするチャンスじゃない?」


理香の冗談めいた言葉に、結衣は苦笑いを浮かべるしかなかった。確かに蓮の見た目は整っているが、彼の厳しさや冷徹さを毎日目の当たりにしている結衣にとって、そんな気持ちを抱く余裕などなかった。



---


ランチタイム後、理香が結衣に個別に声をかけてきた。

「結衣、少し話があるんだけど。」


二人きりになると、理香の態度は一変した。笑顔は消え、真剣な表情で結衣を見つめる。

「正直に言うけど、私、西園寺社長にずっと憧れてるの。」


「え……?」

結衣は言葉を失った。営業部時代、理香が社内の誰かに恋愛感情を抱いている話は聞いたことがなかった。


「結衣、社長の秘書として働いてるんだよね。だからこそ、お願いがあるの。」

理香の声にはどこか圧力が込められていた。


「お願いって……?」

結衣が戸惑いながら聞くと、理香は少しためらった後、こう言った。

「できれば、あまり社長と親しくしないでほしいの。」


「えっ?」

思わず聞き返した結衣の顔に、理香は微笑みを浮かべたが、その目には嫉妬の色が宿っていた。

「だって、結衣みたいな控えめな子でも、社長の目に留まるかもしれないじゃない。私はずっと彼に想いを寄せてきたの。だから、余計な波風は立てたくないの。」


その言葉に、結衣は困惑しながらも胸が痛んだ。理香の気持ちは理解できるが、結衣自身は蓮に特別な感情を抱いているわけではない。それに、自分が秘書としての仕事をすることは避けられない。


「理香、私はただ秘書として仕事をしてるだけだよ。社長に何か特別な感情があるわけじゃないし、理香が気にすることじゃ――」

言いかけたところで、理香が遮った。


「でもね、結衣。社長と毎日一緒にいるってだけで十分よ。他の女性社員も噂してるわよ? 『相沢さん、社長に近づいてるんじゃないか』って。」


その言葉に、結衣は息を呑んだ。自分がそんな風に見られているなんて考えたこともなかった。確かに、秘書課に来てから周囲の視線を感じることはあったが、それが噂となって広がっているとは思わなかった。



---


その日の夕方、結衣は社長室に資料を届けに行った。蓮はいつものようにデスクに座り、書類に目を通していた。結衣が資料を置くと、蓮が顔を上げた。


「何か困っていることはあるか?」

突然の質問に、結衣は驚いた。


「え、いえ、特には……」

慌てて答えるが、蓮の鋭い目が結衣をじっと見つめる。


「顔に出ている。仕事以外のことで悩んでいるなら、早めに片付けておけ。」

短くそう言われたが、その声には冷たさだけでなく、どこか気遣いのようなものが感じられた。


結衣は迷ったが、秘書としての立場を守るため、理香とのことを口にするのはやめた。ただ「ありがとうございます」とだけ返し、社長室を後にした。



---


その夜、結衣は帰宅後、自分の胸の中に溜まったモヤモヤを整理しようと試みた。理香との関係はこれからどうなるのだろう? 自分は秘書として蓮のために動いているだけなのに、それが周囲の誤解や嫉妬を生む。


「私は、ただ仕事をしているだけ……」


そう自分に言い聞かせながらも、蓮の「顔に出ている」という言葉が何度も頭の中で反芻された。それほど自分は表情に出ていたのか。そして、蓮が気づいたということは、彼が自分を見てくれている証拠なのか――。


少しだけ胸が高鳴る感覚に気づいた結衣は、その気持ちを振り払うように目を閉じた。


理香の嫉妬と周囲の誤解、そして自分自身の感情。この問題をどう乗り越えるべきか、結衣の心は揺れ続けていた。


1-5:出張で見た意外な一面


金曜日の朝、相沢結衣は秘書課のリーダーである長谷川から声をかけられた。

「相沢さん、今日の午後、西園寺社長と一緒に出張に同行してもらうわ。」


その一言に、結衣は思わず目を見開いた。

「わ、私がですか? まだ秘書課に来たばかりで、そんな大事な役目を……」

慌てて言う結衣に、長谷川は落ち着いた声で返した。

「大丈夫よ。今回は資料の管理やスケジュールの調整がメインだから。社長からも『相沢に任せる』と指名があったわ。」


「えっ……社長が?」

意外な事実に驚く結衣だったが、断る理由もなく、準備を進めることになった。



---


午後、蓮と共に車に乗り込んだ結衣は、緊張で手に汗をかいていた。二人きりの移動という状況にどうしても落ち着かない。蓮は車内でノートパソコンを開き、何かを確認している。結衣が横目でちらりと見ると、彼の横顔は冷静そのもので、近寄りがたい雰囲気を放っていた。


「資料はすべて確認したか?」

蓮が突然話しかけてきた。結衣は慌てて返事をする。

「はい、何度も確認しましたので、問題ないと思います!」


「そうか。失敗を恐れるな。もし何か問題が起きたら、その場で修正すればいい。」

その言葉に、結衣は少し驚いた。いつも厳しい蓮が、意外にも柔らかい口調で励ましてくれるとは思わなかった。



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目的地に到着すると、蓮は迅速に会議に向かい、結衣はそのサポートに回った。取引先の役員たちとの話し合いは非常に緊迫した雰囲気で進んだが、蓮は一切の隙を見せず、的確な指示と冷静な判断で場をまとめていく。その姿に結衣は改めて彼の能力の高さを実感した。


だが、会議が終わった後の出来事が、結衣の印象をさらに変えることになった。



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会議後、蓮と結衣は次の移動までの間、取引先が用意したラウンジで休憩を取ることになった。結衣は蓮にコーヒーを勧めるが、彼は首を横に振った。

「今日は紅茶の気分だ。」


結衣は少し驚いたが、すぐに紅茶を用意しようと立ち上がる。すると、蓮が軽く手を挙げて制した。

「自分で淹れる。」


「えっ、社長がですか?」

思わず声を上げる結衣に、蓮は淡々と答えた。

「自分の飲み物くらい、自分で用意する。それに、こういう作業はリラックスになる。」


結衣はその言葉に驚きつつも、蓮が実際に紅茶を淹れる姿を見守った。彼の手際は意外なほどスムーズで、リラックスしている様子が新鮮だった。


「これも仕事の一環だ。」

蓮が微笑みながら言ったその一言に、結衣の胸が少しだけ高鳴った。



---


その日の最後の会議を終え、夜の帰路についた。車内で蓮は一言も話さず、結衣も静かに座っていたが、どこか心地よい静けさが二人の間に漂っていた。


突然、蓮が窓の外を見ながらつぶやいた。

「夜の景色は嫌いじゃない。忙しい日々の中で、少しだけ穏やかな気持ちになれる。」


その言葉に、結衣は少し意外な気持ちを抱いた。蓮がこうして自然や静けさを楽しむことがあるなんて、これまでの彼のイメージからは想像できなかった。


「社長もお忙しいですものね……少しでも休息が取れるといいのですが。」

結衣がそう言うと、蓮は静かに微笑み、彼女をちらりと見た。


「君はどうだ? 秘書課での生活に慣れたか?」

思いがけない質問に、結衣は少し戸惑ったが、正直に答えた。

「まだ慣れたとは言えませんが……毎日が勉強です。大変ですけど、やりがいは感じています。」


「そうか。それならいい。」

蓮の言葉は短かったが、その声にはどこか安心したような響きがあった。



---


結衣が自宅に戻ったのは夜遅くだった。疲労感はあったものの、不思議と心地よい充実感も感じていた。


蓮の意外な一面を見たことが、結衣の中に新たな感情を芽生えさせていた。厳しく完璧主義な上司としてだけでなく、どこか人間味のある姿を見たことで、蓮への印象が少しずつ変わっていくのを自覚していた。


「社長って、意外と優しいところもあるんだな……」


結衣はそうつぶやきながら、眠りについた。この日を境に、彼女の中で蓮という存在が特別なものへと変化し始めていた。



1-5:出張で見た意外な一面


金曜日の朝、相沢結衣はいつもより緊張した表情で秘書課に出勤した。昨日の終業間際、リーダーの長谷川綾子から伝えられた言葉が頭をぐるぐると巡っていた。


「明日は西園寺社長に同行して、出張サポートをお願いね。」


秘書課に配属されてまだ数週間しか経っていないのに、社長と二人きりで出張に同行することになるとは思ってもいなかった。長谷川が「いい経験になるから」と微笑んでくれたものの、結衣の緊張は一向に解けない。



---


午後、車での移動が始まった。運転手がハンドルを握る車内は、静かでピリッとした空気が漂っていた。結衣は後部座席で蓮の隣に座り、資料の確認を繰り返していた。蓮はノートパソコンに目を落としながら、時折手元のスマートフォンを操作している。その集中した横顔は、隙のないプロフェッショナルそのもので、話しかけるタイミングすら見つけられない。


「資料の確認は済んだか?」

突然、低く響く声に結衣はハッとして顔を上げた。


「はい、何度も見直しましたので、問題ないと思います。」

緊張で声が少し上ずってしまったのが自分でもわかる。


「そうか。だが、どんなに準備しても想定外のことは起こる。ミスを恐れるな。その場で対応すればいい。」


その言葉は冷たく聞こえるものではなく、励ましのようにも感じられた。結衣は少し驚きつつも、蓮の一言に励まされる自分を感じた。



---


目的地に到着すると、すぐに会議が始まった。蓮は取引先の重役たちと向き合い、的確かつ冷静に会話を進めていく。結衣は必要な資料をタイミングよく手渡し、スケジュールや進行を確認しながら会議をサポートした。


その場にいる誰もが蓮のカリスマ性に圧倒されているのが分かった。強い説得力を持つ発言と冷静な態度は、完璧主義者と呼ばれる彼そのものだった。結衣もまた、秘書としての役割に集中しながらも、蓮の力強さに感心せずにはいられなかった。



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会議が終わり、次の予定まで少し時間が空いたため、取引先が用意してくれたラウンジで休憩を取ることになった。結衣は蓮のためにコーヒーを用意しようとしたが、彼に軽く手で制された。


「自分でやる。」

「えっ……社長が、ですか?」

思わず聞き返す結衣に、蓮はいつもの冷静な表情を崩さずに答えた。

「些細なことでも自分でやるのが性に合う。それに、こういう作業は気分転換になる。」


彼は手際よくコーヒー豆を量り、丁寧にドリップしていく。その動きは驚くほど慣れていて、結衣は目を見張った。こんなふうにリラックスしている彼を見るのは初めてだった。


「コーヒーの淹れ方も完璧なんですね。」

結衣がつい口にすると、蓮はほんのわずかに口元を緩めた。


「完璧かどうかは分からない。ただ、いい加減なことは嫌いなだけだ。」

そう言ってカップを差し出された結衣は、思わず顔が赤くなるのを感じた。



---


その日の最後の会議を終えた後、夜になって車で帰路に就いた。車内は静まり返り、蓮も結衣も疲れを隠せない様子だった。蓮は窓の外を見つめながら、ふとつぶやいた。


「この時間の景色は悪くないな。」


その声には、普段の冷たさではなく、少し柔らかさが混じっていた。結衣は驚きながらも、彼の横顔をじっと見つめた。


「社長も、たまにはリラックスできる時間が必要ですよね。」

そう言うと、蓮は結衣の方に顔を向け、少し驚いたような表情を見せた。


「君はどうだ? 仕事に慣れたか?」

その問いに、結衣は少し考え込んでから答えた。


「まだ慣れたとは言えませんが……毎日が挑戦で、それがやりがいにもなっています。」

蓮は短く頷き、続けた。


「君がそう思えるならいい。何か困ったことがあれば早めに言え。」


短い言葉だったが、その中には彼なりの気遣いが感じられた。結衣は初めて、蓮の中にただの完璧主義者とは違う一面があることを感じた。



---


自宅に戻った結衣は、疲れた体をベッドに沈めながら今日一日の出来事を思い返した。冷徹で厳しいだけだと思っていた蓮が、意外と人間らしい面を持っていることを知り、彼に対する印象が少しずつ変わっていくのを感じた。


「社長って、ただ怖いだけじゃないんだな……」


そうつぶやきながら、結衣の胸には初めて彼に対する小さな好意の種が芽生え始めていた。それがこれからどんな花を咲かせるのか、結衣自身もまだ知らなかった。













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