水門の板の隙間から冷たい空気が抜けていく。まだ日が昇りきらぬ薄明のなか、静香はそっと村の柵を抜け出した。村の外に出た途端に寒さが静香の体に突き刺さる。堀に引き込まれた川沿いに歩くと霜柱がザクザクと小気味よい小さな音を立てる。しばらく歩くと森の入口にたどり着く。そして森から村に向かって流れる水音に耳を澄ます。
この時間、村はまだ目を覚ましていない。人の声も、家畜の鳴き声もなく、風だけが梢を揺らしていた。岩が組み合う早瀬をたたくように流れる水を眺めながら静香はふと古文で習った和歌を声にならない大きさでつぶやく。
-瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
-天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
(こんな時に百人一首か、ほとんど覚えていないのに思い出すのがこの二首なのはできすぎてるな)
右手の平を見つめながら唇の端が少し上がり、昨日凌天に言われた言葉が胸に浮かぶ。
「一緒に、来てほしい」
村に着いたばかりの隊商に村長が話をつけ、凌天が街の商家に丁稚奉公として出る手はずが整っていた。
——私が来たせいで、凌天の居場所がなくなった。
そのことを、静香は痛いほどわかっていた。
静香が受けてきた教育は、あまりにも突出していた。帳簿の管理、記録の読み書き、計算の精度。 それらはこの村にとっては“異能”に等しかった。
村長の三男、凌天は郷挙里選を通り、中央の試験までは進んでいた。だがその先の登用で名を呼ばれることはなく、十九歳の今も村に残されたままだった。家にはもう居場所がなかった。
本来なら彼が担っていたはずの役目は、すでに静香に与えられていた。
凌天が村から出ていく。そのことは静香の立場を安泰にするとともに村長一家に囲われることを意味していた。村長の思惑も、妾として名を連ねる可能性も、静香はとうに知っていた。この集落で安泰に過ごそうと思えば能力だけでなく女としての振舞いを弁えなければならないということでもあった。
静香とて凌天のことを憎からず思っているところはある。だからこそ凌天からの「共に歩もう」という言葉はただの甘い誘いではなかった。
静香が一緒に行動するということは凌天の街での安定した生活を壊すことになるのだ。
早瀬のように押し流されそうだった日々、彼はその水辺にそっと立っていた。言葉をかけるのではなく、ただ石を並べて、水の縁を示すように。
あの川も、流れの途中で静けさを覚える。 自分も、ここで一度立ち止まりたかった。ただ隊商の出発は明日だ。結論はもう出さなければいけない。
そのとき、ザクザクと小気味よい音が背後から聞こえてきた。振り返ると、そこに凌天がいた。背後からさしてきた光を背負って。日が昇りはじめていたのだ。
陽の輪郭がゆっくりと森を照らしはじめていた。霧がまだ、地面の近くを漂っている。
凌天は声をかけなかった。だが、そこに立っているだけで、静香には言葉がわかる気がした。
静香は足元に目を落とし、川の水音に一度だけ耳を澄ました。
「ここはね、私のいたところによく似てるの。もう帰れないんだなって。別れた水は別れたままなんだって思ってね」
それが“受け入れ”なのか、“別れの準備”なのか――凌天は答えなかった。霜柱が崩れ少しだけ歩み寄る。だが、距離は詰めない。
静香がゆっくりと彼の方へ振り向いた。嬉しそうに、恥ずかしそうに、悲しそうに……朝の光が笑った頬に差している。
その夜、風はなかった。空は澄み、月が低く照っていた。日中の隊商との取引による熱気が嘘のように静かに冷え切っていた。今回の隊商はいつもより大きく、見知らぬ商人たちも多くいたためより賑わいっていた。二日間のお祭り騒ぎが収まり集落は明日の作業に備え、早々に灯りを落としていた。人々は家の奥へ引きこもり、いくつかの中庭では子どもが眠る前の静かな笑い声が響いていた。
凌天は旅支度をしていた。旅支度と言ってもいくばくかの衣服と筆記用具だけだった。結局朝には静香からの返事をもらうことはなく凌天が理解できない言葉と表情を残し右手を見つめているだけだった。凌天も言葉を求めることはせず、月が南天するときに広場前で待つと伝えるにとどまった。
昼間は隊商の対応で互いに声を交わすこともなく、交わした約束を胸にただ静香の動向を待つしかない凌天だった。
静香は稀人としてこの村に来て以来村長宅の一室をあてがわれていた。稀人であり読み書きができる静香には使用人とは区別して一室があてがわれていたがそれでも簡単な寝台を置けば身動きが取れないほど狭い空間だった。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ……っかぁ」
ぽつりと呟いた静香はじっとたたまれ寝台の上に置かれた道着を見つめていた。静香の持ち物といえば唯一この道着のみだった。正座で道着に向かって静かに一礼をする。右ひざと立腰を上げゆっくりと立ち上がると着衣のひもをほどき道着に袖を通す。確かめるように左前に身頃を合わせ、まだ硬さの残る黒帯をしめる。本当であれば袴も身につけたいところだったが、コンビニに昼食を買いに出かけたあの時に履いていなかったことが今となって悔やまれた。
今まで来ていた服を布に包み斜めに背負う。ここに来てから覚えた荷物の運び方だった。両手でパシンっと帯をたたき扉を開けた。
扉を開けると、月明かりが足元を照らした。村の広場までの道には人の気配はなく、ただ草の間を風がすり抜けていく。隊商の一人が不自然に古びた旅装束を纏い、焚火をじっと眺めているのを除いて。 静香はその男を一瞬だけ見た。隊商の寝ずの番だろうか?こんな夜中に家の門から出てくる二人に警戒すのではと身構えたが、男はどこか遠い目をして静香に意識を向けることもなかった。男が剥けている視線の先は燃えるものではなく、燃え残るものに宿る光だった。
静香は男に気づかれないように気配を少しでもなくして歩き出した。道着の生地がわずかに擦れる音が、夜の静けさの中で大きく響く。胸元には帯をしめたときの鼓動とは別種の鼓動が響く。男の視線から隠れられるころ視界が開けた広場の端、村を囲む大きな塀のそばに、一人の影が立っていた。
凌天だった。
凌天も静香に気が付き歩み寄ってくる。
静香が小さく息を吐く。静香の視線を白く靄が支配する。そっと歩を速めようとした、そのときだった。
今出てきたばかりの村長宅から、乾いた音とともに火の手が上がった。赤い閃光が空を舐め、つづけて金属音、怒声、悲鳴が裂ける。
「――ッ!」
凌天がこちらに向かって走りだす。静香もまた、駆け出そうとした。
その間に割って入ったのは、広場に所せましと張られていた隊商のテントから出てきた男たちだった。 ざっと幕がはらわれ、中から男たちが何人も飛び出してくる。
凌天が肩を掴まれて地面に押し倒され素早く縄で自由を奪われた。
「凌天!」
静香の声に反応するように一人の男が静香に右腕を伸ばす。肩口に伸びた手が見えた瞬間、静香は一歩、軸をずらすように引いた。のばれた腕をふわりと払いそのまま軽く右手を男の手首に絡ませ体を開く。追いすがる男の重心が前に傾き静香の前に導かれる。すかさず二の腕に左手を置き膝を抜き体を沈める。男はなんとか体勢を整えようと踏ん張った。タイミングを合わし男の重心を上げ男の右腕を槍に見立て男に打ち込む。肘や肩が伸び一本の槍と化した男の腕が男の体の中心を貫き顔面から地面に叩きつける。綺麗に決まれば男は立ち上がれないだろう。
視線はすでに、次の敵へと向かっていた。 地に埋まった男を見下ろしながら、周囲を取り囲む五人の男たちの動きが止まる。 背後から噴き上がる火が、戸惑いの表情の輪郭をあぶり出すように浮かび上がらせていた。
静香自身も戸惑っていた。この世界に来て稽古らしい稽古は何もしていない。鍬を振り下ろすときの重心、水桶を持ち上げたときの体の軸、井戸を汲み上げる腕ここでの生活すべてが技の基礎力を上げることになっていたのかもしれない。そして自然に体が動いた。身体が覚えている。
本来であれば安全に受け身を取りその後相手を固める技であるが本来は相手を安全に制圧するためのものである。しかし少しタイミングをずらせば容易に意識を刈ることができたのだ。
静香が簡単に捕まえることができないと思ったのか男たちは互いに視線を交わし円を描くように静香を取り囲む。
騒ぎを聞きつけ家々から人々が次々と出てくる。状況がわからないのだろう騒ぎ立てるものもいたが一刀でたたき切られていた。
混乱の中息をのむ静寂が響く。音がないわけではない、叫び声や燃え盛る家の音はしているのに、そのすべてをかき消すような無音が静香を支配していた。先に動いたのは右手前の男だった。頭上から殴りつけるように短刀が振り上げられる。短刀が振り下ろされる軌道を描く前に、静香は一歩踏み込み短刀を振り上げた右腕を取り引き下ろす。体勢が崩れたたらを踏んだ男の腹に膝を入れる。それほど強くけったわけではないはずだが男は腹を抑えうずくまり立ち上がることができなくなった。。
続いて背後から踏み込んだ者の腕を流すように外し、手首を優しくつかみ崩れた重心を導く。静香に導かれるまま体が流れた男は静香の腰に流れを止められ頭から地面にたたきつけられる。音は鈍く低く、すでに別の方向に静香の視線が向けられていた。
三人目、四人目が短刀をひらめかせ時間差で迫る。間合いが近づくと同時に、静香は円を描くように体を返し、その動作のなかでひとりの肩口を取り、崩れた体勢の男をもう一人に投げ飛ばす。互いの短刀が互いの腹と胸を刺し崩れ落ちる。汗と血、気配と足音が交錯し、ひとつの軌跡のように場が動く。
最後の一人が
「ひぃっ」
と声を上げ逃げ出した。
「静香……」
村での生活からは思いもよらない静香の姿に凌天がうめいた。逃げ出した男に変わり長刀を持った男が静香に切りかかる。三角形に近い四角形をした直刀を見てスターウォーズのスターデストロイヤーに持手がついたみたいだと思った静香は自分に少し笑ってしまった。
周りが混乱に陥り男が切りかかってくるようなひっ迫した状況なのにスターウォーズのオープニングを思い出している場違いさにあきれてしまった。
「でも、これって落ち着いてるってことよね。」
呟きながら距離を取り大きく息を吸い吐き出す。呼吸を整えるための間合いを確保した後ゆっくりと長刀を持つ男と対峙しようとしたところに左右から切りかかる男たちがいる。静香はよけるでもなく体を動かすと男たちはわざと狙いを外したように刀が空を切る。体が崩れたところを軽く押し出してやることで長刀を持った男に突進させると、長刀を持った男は躊躇せず刀を二振りし切り捨て、何事もなかったように静香に向かって歩みを進める。
(刀の長さもわかっている、振った時の範囲もわかった。あとは刀の間合いから自分の間合いに入るだけ)
呼吸が浅くならないように意識しながらも相手に読まれないようにコントロールをする。
「隙とは吸う気の事、息を吸うタイミングが一番危ない」
師範の言葉が耳によみがえる。今までの男たちと違い目の前にいる男は強い。周囲の混乱をよそに二人だけの世界のようになっている。下手に静香に切りかかりよけられてしまうと長刀の男に切られてしまう。一度見本を見れば十分だった。他にも獲物がいるのに危険な静香に手を出す意味はない。賊たちは二人を残し自分の仕事をしに行った。
右半身になり長刀を並行よりやや立てて静香の首筋にぴたりと刃先を向ける。ややひざを曲げ腰を落とし刀の柄尻に左手を添える。切るというより突くことに主眼を置いたような構えに静香はやりにくさを感じる。
(こんな事なら最後の演武は太刀取りにしてもらえばよかったな)
益体もないことを思いながら呼吸が荒くなってくる。肩も上がってきてる。
(やばい、私緊張してきてる)
呼吸が浅くなり手足が縮こまっているのがわかる。そして目の前にいる男の前に血まみれの男が何人も横たわっていた。
「私が、ころした?!」