頂いたお土産に合わせてお茶を淹れて雪隆の部屋へと持っていくと、彼は上半身を脱いで汗を拭っている最中だった。
「!」
ドキリとして思わず盆を落としそうになり、伊助は慌てて隠れた。でもその目には姿が焼き付いている。
引き締まった腰回り、張り詰めた胸板、形のいい腕。どれも自分にはない男らしいもの。
「……」
また、胸がキュッと痛み出す。苦しくて、心臓が飛び跳ねている。顔も熱くて雪隆の顔が見られないんじゃないかと思う。子供の頃から弟のように可愛がってくれて、ある意味見慣れているはずなのに最近こうなのだ。変な病気なんじゃないかと本気で心配になってくる。
そうして廊下に蹲っていると、ヒョイと顔を出した雪隆が声をかけてきた。
「どうした?」
「わぁ!」
「!」
思わず声を大きく出してしまい、雪隆にも驚かれて今度は羞恥で顔が染まる。その様子を彼は悪戯な様子で笑った。
「そんなに驚いたのかい?」
「むぅ」
拗ねるとまた頭を撫でられる。これで誤魔化される年齢では流石にない……でも好きだから許す。
お茶を持って入れば部屋はちゃんと整えられていて、既に羊羹が置いてあった。
雪隆と向かい合ってそれらを食べると、優しい餡子の甘さに幸せを感じる。その顔を雪隆が見て嬉しそうに目を細めた。
「相変わらずお前は嬉しそうに食べるな」
「美味しいです。ありがとうございます」
「なんの。寂しい思いをさせちまうしな。俺が、お前の笑った顔がみたいのさ」
なんて言われて、また胸の奥が熱を帯びる。嬉しくて、恥ずかしくて苦しい。自然と手が止まると、雪隆が心配そうな顔をした。
「どうした? 口に合わないか?」
「いえ、 美味しいです!」
本当に、どうしたんだろう。この落ち着かない気持ちがなんなのか分からないまま、伊助は羊羹を口にしお茶を飲み込んだ。
◇◆◇
この想いがなんなのか分からないまま数日。珍しく雪隆は店にいる。そして、何故か難しい顔をしている。
そんな様子を遠目に見ながら、それでも側にいてくれるのが嬉しくて伊助はずっとご機嫌だった。
季節は徐々に秋へと向かって行こうとしている。
そんな頃、女将さんと旦那様がとても機嫌良く着飾って皆の前に出た。
「実は、雪隆の結婚が決まったのだ」
「!」
その瞬間、雷が落ちたような痛みに息が止まりそうになった。
「本当ですか!」
「こりゃ、お祝いだ」
周囲は喜んでいる。それもそうだ、雪隆は今年で二十歳。いい年頃だ。
喜ばないと……。思うのに言葉が出ない。死にかけの魚みたいにパクパク口を開いて、それでも息が吸えない。泣きそう……目頭が熱い。
「伊助?」
「あ……」
「どうした! 泣いているぞ」
「あ……っ」
堪えきれなかった涙が落ちていく。一つ落ちれば止められない。でも、何か言わないと。何か……この空気を壊さないように!
「嬉しい、です。幸隆様は僕を大事にしてくれた方だから……幸せに、なって欲しくて」
「そうか、泣くほど嬉しいか。伊助はいい子だな」
「本当に。この子にもいいご縁があるといいんですけれどね。探さないと」
「まだ十六だろ? 流石に早いさ」
旦那様も女将さんもそう言って笑ってくれる。とりあえずこの場の空気を壊さなくて良かったと、伊助はほっとした。
でもまだ、胸は潰れてしまいそうなままだ。
それからもずっと頑張った。お相手は近くの宿屋の娘さんで、雪隆は婿養子に入るらしい。可愛らしい方で気立ても良くて、伊助にも優しくしてくれる。
いい人だ。いい人なんだ。なのに伊助はずっと彼らを騙している。
本当は嫌なんだ。雪隆が結婚するって聞いて、ずっと苦しいんだ。胸が潰れたまま息ができなくなって、夜になると眠れないままずっと涙が出る。食事も喉を通らなくて、無理に食べて後で吐き戻してしまった。
そこでようやく、気づいた。好きなんだ、雪隆の事が。心の底から好きなんだ。
気づいたら渇いた笑いが出た。馬鹿みたいだ。男の、孤児のくせにあんな立派な人が好きだって? そんなの許される筈がない。何を思い上がってるんだ。
それでも込み上げるものはせり上がって嗚咽になる。泣いて泣いて、この涙はいつ涸れるのかと疑問に思えて。あまりに泣くものだから胃がひっくり返った。
店はお祭り騒ぎだ。皆が明るい顔をしている中を辛気くさい顔で歩くのはいけない。無理に笑って、婚姻の手伝いなどもして……その中でゆっくりと諦めようとした。叶わぬ想いなど捨てた方が賢い。伊助はそこらの十六よりもずっと、そうした我慢は出来る方だ。
それでも諦められないものが自分の中で訴えている。鬱陶しくてたまらない。頭も痛くて、体も熱くて……。
そうしている間に、とうとう寝込んでしまった。
疲れが出たのだろうと言われて部屋で眠っても伊助の容態は良くはならない。食事も受け付けず、眠りは浅く、頭痛と熱は下がらないまま。とうとう旦那様は伊助に暇を出した。祝い事の前に病人は縁起が悪いのと、万が一流行病だった事を考えてだった。
ただ放り投げられたのではない。近くの寺に預けられたのだ。小さな寺だが住職はちゃんとしていたし、部屋は余っている。多めの金子を出してくれて療養するように言われたのだ。
ただこの頃の伊助はこの状況を「何時でも死ねる」としか思わなかった。ある朝ぽっくりと逝っても寺だ、直ぐに供養してくれる。
泣いて、くれるかな。そんな切ない思いが胸に走る。死んだ伊助を見て、雪隆は泣いてくれるだろうか。そうなら嬉しい。あの人の涙が自分の為だけに流れるなら、それでも嬉しいんだ。
季節は過ぎる。木々の葉はすっかり色付き、既に落ち始めている。伊助は床を上げられないまま、冷える外界をぼんやりと見る。もう、婚礼は終わっただろうかと。
そんなある日の夜、ふと夜中に気配がした。鈍い頭でもまだ考える事ができる。目も見えている。その目で、伊助は気配の方へと目をやって驚いた。
「雪隆、様?」
掠れた声で名を呼ぶと、彼は今にも泣きそうな顔で伊助をかき抱く。軽くなった体は簡単に浮き上がり、彼の腕の中におさまった。
「すまない伊助!」
その声はあまりに久しぶりで、嬉しくてたまらなかった。枯れたと思った涙が込み上げ、必死に背中に腕を回して縋るように着物を掴んだ。
「うれ、しい」
「伊助」
「好き、です。雪隆様、僕は」
もうすぐ死ぬだろう人間の妄言でもいい、伝えたかった。知って欲しかった。この胸の中を一杯に埋める感情の僅かな部分だけでいいから。本当の気持ちは伝わらなくてもいいから。
驚いたように息を詰めた雪隆がグッと目を瞑る。そしてより強く抱きしめた。
「俺も、お前を愛しているよ」
「……え?」
押し殺した声が苦しそうに耳に響く。その言葉を反芻して、驚いて声が出た。「愛してる」と言わなかっただろうか。
「ずっと、お前の事が好きだった。お前が可愛くてたまらなかった。弟のように思っていたお前をこんな気持ちで見ている事を知られたくなくて知らぬフリをしていたが、駄目だった」
「雪隆様?」
「結婚は断った。親父には勘当されてきた。でもそれでもういいんだ。お前がいれば俺は、他は何もいらないんだ」
勘当? 結婚を、断った?
驚きの言葉に目が回りそうだ。全部都合のいい夢みたいだ。覚めて欲しくない夢だ。
「伊助、俺と来てくれないか。俺はお前がいればもう、他はいらない」
「うれ、しい。僕も貴方を、お慕いしていました。苦しくて……分不相応だと分かっていて、何て愚かな事かと思って……それでも、好きなのです」
ようやく伝えられた気がした。伝わった気がした。
強く抱きしめてくれる腕の中で、伊助はようやく安らかな笑みを浮かべる事ができた。