雪隆が体調を崩した事で足止めとなった。村人の親切で伊助達はしばらくの滞在を許され、何かと世話を焼かれている。
けれど翌日になっても雪隆の体調は戻らず、寧ろ少し悪化しているようだった。
「雪隆様、大丈夫ですか?」
「あぁ……」
大丈夫だと微笑んでくれるが、その表情すら辛そうなのが苦しい。顔色も悪いし、起き上がるとふらつくようで頭がガクッと落ちる。それを慌てて支えると、彼は申し訳なさそうな顔をした。
「すまねぇ。お前にこんな手間をかけさせるなんて」
「そんな! 僕が伏せっている時は雪隆様が看病してくれたじゃないですか。苦しい時は互いに支えあうのは当たり前です」
体を支え、背中を撫でながら伊助はそっと寄り添う。これに雪隆は目を細め、大きな手で頭を撫でた。
「ありがとう。俺は幸せ者だな。こんなに献身的で、可愛い嫁がいるんだから」
「嫁だなんて! あっ、うれ、しい……嬉しい」
ゆっくりと噛みしめるように「嫁」という言葉を胸の内で反芻すると、ジワッと痺れるような嬉しさが込み上げる。胸の前でモゾモゾと手を摩り、足先まで落ち着かず擦れている。顔が熱を帯びるのがはっきりと分かってしまう。
そんな伊助を見て、雪隆は優しく微笑むと腕を伸ばして引き寄せ、そっと口づけた。
「直ぐに良くなる。お前も体に気をつけて、無理はするなよ」
「はい」
そう約束してから、伊助はチサのいる母屋へと足を向けた。
母屋ではチサが洗濯の用意をしていた。伊助はそこに声をかけ、歩み寄っていった。
「チサさん、お手伝いします」
「え? でも、悪いよ」
目をまん丸にした彼女は心底驚いた様子でいる。けれど伊助としてはこんなに良くしてもらっているのに何もしないのも心苦しく思っている。何せ水瓶の補充や日に二度の食事の世話までしてくれているのだ。
「これでも僕、少し前まで奉公に出ていたんです。だから水仕事とかも慣れてますよ」
「うーん……それなら、お願いしようかな」
「はい!」
桶を持つチサについて伊助は徐々に村から離れていく。向かうのは出会ったあの小川だ。林を抜ければ小石と草の場所に出て、そこを流れの緩やかな小川が流れていく。その側に桶を置いて腰を下ろした。
「ここ、綺麗ですよね」
何気なく辺りを見回すと昨日見た祠が目に入る。大きな岩の浅い洞窟の中に佇むそこは綺麗にしているのに、どこか人を寄せ付けない感じもある。
「蛍の原って言うのよ。もう少ししたら蛍が舞うの」
「へぇ、それは綺麗ですね」
綺麗な川辺に無数の蛍の光が舞う光景など、神秘的で素晴らしいのだろう。そんな中を雪隆と……なんて思った所でぽっと頬が熱くなった。
「あははっ、伊助さんは可愛いね」
「え! かわ、そんな。僕なんてちっとも」
「雪隆さんとは恋仲なんじゃないの?」
「へぁ!」
思わぬ指摘に変な声が出た。顔を真っ赤にしてチサを見ると、彼女は若い娘らしくニンマリ笑ってこちらを見ている。少々ゲスな笑みだ。
「なっ、なん!」
「だって、朝起こしに行ったら二人抱き合って寝てるんですもの。お布団二組あったのに」
「あぁぁ、あれは!」
「あっ、別に拒絶するわけじゃないよ。ちょっとだけ、いいな~と思っただけ」
「え?」
首を傾げて彼女を見ると、ほんの少し寂しそうな顔をする。洗濯をする手が、僅かに力強くなった気がする。
「この村はこんなでしょ? 時々外からくる人が婿になってくれる事もあるけれど、大体は村の中から良さそうな相手と結婚するのよ。私も今年の終わりくらいには村の男と結婚するんだけど、相手とは十くらい離れてるの。それがちょっとだけ、嫌だな~て」
別に、愛し合う相手と結婚するわけじゃない。それが困難な事なんて多すぎて胸が痛い。伊助と雪隆だって本来はまったく別の人生を歩むはずだった。ただ、二人はその運命を蹴飛ばして逃げてきたんだ。あったはずの居場所を捨てて。
「だからね!」
「っ!」
「二人が少し羨ましい。想い合っているんだなって」
「……はい」
ここで更に否定するのはチサに失礼な気がして認めた。すると彼女は眩しいものを見るような目で見つめ、次には視線を外してしまった。
「ずっと一緒にいられるわよ。多分ね」
「はい」
その言葉に、伊助は素直に感謝の気持ちを持った。
洗濯をして一度戻ると、雪隆の顔色は更に悪く汗をかいて唸っていた。驚いて近付いて体を起こすと具合悪そうに口元を押さえている。驚いて桶を持っていくと、彼は苦しげに嘔吐してしまった。
「雪隆様!」
驚きと苦しさに声をあげ、背に回って摩る。その体が小刻みに震えていた。
「僕、チサさんに何か薬がないか効いてみます!」
「っ! 伊助!」
苦しげにしながらも雪隆は止めるような声を出す。だが、伊助はチサの所へと向かった。
程なく老人が風邪に効く薬湯だと言って出してくれた。それを雪隆へと持っていき飲ませようとするが、味が独特なのか結局一口も飲めずにその日は横になる事になった。
移すといけないと布団は分かれている。ひとり寝の布団はいつまでも寒い気がしてたまらない。
遠く、「おぉぉおぉぉぉぉお」という不気味な遠吠えが聞こえて体を小さく丸めた伊助は、雪隆が元気になるよう必死で祈るのだった。