3-1:試練のプロジェクト
新しいプロジェクトが発足し、西園寺グループ全体が活気づいていた。それは企業の未来を左右するほど重要な案件であり、社内のあらゆる部署が総力を挙げて取り組むものだった。秘書課も例外ではなく、相沢結衣はその対応に追われる日々が始まった。
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「この資料、明日までにまとめておけ。詳細なデータ分析が必要だ。」
蓮から指示を受けるたびに、結衣はデスクに戻って作業を進めた。スケジュール調整、会議の準備、データの確認――業務量は膨大で、通常の2倍以上の仕事量だった。
「相沢さん、大丈夫?」
長谷川が心配そうに声をかけてきた。
「はい、何とかやってみます。」
結衣はそう答えたが、内心では不安と疲労が積み重なっていた。
特に蓮の厳しさは、プロジェクトが進むにつれて一層際立っていた。彼はミスを許さず、完璧を求めた。資料のフォーマットが少しでも違えばすぐに指摘し、スケジュールに遅れが出そうになれば即座に対応を求める。
「君の役割は、俺の指示を先回りして実行することだ。それが秘書の仕事だ。」
蓮のその言葉に、結衣はプレッシャーを感じながらも、必死に食らいついていった。
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連日の残業が続き、結衣は体力的にも精神的にも追い詰められていた。帰宅後に机に向かうと、蓮の指示を思い返しながら資料の修正を行った。夜遅くまで続く作業に、ふと気を抜けば眠気が襲ってくる。
「これを乗り越えれば、もっと成長できるはず……」
結衣は自分に言い聞かせながら、重たい瞼をこじ開けた。
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プロジェクトの中盤に差し掛かった頃、蓮からさらなる厳しい指摘を受けた。
「この部分、数字が甘い。分析をやり直せ。」
その場で結衣はすぐに謝罪し、再度データを見直し始めたが、頭の中は混乱していた。
「何度も確認したはずなのに……」
蓮の冷たい視線が突き刺さるように感じ、涙が滲みそうになる。しかし、ここで弱音を吐くわけにはいかないと、結衣は自分を奮い立たせた。
「社長の期待に応えるためにも、絶対に頑張る。」
その思いが、結衣の疲れ切った体を動かし続けた。
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ある日、結衣が深夜まで資料作成に没頭していると、蓮が社長室から出てきた。彼は結衣のデスクに目を向けると、ゆっくりと近づいてきた。
「相沢、まだ帰っていないのか?」
「はい、この資料を早めに仕上げておきたくて……」
結衣が答えると、蓮はしばらく沈黙した後、低い声で言った。
「無理をしすぎるな。お前が倒れれば、俺が困る。」
その一言に、結衣は驚きと共に胸が熱くなるのを感じた。厳しい指示ばかりだと思っていた蓮が、自分を気遣ってくれるなんて思いもしなかった。
「ありがとうございます。でも、社長の役に立てるなら、頑張ります。」
蓮は結衣をじっと見つめた後、短く頷いてその場を去った。その背中を見送りながら、結衣は少しだけ肩の力が抜けた気がした。
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プロジェクトの最終段階が近づくにつれ、結衣の負担はさらに増していった。それでも、蓮の「期待している」という言葉を胸に、最後までやり遂げるという決意を固めていた。
会議の日、結衣が準備した資料が会議室のテーブルに並べられ、蓮がそれを手に取った。しばらく無言でページをめくる彼の姿を見て、結衣の心臓は緊張で高鳴る。
「完璧だ。」
蓮がそう言った瞬間、結衣は胸の中で大きな安堵を感じた。
プロジェクトは無事に進行し、成功への道筋が見えてきた。その達成感と共に、結衣は自分が成長できたことを実感した。
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しかし、この成功が二人の関係に波紋を投げかけることになる。蓮の厳しい指導を乗り越えた結衣は、少しずつ社内で注目を集める存在になり始めていた。その評価が高まるほど、周囲からの視線や噂話も増えていく。
「相沢さん、社長のお気に入りなんじゃない?」
そんな声が秘書課や営業部でささやかれるようになり、結衣はその状況に困惑することになる。
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プロジェクト成功という達成感の陰で、結衣の心には新たな悩みが生まれようとしていた。蓮との関係が変化していく中で、自分の気持ちが少しずつ揺れ動き始めているのを感じていた。
「私は……社長にどう思われているんだろう?」
結衣の中で湧き上がるその疑問は、これからの二人の関係に大きな転機をもたらすことになる。
3-2:プロジェクト成功と二人の噂
相沢結衣にとって、数週間にわたる過酷なプロジェクトは、まさに試練そのものだった。西園寺蓮の厳しい指導に耐えながら、時には深夜まで資料を作り直し、朝にはまた新しい仕事に取り掛かる――そんな日々を乗り越え、ついにプロジェクトは成功を迎えた。
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大きな会議室で行われたプロジェクトの最終報告会。参加者たちが静かに息を呑む中、蓮は堂々とした態度でプレゼンを進めていく。その手元には、結衣が作成した膨大な資料が整然と並べられていた。
蓮のプレゼンは完璧だった。取引先の役員たちは感嘆の声を漏らし、プロジェクトの成果に満足している様子が伝わってくる。結衣は蓮の背中を見ながら、自分の仕事が少しでも役に立てたことに安堵を感じた。
プレゼンが終わると、会議室は拍手に包まれた。取引先の代表者が蓮に握手を求めながら感謝の言葉を述べる。
「素晴らしい仕事でした。西園寺社長、そしてあなたのチームにも感謝します。」
蓮は静かに頷きながら答えた。
「皆の努力があってこその成果です。」
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プロジェクト成功を祝うため、その日の夜に打ち上げが開かれることになった。高級レストランを貸し切り、社員たちは久しぶりの開放感に包まれていた。結衣も参加していたが、緊張と疲労がまだ残っており、控えめに食事をしていた。
そんな中、蓮が突然立ち上がり、グラスを持って口を開いた。会場は一瞬で静まり返る。
「今回のプロジェクトは、皆の尽力があったからこそ成功した。この場を借りて、感謝を伝えたい。」
その言葉に社員たちは拍手で応えた。だが、蓮は続けて結衣の名前を口にした。
「特に、相沢には感謝している。短期間での膨大な業務をこなし、プロジェクトを支えてくれた。彼女の努力がなければ、この成功はなかっただろう。」
蓮の言葉に、結衣は驚きで顔を赤らめた。まさかこの場で名前を挙げられるとは思っていなかった。会場からは感嘆と驚きの声が上がり、一部の社員たちは微妙な視線を結衣に向けた。
「相沢さん、すごいね……」
隣の席に座っていた同僚が小声で話しかけてくる。その言葉は褒め言葉だったが、結衣にはどこか距離を感じさせるものでもあった。
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打ち上げが終わった後、秘書課の一部が結衣に近づいてきた。
「相沢さん、本当にお疲れさま。でも、西園寺社長に名前を挙げられるなんて、さすがだね。」
一人が微笑みながら言うと、別の人が茶化すように続けた。
「社長の“お気に入り”なんじゃないの?」
その言葉に、結衣は一瞬言葉を失った。もちろん、そんなことはないと否定したかったが、周囲の視線がそれを許さないような気がして、ただ曖昧に笑うことしかできなかった。
「まあ、社長に頼られてるのは事実だしね。秘書としての役割を果たしてるだけよ。」
そう答えるのが精一杯だった。
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翌日から、結衣は社内での視線がさらに増えたことを感じた。同僚たちのさりげない会話の中にも「社長と相沢さん」という組み合わせが含まれるようになり、営業部時代の友人からも「すごいじゃん、出世コースだね」と軽く言われるようになった。
しかし、その中で特に鋭い視線を向けてきたのが椎名理香だった。理香は打ち上げの席での蓮の発言を聞いていたらしく、翌日の昼休みに結衣を呼び出してこう言った。
「結衣、聞いたよ。西園寺社長があなたを褒めてたって。」
理香の声には嫉妬が隠しきれていなかった。結衣は落ち着いて答えた。
「理香、あれはただ仕事を評価してくれただけだよ。」
「本当にそれだけ?」
理香は冷たい目で結衣を見つめた。
「私はね、社長に近づくチャンスをずっと狙ってたの。けど、結衣が秘書課に行ってから全部変わった。あなたさえいなければ……」
理香の言葉は結衣の胸に深く刺さった。理香の中で自分が「邪魔な存在」になっているのだと感じたからだ。
「理香……私はそんなつもりじゃ……」
「分かってる。でも、私の気持ちは変わらない。あなたがいなくなれば、きっと社長は私を見るはず。」
理香はそれだけ言い残し、立ち去った。その後に残された結衣は、彼女の言葉を思い返しながら、自分がどうすべきなのかを考えていた。
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プロジェクトの成功という達成感と共に、結衣の心にはまた新たな悩みが生まれていた。蓮が自分をどう思っているのか、そして自分が彼に対して抱いている感情の正体は何なのか――。
彼女の心は揺れ続け、その中で自分の気持ちと向き合う時が近づいていた。
3-2:プロジェクト成功と噂の渦
結衣が秘書課で迎えた初の大プロジェクトは、ついに成功を収めた。西園寺蓮を中心に進められたこの一大プロジェクトは、社内外から高く評価され、結衣自身も達成感を覚えていた。しかし、その成功の裏で、結衣の周囲では新たな波紋が広がり始めていた。
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プロジェクトの最終会議が行われた日、結衣は会議室の片隅で、蓮が取引先に向けてプレゼンを行う様子を見守っていた。蓮の冷静で的確な言葉は取引先の役員たちを引き込み、用意された資料を指し示すたびに彼らの頷きが増していく。
結衣が作成した資料は、膨大な情報を整理し、見やすくまとめたものだった。蓮から厳しい指示を受け、何度も修正を繰り返したこの資料は、会議を成功へ導く大きな役割を果たしていた。
「素晴らしいプレゼンでした。これほど説得力のある内容は、我々の期待を遥かに超えるものです。」
取引先の代表者がそう述べ、笑顔で蓮と握手を交わした。
「相沢。」
プレゼンが終了し、資料を片付けようとしていた結衣に、蓮が短く呼びかけた。
「はい?」
結衣が振り向くと、蓮は静かに言った。
「よくやった。お前の資料が、このプロジェクトの成功を支えた。」
その言葉に、結衣の胸が熱くなった。彼の冷徹な指示に耐え、何度も壁にぶつかりながらも乗り越えてきた日々が報われた気がした。
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プロジェクトの成功を祝う打ち上げは、豪華なレストランで行われた。社員たちの間には安堵と喜びが広がり、乾杯の声が響き渡る。結衣も席に着き、食事を楽しみながら周囲の会話に耳を傾けていた。
「さて。」
その時、蓮がグラスを持ち、席から立ち上がった。レストランの賑やかな雰囲気が一瞬で静まり返る。
「今回のプロジェクトは、我々にとって非常に重要なものであった。この成功は、皆の努力の賜物だ。」
蓮は全員を見渡しながら、静かに話し始めた。社員たちは真剣な表情で彼の言葉を聞いている。
「特に、秘書課の相沢。」
突然名前を呼ばれ、結衣は驚きながら顔を上げた。
「彼女の努力と正確な仕事が、プロジェクトを支える重要な役割を果たした。この場を借りて感謝を伝えたい。」
蓮の言葉に、社員たちは一瞬の沈黙の後、拍手を送った。結衣は顔が赤くなるのを感じながら、頭を下げた。
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打ち上げが終わった後、秘書課の同僚たちが結衣に声をかけてきた。
「相沢さん、すごいね。社長から名前を出されるなんて、そう簡単なことじゃないよ。」
「うんうん、“お気に入り”なんじゃないの?」
冗談めいた言葉ではあったが、その裏に嫉妬や皮肉が含まれているのを結衣は感じ取った。
「そんなことないよ。ただ仕事を頑張っただけ。」
笑顔で否定するしかなかったが、その場に漂う微妙な空気が結衣の胸に重くのしかかった。
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翌日から、社内での視線が一層増えたのを結衣は感じた。特に同期の椎名理香は、打ち上げでの出来事を受け、明らかに態度を変えていた。理香は結衣に冷たく接するだけでなく、他の社員たちと話す際に結衣の名前を出して揶揄するような発言をすることも増えた。
昼休み、理香が結衣を呼び出してこう言った。
「結衣、昨日の打ち上げ、すごかったね。社長に褒められて。」
その声には、嫉妬と苛立ちが滲んでいた。
「理香、あれは仕事を評価してくれただけだよ。」
結衣は冷静に答えたが、理香は鋭い目で彼女を見つめた。
「本当にそれだけ? 私には違うように見えたけど。」
結衣は何も言い返せなかった。理香が抱く疑念は、結衣にとっても否定しきれないものがあったからだ。
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夕方、結衣が社長室にスケジュール確認のため訪れると、蓮がデスクから顔を上げた。
「相沢、噂については気にするな。」
結衣は驚きながら蓮を見つめた。彼が自分に向けられた噂について気づいているとは思わなかった。
「でも、皆さんの視線が気になって……」
結衣がそう言うと、蓮は真剣な表情で言った。
「噂などに惑わされるな。お前の仕事ぶりは俺が一番理解している。」
その言葉に、結衣の胸はじんと熱くなった。彼の信頼が、自分の不安を少しずつ溶かしていくのを感じた。
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プロジェクト成功の達成感と共に、蓮との距離は確実に近づいていた。しかし、それと同時に社内での噂や理香との確執が、結衣の心に影を落としていた。
「私は……どうしたらいいんだろう。」
結衣の心の中には、蓮への信頼と、自分自身の気持ちへの戸惑いが交錯していた。そんな彼女の揺れる想いが、これからの二人の関係に新たな転機をもたらすことになる――。
3-3:同期との対立と揺れる心
大きなプロジェクトの成功により、相沢結衣は秘書課での存在感を一層強めていた。しかし、その成功は喜びだけでなく、結衣に新たな試練をもたらしていた。それは、同期の椎名理香との関係だった。
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昼休みのことだった。理香が秘書課に現れ、周囲の視線を気にすることなく結衣に声をかけた。
「結衣、ちょっといい?」
その言葉に、結衣は戸惑いながら顔を上げた。
「え? 何かあったの?」
「いいから、少し外に出よう。」
理香の表情は険しく、その態度に結衣は嫌な予感を覚えた。
二人で向かったのは、会社近くの静かなカフェだった。平日の昼間ということもあり、店内はほとんど客がおらず、二人は奥の席に腰を下ろした。理香はコーヒーを一口飲むと、真っ直ぐに結衣を見つめて口を開いた。
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「結衣、最近社長に気に入られてるって噂、知ってるでしょ?」
そのストレートな質問に、結衣は驚きつつも冷静に答えた。
「気に入られてるなんて……私はただ、仕事をしているだけだよ。」
「そう言うと思った。でもね、他の人から見たらそうは思えないのよ。」
理香の声には怒りと嫉妬が混ざっていた。
「理香……私はそんなつもりじゃないよ。本当に、仕事を評価してくれてるだけで――」
「分かってるよ、結衣。あんたがそういう人だってことくらい。でもね、私にとってはそれじゃ済まないの。」
理香の言葉に、結衣は息を呑んだ。同期としていつも一緒に仕事をしてきた理香が、こんなにも自分に対して敵意を抱いているとは思ってもいなかった。
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「結衣、私はずっと社長に憧れてたの。社長みたいな人と一緒に仕事がしたいって思って頑張ってきた。でも、あんたが秘書課に行ってから何もかも変わった。周りも、社長も、全部あんたを見てる。」
理香の目は潤んでおり、その声には悔しさが滲んでいた。
「私がいなければ……」
理香は一瞬言葉を止めた後、続けた。
「私がいなければ、きっと社長は私を見てくれる。」
その言葉は、結衣の胸に深く刺さった。理香の嫉妬心がここまで強いものだとは思いもしなかった。そして、自分が理香にとってどれほどの障害となっているのかを知り、結衣は複雑な思いに駆られた。
「理香……そんなこと言わないで。私がいなくても、社長は――」
結衣が言いかけると、理香が鋭く遮った。
「もういい!」
理香は立ち上がり、席を離れた。結衣は追いかけようとしたが、その背中が放つ強い拒絶の雰囲気に、結局何も言えずその場に立ち尽くした。
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その日の午後、結衣は理香との会話を引きずりながらも仕事を続けていた。スケジュールの確認や会議の準備に追われる中で、頭の片隅には理香の言葉がずっと残っていた。
「私がいなければ……」
その言葉が何度も反芻されるたび、結衣は胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
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終業後、結衣がデスクで残業をしていると、突然西園寺蓮が秘書課に現れた。
「相沢、今日はまだ帰らないのか?」
蓮の低い声に、結衣はハッとして顔を上げた。
「あ、いえ……もう少しだけ資料を整えてから帰ろうと思っていました。」
「そうか。」
蓮は結衣をじっと見つめた後、少し声を落として言った。
「無理をするな。お前が倒れれば、俺も困る。」
その言葉に、結衣は胸がじんと熱くなるのを感じた。蓮の視線はいつも以上に柔らかく、自分を気遣っているのが伝わってきた。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。社長に迷惑をかけないように頑張ります。」
蓮は微かに微笑み、静かに言った。
「お前はよくやっている。だが、もっと自分を大切にしろ。」
その言葉に、結衣は蓮の優しさを感じると同時に、自分の心が彼に惹かれ始めていることを自覚した。
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その夜、自宅に戻った結衣は、布団の中で理香の言葉と蓮の優しさを思い返していた。
「私は……どうしたらいいんだろう?」
理香の嫉妬、社内の噂、蓮への想い。様々な感情が入り混じり、結衣の心は大きく揺れていた。それでも、自分の中に芽生えた蓮への気持ちを無視することはできなかった。
「社長のそばにいたい……でも、それで理香を傷つけるのは……」
結衣の心の中で、理香との関係と蓮への想いの狭間で揺れ動く日々が始まろうとしていた。
3-4:噂を越えて揺れる想い
結衣にとって、理香との言葉の応酬が心に残る中、秘書課での業務は相変わらず忙しさを増していた。大きなプロジェクトの成功が社内で話題となるにつれ、彼女と西園寺蓮の関係を取り沙汰する噂も後を絶たない。
「相沢さんって本当にすごいよね。社長があんなに褒めるなんて。」
「でも、あれって単なる仕事の評価だけじゃないんじゃない?」
廊下やオフィスでささやかれる声が、結衣の耳に届くたびに胸が痛む。噂はどんどん大きくなり、ついには「相沢は社長のお気に入りだ」という言葉が半ば社内の共通認識のように広まっていた。
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ある日の夕方、いつものように結衣がスケジュール調整のため社長室を訪れると、蓮がいつもとは違う柔らかな表情で彼女を迎えた。
「相沢、今日はもう少し早めに帰る予定だ。仕事が終わったら一緒に軽く食事に行かないか?」
その突然の誘いに、結衣は驚きながらも答えた。
「あ……はい。大丈夫です。」
蓮は頷くと、再びデスクに向かい書類に目を落とした。結衣は胸の高鳴りを抑えながら、そっと社長室を後にした。
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その夜、蓮と結衣はオフィス近くの小さなフレンチレストランに向かった。社員食堂や打ち上げでの食事とは違い、二人きりの静かな空間に、結衣はどこか落ち着かない気持ちを抱えていた。
「ここ、いい雰囲気ですね。」
結衣がそう言うと、蓮は軽く笑みを浮かべた。
「たまにはこういう場所も悪くないだろう。」
ワインが注がれ、料理が運ばれる中、蓮は少しだけ真剣な表情を見せた。
「最近、噂が広がっているのは知っている。」
突然の言葉に、結衣は驚き顔を上げた。
「噂……ですか?」
「お前と俺の関係についてだ。」
蓮は結衣をじっと見つめながら続けた。
「気にする必要はない。仕事に集中していれば、それが全ての答えになる。」
結衣はその言葉に安堵を覚えると同時に、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。蓮の言葉は冷静で的確だったが、そこに個人的な感情が混ざっていないことが、どこか寂しく感じられた。
「でも……皆さんがどう思っているのかを考えると、気になってしまって……」
結衣は思わず自分の本音を口にしてしまった。
蓮は静かに結衣を見つめ、言葉を選ぶように少しの間を置いた。
「周りが何を言おうと、お前の価値を下げるものではない。俺が信じるのはお前の仕事だ。」
その言葉に、結衣の目が潤んだ。蓮が自分を信頼してくれている――その事実が何よりも嬉しかった。
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食事を終え、レストランを出ると夜の冷たい風が二人を包んだ。結衣が軽く肩をすくめると、蓮がふと自分のジャケットを脱ぎ、彼女にそっとかけた。
「寒いだろう。」
その優しさに、結衣は心臓が跳ねるのを感じた。
「あ、ありがとうございます。でも……社長が寒くなりますよ。」
「俺は平気だ。それより、風邪を引かれる方が困る。」
蓮の静かな声には、普段の冷徹さとは違う温かみがあった。結衣はその瞬間、蓮への想いが少しずつ自分の中で大きくなっていることに気づいた。
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翌日、結衣は秘書課で仕事をしている中でも、昨夜の出来事が頭から離れなかった。蓮が見せた優しさと、彼の言葉一つ一つが胸の中で響き続けていた。
しかし、その一方で、理香の言葉も結衣を苦しめていた。
「私がいなければ、きっと社長は私を見てくれる。」
自分が蓮のそばにいることで理香を傷つけているのではないか――そんな思いが結衣の心に重くのしかかっていた。
「私は、どうすればいいんだろう……」
蓮への想いと、理香との関係の間で揺れ動く心。結衣はまだ、自分の気持ちに答えを出せないでいた。
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その日の終業後、蓮から社長室に呼び出された。デスクで何かを整理していた蓮は、結衣が入ると静かに口を開いた。
「相沢、最近お前が悩んでいるのは分かる。」
結衣は驚いて顔を上げた。蓮が自分の心情に気づいているとは思っていなかったからだ。
「……社長には、何でもお見通しなんですね。」
蓮は微かに笑みを浮かべた後、真剣な表情で言った。
「お前にはこれからもそばで働いてもらいたい。だからこそ、余計なことで悩む必要はない。」
その言葉に、結衣は涙が溢れそうになるのを必死にこらえた。蓮の存在が、自分にとってどれほど大きいものになっているのか――その時、改めて実感した。
「はい……ありがとうございます。」
結衣はそう答えながら、蓮の信頼に応えるためにも、自分自身と向き合う決意を固めていた。
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揺れる心と蓮への想い。
結衣の中で、それはもはや無視できない感情へと変わりつつあった。蓮との距離が縮まる中で、彼女の人生は次の大きな転機を迎えようとしていた。
3-5:守られる存在としての気づき
西園寺蓮と二人で食事をした夜から数日が経った。相沢結衣の胸には、彼の言葉や仕草が今でも鮮明に残っていた。
「お前の価値を下げるものは何もない。」
その一言が、彼女を支え、同時に胸を締め付ける。蓮への想いは自分の中で確かな形を帯び始めていたが、理香との軋轢や社内の噂がその感情に影を落としていた。
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その日、結衣はいつもと変わらず業務に取り組んでいた。午前中のミーティングに必要な資料を用意し、午後のスケジュール調整を終えた後、会議の準備に追われていた。
「相沢さん、これ、確認お願いできますか?」
同僚の秘書が書類を差し出してきた。
「はい、すぐに確認しますね。」
忙しさに紛れて、結衣は少しだけ自分の不安を忘れることができていた。
しかし、平穏な時間は突然壊された。
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午後の会議中、ある部長が蓮に対して些細な資料ミスを指摘した。
「この部分、誤解を招くような表現が含まれています。これは秘書課の確認不足ではありませんか?」
その発言に会議室が一瞬静まり返り、結衣の心臓が早鐘を打った。部長の視線が自分に向けられた瞬間、ミスの責任が自分にあるのではないかと不安に駆られた。
「相沢さん、これについて何か説明は?」
部長が直接問いかけてきたことで、会議室の全員の視線が結衣に集まった。
「えっと……それは……」
結衣は言葉を探したが、緊張と責任感で思考が混乱していた。資料を何度も確認したはずだが、その部分に誤解を招く可能性があるとは気づかなかった。
その時、蓮が静かに声を上げた。
「その件については、私が最終確認を行った。秘書課に責任はない。」
蓮の低く冷静な声が会議室に響き渡ると、部長は一瞬たじろいだ。
「社長……しかし……」
「秘書課の仕事は的確だった。私がその内容を承認した以上、問題があるならそれは私の責任だ。」
蓮はそう言い切り、会議室の空気を一変させた。結衣は驚きと安堵が入り混じった感情で、蓮の言葉を聞いていた。彼が自分を守ってくれたのだ――それが何よりも嬉しく、同時に胸が熱くなった。
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会議が終わり、結衣は蓮のもとに向かった。
「社長、先ほどはありがとうございました。でも……あれは私のミスだったかもしれません。」
結衣がそう言うと、蓮はデスクから顔を上げ、彼女をじっと見つめた。
「相沢、お前は責任感が強すぎる。それはいいことだが、全てを自分のせいにするのはやめろ。」
蓮の言葉には、優しさと厳しさが同時に含まれていた。
「秘書課の仕事は完璧だった。仮に何か問題があったとしても、それを最終的に判断するのは私の役目だ。」
その言葉に、結衣は涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。蓮の言葉が、彼女の不安を少しずつ溶かしていくようだった。
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その日の終業後、蓮が再び結衣を呼び出した。
「少し外に出よう。」
結衣は驚きながらも、彼に従った。二人で向かったのは会社近くの公園だった。夜の空気は冷たく澄んでおり、蓮はベンチに腰を下ろし、結衣を隣に促した。
「相沢、最近悩んでいるようだな。」
蓮は静かに口を開いた。
「えっ……どうして分かったんですか?」
結衣が驚いて聞き返すと、蓮はわずかに微笑んだ。
「お前は表情に出やすい。仕事では隠そうとしているが、俺の目は誤魔化せない。」
その言葉に、結衣は一瞬言葉を失った。蓮が自分をよく見てくれている――その事実が胸を温かくした。
「噂のことや、同期との関係……色々とあるのは分かっている。でも、それでお前が自分の価値を疑うのは間違っている。」
蓮の言葉は真っ直ぐで、結衣の心に深く届いた。
「私は……社長に迷惑をかけたくなくて。」
結衣がそう言うと、蓮は静かに首を振った。
「迷惑だと? お前がいることで、俺がどれだけ助かっているか分からないのか。」
その言葉に、結衣の目から涙が溢れた。蓮が自分を必要としてくれている――それがどれほど嬉しいことなのか、改めて実感した。
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その夜、結衣は布団に入っても眠れなかった。蓮が見せた優しさ、彼の信頼の言葉が、胸の中で大きく広がっていた。
「私は……社長のそばにいたい。」
結衣の中で芽生えたその想いは、もはや隠しようがないものだった。そして、その気持ちが自分の未来を大きく変えることになると、彼女はまだ知らなかった。