「ねぇ、結城、また司がフリーズしてるよ、大丈夫なの?」
「うーん、大丈夫なんやない?たぶん。よう知らんけど。」
奥村からの問いかけに軽く答えながら慌てるでもなく結城が司を廊下の端に引っ張っていく。
「何それ、軽いなー。ずっと今まで一緒だったんじゃないの?前からああなら、やっぱやばいよー。いつか車に轢かれるよー。」
結城についていきながら話しかけてくる奥村に笑いかけると
「今まで大丈夫だったからいけるんやない」
「確かに、結城のフォローは完璧やけどな」
と言って二人は人の流れからさりげなく司を遠ざけた。
山口司は環境が変わるたび、「病気か?」「あんなことがあったから耐えられずにおかしくなった?」と言われ、そのたびに結城がフォローを入れてくれている。司自身、どうしてこうなってしまったのか分からず、急に襲ってくる発作のようなものだと諦めていた。
あの日以来、軽いめまいのあと不意に頭の中に強烈なイメージ、もう映像と言っていいものがウォータースクリーンの中に映し出される映像のように現実の風景の上に2重写しに広がってくる。目の前にいる人の様子が見えるし、今の自分の状況はわかるし、周りの声や様子もわかる。
それなのに、自分がここじゃない場所にいる感覚。そして見知らぬ風景の中に立っている少女。「手を伸ばせば彼女に届くんじゃないか?」「今この場所から動けば、声を発してしまえば、彼女がいなくなるんじゃないか?」その思いが司を動けなくしていた。だからもう何年も彼女を見続けてきているだけだった。
司が見る少女はいろいろな表情を見せた。初めて司が少女を見たときに、少女は泣いていた。しかし何時の頃からだろう、笑顔も見せるようになっていた。少女を見ている視線は司のものでありながらも司のものではない。誰かの視線を借りて彼女を見ている。そんな違和感があった。
しかしだからこそ少女はそこにいる。確かに生きている。そう感じた。彼女はあの日から成長していたのだから。
「おかえり、司」
肩を軽く叩き、結城が声をかけてきた。
「ん。あぁ、ただいま。奥村は?」
「もう飯に行ったよ。女の子たちも合流するって」
「待っててくれたんやな、ありがとう」
「まっ、いつもの事やしな、気にするな。で?今日はどうだった?」
「笑ってたよ。嬉しそうに、恥ずかしそうに、悲しそうに、なんだかよく分からない顔をしてた。」
「そっかー。」
「あいつ、もう帰ってこないかもしれない。あれってきっと……俺たちのことを忘れることを決めた顔だと思う。」
「うーん、そうなんや。それはそれでいいのかもな。」
そう言って結城はまた司の肩を叩いてきた。
「じゃあ、連中と合流しますか」
力の抜けるような声を出して。
「いつもありがとうな結城」
「ん?なにが」
「いや、なんかずっと俺が戻ってくるまで待っててくれるから」
「ああ。そんなん気にすることはないよ」
「なあ佑樹。お前も、やっぱり俺が見ているのは幻視だと思うのか?」
「うーんどうやろうな、俺は司が見てるって言うんやから見えてるんとちゃうかって思ってる。……それに……」
「それに?」
「静香や他の人たちが生きててほしいと思ってるのは司だけじゃないからな。俺だって見えるなら師範がどうなってるのかだったり、大治さんが元気にしてるのかが見てみたい。司が見えてることが生きてる可能性につながるなら期待したいやん」
「そうだよな、ほかの人のことも知りたいよな。生きている姿が見えるだけいいのかも知れないな」
結城の言葉を飲み込む様につぶやき司は指先を見つめていた。
今まで司の言葉を信じてくれたのは結城だけだった。大人たちは目の前で消えた彼女に対する罪悪感からか、
「ありもしない姿を作り出してるんだ」
「フラッシュバックみたいなもんだよ」
と言って、いつしかまともに聞いてくれなくなった。
それでも結城だけは聞いてくれていた……
結城はあの日、司と一緒に“あの場所”にいた。後にディープホールと呼ばれるようになった“あの場所”に。
高校生になり、初めて黒帯をもらってすぐのゴールデンウィーク。
結城と司と彼女は、小学校から続けてきた柔術の演武大会に来ていた。まだ帯を締めたばかりの幼稚園児から、何十年も続けてきたベテランまで、中国拳法や杖術、大学の武術系クラブなど市内の武術愛好家が一堂に会して行われる大規模なものだった。
自分たちの演目も終わり、一息ついて昼食を取るため、司たちがコンビニに買い出しに行った帰りだった。
「二人とも履きなれてないのに袴を履いて出かけるようなことするから遅くなるのよ」
「いやいや、慣れてないから履いて慣らしていくんやんな、司」
「そうそう、結城の言う通り。袴を履いた動きに慣れるためにずっと履いておかないと、静香も汚れるとか気にしないで袴で来ればよかったのに」
「何言ってるのよ、履きなれないものはいてるから二人とも歩くのが遅いんでしょ。早くおいでよ。師範の演武始まっちゃうよ!」
「お、おう」
振り返り声をかけてきた彼女に二人が声をそろえて返事をして追いつこうと、袴の裾を持ち上げ小走りになった。そのとき裾を踏んだのだろうか。司が転んだ。
「だから慣れないことするもんじゃないって言ったじゃない」
静香が笑いながら司に右手を差し出してきた。立ち上がろうとして彼女の手を握った、その瞬間――。
ドン!!
地面を突き上げるような衝撃が走った。握った二人の手を振りほどくように何かが司の腕をしたからたたき上げる。
上下左右がわからなくなり空間が歪むような感覚があった。
その一瞬、彼女の手の温もりが消えていた。
司の体は抵抗する間もなく弾き飛ばされ、
視界がぐらりと揺れる。
踏ん張ることはできなかった。
受け身を取ろうとしたはずだが、
間に合わない。
激しく地面に叩きつけられた衝撃が背中に響き、腕に鈍い痛みが残る。 視界は不鮮明になり、音が遠のいていく。
世界が暗転した。
司が目を覚ました時、病院の薄暗い天井が視界に入った。 腕の鈍い痛みが意識を引き戻し、付き添っていた両親が看護師を呼び看護師が主治医を呼びに行った。
「4メートルは飛ばされていたらしいけれど、ほとんど怪我はなかったよ。とっさに受け身を取ったんだね。さすが黒帯だよ。」
状況を簡単に説明した後医師は軽く言い残し、去っていった。 しかし、司の胸には釈然としない感覚が残っていた。
受け身を取った――? そんなはずはない。
何かに弾かれたあの瞬間、彼は何もできなかった。 地面に叩きつけられる感覚しか覚えていない。
遠くで結城の声がした気もする。 だが、それが本当に聞こえたのかどうか、今となっては分からない。頭が重い、考えがまとまらない。考えることもままならないまま、静香の手を取った右手を見つめながら司の意識は再び闇へと沈んでいった。
司は後から知った。 武道館が、一瞬で消えた。
比喩ではない。現象として、消失したのだ。
演武に参加していた者、見学者、スタッフ――500人以上が消息不明。 後に「ディープホール」と呼ばれた場所は、今は慰霊公園として整備され、献花台が設けられた。
あれから三年、警察からの繰り返される事情聴取もやっと収まり、結城と司は一緒に大学一回生になった。佑樹と一緒に入学した大学で司は周りからそろそろ新しいことに目を向けるように言われていた。高校でも同じよう言われに、落ち着いたと思ったら大学で、これからも続くのかと思うとげんなりとした気持ちになる。心配をしているように装いながらも、どこか異質なものを見るような視線を司は感じていた。だから結城からいつものような会話が不思議でならない。
「司君っていま付き合ってる娘いるの?」
「えー!今日妙ちゃんに声をかけたの俺やのに司目当てかよ」
「いや、目当てってわけではないけど、司君って誘ってもこないやん」
「まあな」
「それが今日は一緒にご飯来るのがレアやん」
遅れて佑樹と司がファミレスにつくともう皆がテーブルについていた。女性3人に男性一人、そこに佑樹と司が合流して3対3での食事になる。すでに来ていた男は奥村と言って先ほどまで一緒にいたが司が立ち止まった際、この場をまとめるために先に来てくれていた。
「そうよね、私も山口君がこんな場にいるの初めて見たかも」
「登喜子ちゃんまで?千夏ちゃんは違うよね?」
「うーん、わたしは結城君かな」
三人から相手にされなかった奥村が目に見えて落ち込んでいる奥村に
「からかわれてるだけやろ」
「もてるやつが余裕こいてんじゃねーよ」
「いやいや、今日の俺はパンダみたいなもんやない?俺なんか基本コミュ障なだけやろ。奥村みたいに楽しく場を回せないぜ」
と、とりあえずフォローを入れる司だったが、かぶせるように
「お前のその雰囲気が好きだって言う女子多いんやで。モテてることに気付いてないのがもったいない。俺に回せ。」
と結城が参戦してくる。
「俺のどこにモテる要素があるのかわからないけど、結城だってちなっちゃんからラブコールあるやん」
「それやで、それ。その余裕のある態度がいいらしいで。」
「お前ら、その余裕出した会話やめろよな」
と奥村が話を遮ると皆から笑いが漏れた。