2-1:孤独の影
出張から戻る車内での何気ない会話が、相沢結衣の中に蓮への印象を変える小さな種を蒔いていた。しかし、それは単なる「上司としての魅力」を超えるものであることに気づくには、もう少し時間が必要だった。
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出張先での休憩時間中のことだった。予定外に空いた1時間、取引先が用意した控室で蓮と結衣は二人きりになった。会話が途切れるのを避けるように、結衣はお茶を淹れながら小さな話題を振った。
「社長は、こういった出張も多いんですか?」
「そうだな。」
蓮は資料に目を通しながら、短く答えた。
結衣は、そのそっけない反応に「やっぱり普段と変わらない」と思ったが、どこか彼の背中が寂しそうに見えた。自分の中に芽生えたその感情に戸惑いつつ、さらに話題を探した。
「こんなにお忙しいと、お休みの日もあまり取れないのではないですか?」
蓮はその質問に手を止め、少し考え込むような仕草を見せた。
「休みの日にやることがあるわけではないからな。」
その一言が、思った以上に重く響いた。
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結衣がさらに突っ込んで質問をする前に、控室の窓越しに見える景色に蓮が目を向けた。遠くの山々が夕日に照らされ、柔らかな赤色に染まっている。普段の冷静で淡々とした彼の表情が、わずかに緩んだように見えた。
「この景色、久しぶりに見たな。」
蓮が静かに言ったその言葉に、結衣は驚いた。彼がこうして自然に目を向けること自体が意外だったからだ。
「お好きなんですね、こういう風景。」
結衣が恐る恐る聞くと、蓮は少しだけ口元を緩めた。
「昔はよく、こういう場所で家族と過ごしていた。」
「ご家族と……」
結衣が返すと、蓮は一瞬だけ目を伏せた。その仕草に彼が何かを思い出しているのだと気づく。
「だが、それも昔の話だ。」
蓮の声には、いつもの冷たさとは違う感情が混じっていた。それが何なのか、結衣には分からなかったが、深い悲しみを隠していることだけは理解できた。
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帰りの車内、蓮はいつも通り無言だったが、結衣は彼の横顔に先ほどの寂しげな表情が残っているのを感じた。ふとした瞬間に彼の人間らしさが垣間見え、それが結衣の心を揺さぶる。
「社長は、何か大切なものを失ったのかな……」
その考えが頭をよぎり、結衣は思わず彼に話しかけたくなったが、彼のオーラがそれを許さなかった。ただ、こうして静かに隣にいることが、少しでも彼の心を軽くする助けになるのではないか――そんな気持ちが芽生えた。
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翌日、長谷川に出張の報告をしている中で、結衣はつい蓮のことを口にしてしまった。
「社長って、意外とお一人で過ごす時間が多いんですね……」
長谷川は少し驚いたような顔をしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「彼のことをそう感じたのね。まあ、あの人にはいろいろと背負うものがあるから。」
「背負うもの、ですか?」
結衣が聞き返すと、長谷川は少し目を伏せて言った。
「社長は若くして家業を継いだの。西園寺グループの成功は彼の実力によるところが大きいけれど、それだけに彼には犠牲も多かったのよ。特に家族との関係は……」
そこで長谷川は言葉を濁したが、結衣にはそれ以上聞くことができなかった。蓮の言葉と、長谷川の言葉が繋がり、彼の「孤独」が結衣の中にじわりと広がる。
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その日の終業後、結衣は帰宅してからも蓮のことが頭から離れなかった。普段の冷たさや完璧主義の裏にある彼の孤独――それを考えるたびに、彼をもっと知りたいと思う自分がいることに気づいた。
「社長は……どうしてあんなに頑張るんだろう?」
結衣は布団に入ってからも答えの出ない問いを反芻し続けた。そして、その夜、彼の寂しげな横顔が何度も夢に出てきた。
それが結衣にとって、蓮という存在をただの「上司」以上に意識し始めた瞬間だった。
2-2:嫉妬の炎
出張から帰社して数日が経過し、結衣の仕事ぶりが少しずつ秘書課内でも評価され始めていた。長谷川から直接褒められることも増え、蓮の指示にも柔軟に対応できるようになりつつあった。そんな中で、結衣は社内で自分に向けられる視線がこれまでと少し変わってきていることに気づき始めていた。
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「最近、相沢さん、秘書課で頑張ってるらしいね。」
ランチタイムに営業部時代の同僚と話していると、そんな声が聞こえてきた。
「うん。でも秘書課って社長のそばで働くわけでしょ? すごいポジションだよね。」
「そうそう、しかも西園寺社長ってカッコいいって噂だし、いいな~。」
楽しそうに話す同僚たちを前に、結衣は複雑な気持ちだった。秘書課での仕事は確かにやりがいがあるものの、そのプレッシャーは大きく、簡単な仕事ではない。それに、蓮の冷徹な態度を毎日間近で感じている結衣には、彼を「羨ましい」と言う気持ちを抱ける余裕はなかった。
しかし、問題はその日の午後に起きた。
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秘書課のオフィスに戻った結衣は、長谷川から新たな業務を任されていた。蓮の来週のスケジュールを調整し、重要な会議の資料を作成するという大事な役割だ。結衣は慎重に作業を進めていたが、その最中に聞こえたのは、椎名理香の苛立った声だった。
「結衣、最近秘書課でちょっと調子に乗ってない?」
振り返ると、理香が冷たい目で結衣を見つめていた。同じ同期でありながら、理香の態度は明らかにいつもと違っていた。
「調子に乗るなんて……そんなことないよ。ただ、やらなきゃいけないことが多くて忙しいだけ。」
結衣は慌てて否定したが、理香の表情は険しいままだった。
「でも、結衣って秘書課に行ってからなんだか変わったよね。社長のそばにいるからって特別扱いされてるみたいに見える。」
その言葉に、結衣は胸が苦しくなった。秘書課の仕事は決して楽なものではなく、毎日必死でこなしているのに、そう見られていることが悔しかった。
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翌日、理香の態度はさらに露骨になった。ランチタイムにはわざと結衣を避けるように振る舞い、他の同僚と楽しそうに話している姿が目についた。さらに、営業部時代の友人たちの間でも「結衣が社長に気に入られている」という噂が広がり始めているのを感じた。
秘書課でも、時折同僚たちの間で何かを話しているような視線が結衣に向けられることがあり、彼女の心に負担が重なっていく。
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その日の午後、秘書課のオフィスで長谷川が結衣に資料の確認を頼んでいる最中、理香が突然姿を現した。
「相沢さん、忙しそうね。」
表面上は笑顔を浮かべながら、明らかに冷たい声で話しかけてきた。
「ええ、まあ、忙しいですけど……それが仕事なので。」
結衣はできるだけ穏やかに答えようとしたが、理香の次の言葉に一瞬言葉を失った。
「そう。でも、社長のそばで仕事ができるなんて羨ましいわ。特別な人にしか許されない仕事よね。」
その言葉に込められた皮肉を感じ取った結衣は、内心で深くため息をついた。しかし、理香の挑発に乗るわけにはいかないと、冷静さを保とうと努めた。
「そんなことはないよ。ただの仕事だし、秘書課は私だけでなく、皆さんが支えているおかげです。」
理香はさらに追い打ちをかけるように、こう続けた。
「でも、結衣が秘書課に行ったおかげで、こっちは人手が足りなくて困ってるのよね。まあ、結衣はそっちで頑張ってね。」
その言葉に、結衣は胸が痛んだ。営業部での友人関係が自分の異動によって崩れてしまったのかもしれないという思いが頭をよぎった。
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その夜、結衣は自宅で一人、理香とのやり取りを思い返していた。
「私が悪いのかな……」
結衣は真面目に悩んでいた。秘書課での業務は決して華やかなものではなく、日々の緊張と責任が伴う仕事だ。それでも、周囲には「社長に近い仕事をしている」とだけ映り、誤解を招いてしまう。その結果、理香のように嫉妬や嫌味を向けられることになっているのかもしれない。
しかし、同時に蓮の顔が頭をよぎった。彼が「困ったことがあれば早めに言え」と言ってくれた言葉が、今でも胸の中に残っている。蓮に相談すべきか、それとも自分で解決すべきか。結衣は葛藤を抱えながら、眠れない夜を過ごした。
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翌朝、秘書課のオフィスで結衣がいつものように業務をしていると、ふと蓮が結衣のデスクに目を止めた。
「相沢、何か悩んでいるのか?」
突然の言葉に、結衣は驚きながら顔を上げた。その表情を見た蓮は、短く続けた。
「表情に出ているぞ。気を引き締めろ。」
蓮のその言葉は、まるで彼女を気遣うような響きを持っていた。その瞬間、結衣の中で「もっとしっかりしなくては」という思いが強まった。
「はい、気をつけます!」
結衣は強く答えた。蓮に頼るのではなく、まず自分で解決する努力をしようと決意した瞬間だった。
理香の嫉妬や社内の噂がどれほど辛くても、秘書としての誇りを失わない――それが結衣の心に芽生えた覚悟だった。
2-3:食事の誘いと社長の孤独
出張や日々の業務を通じて少しずつ西園寺蓮との距離を縮めていた相沢結衣だったが、依然として蓮の冷徹で完璧な姿に気圧される日々を送っていた。そんな中、ある日の終業間際、蓮から突然の呼び出しが入る。
「相沢、少し付き合え。」
蓮にそう言われた結衣は一瞬戸惑った。いつもなら「付き合う」という言葉は業務上のことで使われるが、その日の彼のトーンは少し違った。
「えっと……どちらにですか?」
緊張しながら聞き返すと、蓮は短く答えた。
「食事だ。たまには外で落ち着いて話がしたい。」
上司からの誘いを断るわけにはいかない。結衣は急いで仕事を片付け、蓮と共に会社を出た。
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向かったのは、都会の喧騒から少し離れた静かなイタリアンレストランだった。大人の雰囲気漂う店内で、蓮はさっとメニューを確認し、注文を済ませる。その流れるような動作に、結衣は相変わらずの完璧さを感じた。
「相沢、お前も好きなものを頼め。」
蓮の言葉に、結衣は緊張しながらもメニューを開く。こんな高級な店に来たのは初めてで、何を頼むべきか迷ってしまう。
「遠慮するな。ここではリラックスしろ。」
その一言に、結衣は少し肩の力を抜くことができた。蓮がリラックスしている様子を見て、彼もまた忙しい日常の中で息抜きが必要なのだと気づく。
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料理が運ばれ、ワインが注がれると、蓮は静かに口を開いた。
「どうだ、秘書課の仕事には慣れたか?」
その質問に、結衣は素直に答えた。
「まだ完璧には程遠いですが、毎日少しずつ成長していると感じています。」
蓮は頷きながらフォークを置き、少しだけ視線を外した。
「お前はよくやっている。だが、無理をしすぎるな。」
その言葉に、結衣は胸がじんと熱くなるのを感じた。蓮の口から褒め言葉を聞けるとは思っていなかったからだ。
「ありがとうございます。社長にそう言っていただけると、自信が湧きます。」
結衣がそう答えると、蓮はふっと笑みを浮かべた。それはこれまで彼が見せたことのない柔らかい表情だった。
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ワインを少しだけ口に含んだ蓮は、再び静かに話し始めた。
「お前はどう思う、秘書課という職場を?」
「え……?」
突然の質問に結衣は驚いたが、少し考えてから答えた。
「とても厳しい環境だと思います。でも、その分やりがいもありますし、学ぶことが多いです。」
「そうか。」
蓮は短く答えると、一瞬間を置いて、低い声で続けた。
「俺にとって、この会社は全てだ。だが、それと引き換えに失ったものも多い。」
その言葉に、結衣はハッとした。蓮の目が、いつも以上に遠くを見ているように感じたからだ。
「失ったもの、ですか……?」
思わず聞き返すと、蓮は少し視線を下げ、苦笑を浮かべた。
「家族だ。父からこの会社を引き継いだとき、家族との時間は全て消えた。俺が選んだ道だが、時々虚しくなることもある。」
その告白に、結衣は胸が締め付けられる思いだった。冷徹で完璧な蓮にも、孤独と後悔があることを初めて知ったからだ。
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結衣は自分に何ができるのかを考えた。だが、まだ新米秘書である自分が蓮にできることは少ないように思えた。けれど、勇気を出して言葉を紡いだ。
「社長……私はまだ何もできませんが、これからもっと努力して、少しでも社長の負担を減らせるように頑張ります。」
その言葉に、蓮は目を細めて結衣を見つめた。そして、静かに言った。
「ありがとう。そう言ってくれるだけで十分だ。」
蓮の口元には、微かな笑みが浮かんでいた。それは、結衣にとって今まで見たどの表情よりも優しいものだった。
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食事を終えて店を出る頃には、夜の街が静かに輝いていた。蓮は歩きながらふと立ち止まり、結衣に言った。
「お前には期待している。これからも、俺のそばで仕事を続けてくれ。」
その言葉に、結衣の心が大きく揺れた。これまでの厳しい日々が報われた気がすると同時に、蓮という存在が自分にとって特別なものになりつつあることを感じたからだ。
「はい、精一杯頑張ります。」
結衣はそう答えながら、蓮と共に歩き出した。
冷たい上司だと思っていた彼の孤独を知ったことで、結衣の中に芽生えたのは「もっと支えたい」という新たな決意だった。そして、それが彼女自身の気持ちにも変化をもたらしていくことになる。
2-4:もっと近くにいてほしい
西園寺蓮と二人きりの食事の夜から数日が経った。相沢結衣は、蓮が見せた意外な一面――社長としての孤独や人間らしい悩み――を知り、彼に対する印象が変わり始めていた。冷徹で完璧な上司というだけではなく、その背後にある彼の弱さや悲しみを感じ取ることで、結衣の中に新たな感情が芽生えつつあった。
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そんなある日、結衣は秘書課で資料整理をしていると、蓮から呼び出しを受けた。
「相沢、社長室に来てくれ。」
冷静で簡潔な指示に従い、彼の部屋へ向かう。
蓮の社長室に入ると、彼は窓の外を見つめながら立っていた。背中越しに見る彼の姿には、いつもとは違う何かを感じさせる空気が漂っている。
「失礼します。」
結衣が声をかけると、蓮はゆっくりと振り返った。その顔には、普段の厳しい表情ではなく、どこか考え込んでいるような柔らかさがあった。
「資料は後でいい。少し話がしたい。」
蓮の言葉に、結衣は驚きつつも頷き、彼の前に座った。
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「最近、仕事はどうだ?」
蓮は机に肘をつきながら、結衣に視線を向けた。
「えっと……少しずつですが、業務にも慣れてきました。まだまだ至らない点も多いですが……」
結衣が答えると、蓮は短く頷いた。
「そうか。それならいい。だが、無理をするなと言ったはずだ。」
その言葉に、結衣は一瞬言葉を詰まらせた。無理をしているつもりはなかったが、蓮の目にはそう映っているのかもしれない。自分では気づかないうちに、蓮に心配をかけているのかもしれないと気づく。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、少し安心します。」
結衣がそう答えると、蓮は一瞬視線を外し、再び窓の外を見た。
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「お前がいると、少しだけ楽になる。」
突然の言葉に、結衣は驚いて目を見開いた。
「社長……?」
思わず名前を呼ぶと、蓮は結衣に視線を戻し、真剣な表情で続けた。
「俺は完璧を求められる立場にいる。この会社を守るためには、常に最善の判断を下さなければならない。それは誰にも理解されない孤独な仕事だ。」
結衣はその言葉に胸が締め付けられる思いだった。蓮が秘めた孤独を垣間見た気がして、何か言葉をかけたかったが、適切な言葉が見つからない。
「だが……お前がそばにいると、少しだけその孤独が和らぐ気がする。」
蓮の声には、いつもの冷徹さではなく、優しさと弱さが滲んでいた。
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「もっと近くにいてほしい。」
蓮がそう言った瞬間、結衣は心臓が早鐘を打つのを感じた。その言葉がどういう意味を持つのかはわからない。ただ、それが蓮の本心であることだけは伝わってきた。
「私なんかでお役に立てるなら、精一杯頑張ります。」
結衣はそう答えるのが精一杯だった。顔が熱くなるのを感じながら、蓮の視線から目をそらした。
蓮はそんな結衣をじっと見つめていたが、やがて微かに笑みを浮かべた。
「それでいい。お前はそのままでいろ。」
その言葉は結衣の胸に深く響き、彼女の中に新たな決意を生み出した。蓮のそばで彼を支える存在になる――それが結衣の中で静かに形を成していく。
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社長室を出た後も、結衣の心臓は高鳴り続けていた。蓮の真剣な言葉と視線が、何度も頭の中で繰り返される。彼の「もっと近くにいてほしい」という言葉が、ただの業務上の意味ではないのではないかという思いが、結衣の心を大きく揺らしていた。
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その夜、自宅に戻った結衣は布団に入っても眠れなかった。蓮の声、表情、言葉が頭を離れない。
「もっと近くにいてほしい……」
結衣はその言葉を何度も反芻し、胸の中で新たな感情が膨らんでいくのを感じていた。それが何なのかはまだはっきりとはわからない。ただ、蓮の存在が自分にとってどんどん特別なものになりつつあることだけは確かだった。
「私……社長のこと、どう思ってるんだろう?」
結衣の胸の内に生まれたその問いは、これからの二人の関係を大きく動かす予兆であるように感じられた。
2-5:揺れる想いと近づく距離
「もっと近くにいてほしい」という西園寺蓮の言葉が、相沢結衣の心を揺さぶり続けていた。秘書課での日常はこれまでと変わらず忙しく、結衣はスケジュール調整や資料作成に追われていたが、どこか集中力を欠く自分に気づいていた。
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その日、秘書課での昼休み。結衣がデスクで資料の整理をしていると、同期の椎名理香が秘書課を訪れた。いつもとは違う険しい表情で、結衣のもとへ足早に近づいてくる。
「結衣、ちょっといい?」
理香の声は穏やかさを欠いていた。
「うん、何?」
結衣が顔を上げると、理香は他の秘書たちに聞かれないように小声で言った。
「話があるの。休憩室でいい?」
結衣はその言葉に少し嫌な予感を覚えつつも、断ることはできず、資料をデスクに置いて立ち上がった。
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休憩室に入ると、理香は扉を閉めたあと、結衣をじっと見つめた。
「ねえ、結衣。正直に言って。西園寺社長のこと、どう思ってるの?」
その問いに、結衣は思わず息を呑んだ。
「どうって……ただの上司だよ。」
慌ててそう答えたが、理香は冷たい笑みを浮かべて首を振った。
「そんな風には見えない。最近、社内でも噂になってるのよ。結衣が社長の“お気に入り”なんじゃないかって。」
「そんなことない!」
思わず声を上げた結衣に、理香は目を細めた。
「でも、食事に行ったりしてるんでしょ? 私、聞いたんだから。」
理香の言葉に、結衣は言い返せなかった。蓮と二人きりで食事に行ったことは事実だ。だが、それが「特別」な意味を持つものではないと、自分では信じたかった。
「それは……仕事の一環で……」
結衣が小声で答えると、理香はため息をついた。
「仕事の一環ね……でも、私にはそうは見えない。結衣が社長に近づくたびに、私の中でどんどんモヤモヤが大きくなっていくの。」
理香の目には、嫉妬と怒りが混じっていた。
「私ね、ずっと社長に憧れてたの。仕事もできて、カッコよくて……でも、結衣が秘書課に行ってから、何もかもが変わった。」
その言葉に、結衣は胸が痛んだ。理香の気持ちは理解できる。自分が知らず知らずのうちに、理香の望むものを「奪った」と思わせてしまったのかもしれない。
「理香……私は、本当にそんなつもりじゃ……」
「分かってるよ。結衣が悪いわけじゃないって。でも、やっぱり悔しい。」
理香はそれだけ言うと、深くため息をつき、休憩室を出て行った。残された結衣は、その場に立ち尽くしながら、自分が理香にとってどんな存在になってしまったのかを考えずにはいられなかった。
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午後の業務中、結衣は理香との会話を引きずりながらも、蓮のスケジュールを確認しに社長室へ向かった。ドアをノックすると、蓮の低い声が返ってくる。
「入れ。」
社長室に入ると、蓮はデスクに座りながら資料を見ていた。結衣がスケジュールの確認について話し始めると、彼は資料から目を上げ、結衣をじっと見つめた。
「どうした? 何かあったか?」
その問いに、結衣は一瞬言葉を詰まらせた。理香との会話を思い出し、彼に相談すべきか迷ったが、結局は首を横に振った。
「いえ、特に何も……」
「そうか。」
蓮はそれ以上追及せず、短く返した。そして、机の上の資料を手に取りながら言った。
「何か困ったことがあれば、すぐに言え。お前はここで一人で悩む必要はない。」
その言葉はまるで理香とのやり取りを見透かしたかのようで、結衣の胸に深く響いた。蓮が自分を気にかけてくれている――その事実に、彼への信頼がさらに強まった。
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その日の退勤後、結衣が帰ろうとエレベーターに向かっていると、蓮が廊下の向こうから歩いてくるのが見えた。普段ならそのまま挨拶だけで済ませるところだが、蓮は結衣を呼び止めた。
「相沢、少しだけ時間があるか?」
「はい、大丈夫です。」
蓮は短く頷き、結衣を会社近くのカフェへと誘った。静かなカフェの窓際でコーヒーを飲みながら、蓮はゆっくりと話し始めた。
「仕事は順調か?」
「はい。皆さんのおかげで、少しずつですが慣れてきました。」
蓮はコーヒーを一口飲み、静かな声で言った。
「お前が秘書課に来てから、俺は少しだけ肩の力を抜けるようになった。」
結衣はその言葉に驚き、思わず顔を上げた。
「えっ……私が、ですか?」
「そうだ。お前の細かい気配りや、業務に対する真摯な姿勢は、俺にとって助けになる。」
その言葉に、結衣の胸が温かくなるのを感じた。彼にとって自分が少しでも役に立てているのなら、それだけで報われた気持ちだった。
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家に帰った後、結衣はカフェでの会話を何度も思い返していた。蓮の優しい言葉と視線が、結衣の心に静かに広がっていく。
「社長のそばで働けてよかった……」
その思いと同時に、自分が彼に対してただの「上司」として以上の感情を抱き始めていることに気づき、結衣は胸が高鳴るのを感じた。それが恋なのかどうかは、まだ彼女自身にも分からなかった。