怪しまれたら逃げられない可能性がある。正直怖いがこれまでの感じを崩す事はせず伊助は母屋へと足を向けた。
そこにチサがいて、明るく声をかけてきた。
正直、昨日の話が頭をちらついてこれまでみたいに好意的に彼女を見られない。それが表情にも出ていたのか、チサはこちらを見て首を傾げてしまった。
「どうかしたの?」
「あぁ、ううん。雪隆様の体調が思うように良くならないから心配で」
「そう。旅の疲れって突然出るんだって聞いたわ。実際、何度か旅の人を泊めた事があるけれど体調を崩してそのままって人もいたし」
「そう、なの?」
でもそれは彼女達が……ううん、村ぐるみでの旅人殺しがあるからなんじゃ。
思っていると、不意に彼女が伊助の手を取ってギュッと握り締めてくる。驚いて見ると、チサは目をキラキラさせてほんのりと頬を染めて伊助を見ていた。
「でも安心して! 伊助はここ居ついてくれてもいいから!」
「っ!」
それは彼女から漏れた悪意のようにも思えた。
思わず手を振り払ってしまう。驚いた彼女に、伊助はキツい顔で睨み付けた。
「安心なんて出来ません! 雪隆様は僕の大切な人です!」
「でも、男じゃない」
「それでも!」
「生産性のない営みなんて意味はないのよ?」
「っ!」
そう言った彼女は心の底からそう思っている様子だった。無邪気な少女のように透き通った目。これが正しいと疑わない様子。そこに、こちらの気持ちを慮るという心は感じなかった。
逃げるように背を向けて家へと逃げ込んだ伊助を雪隆は驚いた様子で見てくる。そこに、伊助は飛びつくように抱きついて泣いた。
「どうした伊助」
「うっ、ふぅ……うぅぅ」
背を撫でる大きな手が温かい。もう、一秒でも早くこの村を出たい。
伊助の様子を見た雪隆は難しい顔をし、明日の夜中に必ずと言ってくれた。
◇◆◇
その日は結局家を出なかった。家にはつっかえ棒をしている。何度か人が訪ねてきたが返さなかった。
それはここにきて六日目も同じ。明日は村の祭りだからと誘われたし、前夜の宴にも誘われた。だがそれには応えないまま過ごした。
そうしてその夜、前夜の宴はかなり遅くまで行われたがようやく明かりが消えた。念のため、それから四半刻ほど置いてからそっと、二人は家を出た。
布団はそれっぽく見えるように膨らませ、僅かな荷物だけで飛び出した村は不気味な程に静かだ。青々とした月の明かりだけを頼りに走り抜けると、不意に警鐘が鳴らされた。
「逃げたぞ!」
「っ!」
すくみ上がるような男の声に驚き足が震える。その手を雪隆が取って河原の方へと走った。
静寂だった村に赤々とした松明の明かりが一斉に灯る。腕を引かれ走る中、後ろに見えるその異様な光景はこの世の終わりを思わせる。欲に顔を歪ませ、手には鉈やら桑やらを持った男衆が下卑た笑みで迫ってくるのだ。
呼吸が荒くなり、心臓が飛び跳ねる。恐怖と急激な運動に体はついていかない。それでも、足を止めれば待っているのは残酷すぎる結末だけだろう。
「頑張れ伊助!」
「雪隆様」
手を強く握り走る雪隆についていこうと伊助の足は進む。草履の足に夜露に濡れた草が絡まり、跳ね上げた泥が袴の裾を汚していく。だがそれを気にする状況ではない。
赤々とした松明の炎と男たちの怒号は直ぐ側まで迫っている。
走って走って、いつしか小枝や鋭い刃が体に小さな傷をつける。それでも頑張って走り続けた二人は河原へと出られた。流れも穏やかな小川に草花が揺れるそこは確かに蛍の原だった。
小川を超えた先には洞穴と、そこに作られた小さな祠がある。外神様の祠は不気味な彼岸花に彩られ、時折「おぉぉぉおぉぉぉ」という呻き声のようなものを発している。
「道は!」
「確か……あっ!」
祠から少し行った所に上の山道に出られる場所があるはずだった。けれどそこには今大きな石が堤防のように転がっている。
それを見て、雪隆は苦々しく舌打ちをした。
「既に断たれていたか」
「それなら川沿いに!」
だがその前に松明が河原へと現れ二人を囲い込むように広がっていった。
グッと奥歯を噛んだ雪隆が伊助を引き寄せ背に庇い、刀を抜いた。
そこに蓑を着た男衆が集まり、二人を囲い込んだ。
「あのまま毒にやられていれば苦しまず死ねたのになぁ」
そう、絡みつくような視線と声音で言ったのはお世話になった旦那だった。
「伊助はこっちにいらっしゃい」
そう、この場に不釣り合いな明るい声で言ったのはチサだった。彼女はニタリと仄暗く笑っている。
「私、子供産むなら可愛い子がいいの。伊助の子ならきっと可愛いわ」
「っ!」
頬に手を置き悦に入る様子で笑う女を、正直に怖いと思う。背に冷たいものが伝い落ちていく。
「おう、お前等! 祭の始まりだ!」
「「おぉぉおぉぉぉぉ!」」
獣の雄叫びのような声に身が竦む。これに雪隆は足元を固めて体勢を整えた。
だが、相手は足場に慣れた十数人の男衆だ。病み上がりの雪隆はどんどん追い込まれていく。特に五軒の家の当主は体格も良く、持っていたのはガタついた太刀だった。
「くっ!」
型などない力任せの一撃だが重いのが分かる。徐々に崖際に……あの砦の所へと追い込まれていく二人。その背に庇われたまま伊助はどうにかしようと河原の石を拾い雪隆の後ろから投げつける。
それに気を取られていたのだ。注意すべき人物がいつの間にか消えている事に、伊助も雪隆も気づかなかった。
石を拾おうと手を伸ばす。その手を横合いからの手が掴み強く引き寄せられ、伊助は悲鳴を上げた。首筋に小刀を突きつけられた伊助の背後で、チサは勝ち誇ったように笑った。
「捕まえたわ! この子を殺されたくなかったら抵抗を止めることね!」
夜闇をつんざく金切り声に雪隆の手は止まる。大きく目を見開き、取り戻そうと走る。けれどチサの持つ小刀が僅かに伊助の首に傷を作ったのを見て…………彼は刀を手放した。
直後、男が五人雪隆の体をガタガタの刀で滅多刺しにする。柄まで埋まるような力で貫かれた雪隆の体は倒れ、濃厚な血の臭いが辺りに充満する。
その光景を絶望のまま見た伊助の目から涙が落ち、悲鳴が木霊した。
「いやぁ! いやぁぁぁ雪隆様! 雪隆様ぁぁ!」
「あははははっ!」
狂ったように叫ぶ伊助と狂ったように笑うチサ。その中で肉を突き刺す濡れた音がして、周囲の男は取り落とした雪隆の荷や刀を奪い取って「これは俺のだ!」などと騒いでいる。
そんな凄惨な混沌の中、暴れた伊助はチサの腕を噛み拘束を逃れ雪隆の所へと駆けた。太い腕が捕まえようとするのも振り払い、伊助は既に息絶えた雪隆の体にしがみつく。むごたらしくなった人はそれでも愛しい想いが消える事はない。
どうして……何が罪だったんだ。男でありながら男を好きになってしまったことか? 身分違いの恋か? それはこんな残酷な運命を課せられる程の大罪なのか。
憎くて……憎くて憎くて憎くて憎クテ憎クテニククテニククテ。
呪ッテヤル!
胸底から吹き上がるような暗い感情が体という枠を越えていく。何処からか聞こえる怨嗟を含む「おぉおぉぉぉぉぉ」という声に伊助の声は重なり、目からは真っ赤な血の涙が流れ出た。喉が裂けるほどの声を上げ、嘆きを憎しみと呪いにし、口元からはゴボゴボと血が溢れ出てくる。それでもこの声は止まない。
この異様な様子に村人は恐れおののき逃げ腰となるが、既に遅かった。
突如雲の無い夜空から一筋の雷が祠へと落ちる。それは故意に落ちたと思えるもので、祠は一撃で真っ二つに裂けてしまう。そして裂けた祠の底から、暗く青いものが揺らめきたった。
「ひっ! ひぃぃぃぃ!」
「亡霊だ! 呪いだ!」
それは恨めしい顔をした幾十の首だった。
ザンバラになった髪を振り乱し、顔の一部は爛れ腫れ、だらりと目は垂れ濁って白くなっている。その全ての口から底冷えするような怨嗟の声がしているのだ。
その首達の中心にいるのは伊助だった。
彼の目は血の涙を流したまま墨を流したかのように真っ黒になり、大切に雪隆の体を膝に抱いている。表情はなく、可愛らしい顔のまま抜けるように肌は白くなり、感情の見えない様子でただ腰を抜かす村人を見ている。
その中の一人がこの恐怖に耐えきれなくなって悲鳴を上げて逃げた。そこに伊助が指を差すと首の一つが長く尾を引きながら飛んでいき、逃げた男の首に噛みついた。
ブチィッ!
深く肉が抉れ、そこから真っ赤な血が噴き出して男は多々良を数歩踏んだ後で倒れていく。あんまりな光景に呆然としているが、これで終わりではない。噛みつかれたそこから男の首がブツブツと爛れ、焼けたように傷は広がり肉が独りでにブチブチ千切れていく。
やがてそれがブチリと全て切れると……男の首がゆらゆらと宙に浮いた。
「え?」
信じられない思いでその光景を見る村の者に、首だけになった男が襲いかかる。他も次々に首が舞い、逃げ惑う村人を追いかけて襲っていった。
その中でサチだけは違う恐怖に悲鳴を上げる。
伊助に噛まれた所がゆっくりと腐り、それが体中に広がっていく。痛みに藻掻き、剥がれ落ちる皮膚の下から血が滲み出て腐ったような異臭を放つ。髪が抜け落ち、腹の底が煮えるように熱く溶けて行くように思うのに決して意識が消えない。
その様子を、伊助は血の涙を流したまま笑って見ていた。
この夜、多くの旅人を殺し奪ってきたこの村は夜明けを待たずして滅んだのだった。