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if……(1)

 怪しまれたら逃げられない可能性がある。正直怖いがこれまでの感じを崩す事はせず伊助は母屋へと足を向けた。

 そこにチサがいて、明るく声をかけてきた。


 正直、昨日の話が頭をちらついてこれまでみたいに好意的に彼女を見られない。それが表情にも出ていたのか、チサはこちらを見て首を傾げてしまった。


「どうかしたの?」

「あぁ、ううん。雪隆様の体調が思うように良くならないから心配で」

「そう。旅の疲れって突然出るんだって聞いたわ。実際、何度か旅の人を泊めた事があるけれど体調を崩してそのままって人もいたし」

「そう、なの?」


 でもそれは彼女達が……ううん、村ぐるみでの旅人殺しがあるからなんじゃ。

 思っていると、不意に彼女が伊助の手を取ってギュッと握り締めてくる。驚いて見ると、チサは目をキラキラさせてほんのりと頬を染めて伊助を見ていた。


「でも安心して! 伊助はここ居ついてくれてもいいから!」

「っ!」


 それは彼女から漏れた悪意のようにも思えた。

 思わず手を振り払ってしまう。驚いた彼女に、伊助はキツい顔で睨み付けた。


「安心なんて出来ません! 雪隆様は僕の大切な人です!」

「でも、男じゃない」

「それでも!」

「生産性のない営みなんて意味はないのよ?」

「っ!」


 そう言った彼女は心の底からそう思っている様子だった。無邪気な少女のように透き通った目。これが正しいと疑わない様子。そこに、こちらの気持ちを慮るという心は感じなかった。


 逃げるように背を向けて家へと逃げ込んだ伊助を雪隆は驚いた様子で見てくる。そこに、伊助は飛びつくように抱きついて泣いた。


「どうした伊助」

「うっ、ふぅ……うぅぅ」


 背を撫でる大きな手が温かい。もう、一秒でも早くこの村を出たい。

 伊助の様子を見た雪隆は難しい顔をし、明日の夜中に必ずと言ってくれた。


◇◆◇


 その日は結局家を出なかった。家にはつっかえ棒をしている。何度か人が訪ねてきたが返さなかった。

 それはここにきて六日目も同じ。明日は村の祭りだからと誘われたし、前夜の宴にも誘われた。だがそれには応えないまま過ごした。


 そうしてその夜、前夜の宴はかなり遅くまで行われたがようやく明かりが消えた。念のため、それから四半刻ほど置いてからそっと、二人は家を出た。

 布団はそれっぽく見えるように膨らませ、僅かな荷物だけで飛び出した村は不気味な程に静かだ。青々とした月の明かりだけを頼りに走り抜けると、不意に警鐘が鳴らされた。


「逃げたぞ!」

「っ!」


 すくみ上がるような男の声に驚き足が震える。その手を雪隆が取って河原の方へと走った。

 静寂だった村に赤々とした松明の明かりが一斉に灯る。腕を引かれ走る中、後ろに見えるその異様な光景はこの世の終わりを思わせる。欲に顔を歪ませ、手には鉈やら桑やらを持った男衆が下卑た笑みで迫ってくるのだ。


 呼吸が荒くなり、心臓が飛び跳ねる。恐怖と急激な運動に体はついていかない。それでも、足を止めれば待っているのは残酷すぎる結末だけだろう。


「頑張れ伊助!」

「雪隆様」


 手を強く握り走る雪隆についていこうと伊助の足は進む。草履の足に夜露に濡れた草が絡まり、跳ね上げた泥が袴の裾を汚していく。だがそれを気にする状況ではない。

 赤々とした松明の炎と男たちの怒号は直ぐ側まで迫っている。


 走って走って、いつしか小枝や鋭い刃が体に小さな傷をつける。それでも頑張って走り続けた二人は河原へと出られた。流れも穏やかな小川に草花が揺れるそこは確かに蛍の原だった。

 小川を超えた先には洞穴と、そこに作られた小さな祠がある。外神様の祠は不気味な彼岸花に彩られ、時折「おぉぉぉおぉぉぉ」という呻き声のようなものを発している。


「道は!」

「確か……あっ!」


 祠から少し行った所に上の山道に出られる場所があるはずだった。けれどそこには今大きな石が堤防のように転がっている。

 それを見て、雪隆は苦々しく舌打ちをした。


「既に断たれていたか」

「それなら川沿いに!」


 だがその前に松明が河原へと現れ二人を囲い込むように広がっていった。


 グッと奥歯を噛んだ雪隆が伊助を引き寄せ背に庇い、刀を抜いた。

 そこに蓑を着た男衆が集まり、二人を囲い込んだ。


「あのまま毒にやられていれば苦しまず死ねたのになぁ」


 そう、絡みつくような視線と声音で言ったのはお世話になった旦那だった。


「伊助はこっちにいらっしゃい」


 そう、この場に不釣り合いな明るい声で言ったのはチサだった。彼女はニタリと仄暗く笑っている。


「私、子供産むなら可愛い子がいいの。伊助の子ならきっと可愛いわ」

「っ!」


 頬に手を置き悦に入る様子で笑う女を、正直に怖いと思う。背に冷たいものが伝い落ちていく。


「おう、お前等! 祭の始まりだ!」

「「おぉぉおぉぉぉぉ!」」


 獣の雄叫びのような声に身が竦む。これに雪隆は足元を固めて体勢を整えた。

 だが、相手は足場に慣れた十数人の男衆だ。病み上がりの雪隆はどんどん追い込まれていく。特に五軒の家の当主は体格も良く、持っていたのはガタついた太刀だった。


「くっ!」


 型などない力任せの一撃だが重いのが分かる。徐々に崖際に……あの砦の所へと追い込まれていく二人。その背に庇われたまま伊助はどうにかしようと河原の石を拾い雪隆の後ろから投げつける。

 それに気を取られていたのだ。注意すべき人物がいつの間にか消えている事に、伊助も雪隆も気づかなかった。


 石を拾おうと手を伸ばす。その手を横合いからの手が掴み強く引き寄せられ、伊助は悲鳴を上げた。首筋に小刀を突きつけられた伊助の背後で、チサは勝ち誇ったように笑った。


「捕まえたわ! この子を殺されたくなかったら抵抗を止めることね!」


 狂気の声が放たれ、雪隆が目を見開き奪い返そうと手を伸ばすがそうは簡単じゃない。むしろ村の男衆に追い込まれていく。それでも彼は伊助の名を呼びながら抵抗した。

 その姿に、今の絶望に涙が溢れる。震える足に力が入る。そして狂ったように伊助は雪隆の名を呼んだ。小刀は小さな傷を伊助の首につけたし、それはとても痛んだ。それでも愛しい人を奪われる痛みに比べれば些細なものだった。


「ちょっと、暴れないで! いた!」


 伊助が暴れた事でチサは慌てて拘束を強めようとする。だがその腕に伊助は必死に噛みついた。力一杯噛みついた部分は肉を抉る程の強さがあり、あまりの痛みに手が離れる。その隙を伊助は逃さなかった。

 パッと駆けだし、雪隆を切り殺さんとする男達の合間を縫って伊助は雪隆の側へと駆け戻る。そしてどこかに活路はないかと見回した。塞がれた道、季節外れの彼岸花。その奥でポッと祠が光った。


 何を、思ったのか分からない。ただ頭に強烈に焼き付いた命令に体が従っただけ。気付は伊助は両手で抱える程の大きな岩を持って祠へと駆けだし、その前で大きく岩を振りかぶった。


「何をする。やめろ!」


 男達の焦りと怒号の中、何処からか聞こえた声が『壊せ』と命じた。


 岩を叩きつける伊助の目の前で粗末な祠は簡単に壊れる。それを村の男達が呆然と手を止めてみつめ、雪隆も唖然とする。

 そんな静寂の中、ポッポッと彼岸花が青白い光を生み出し空へと登っていく。蛍のようであり、そうではない。これは……。


「人魂」


 伊助がぽつりと呟いた、その直後。晴天の夜空に突如青白い稲妻が走り激しい轟音と共に砦を完全に破壊した。


「おぉぉぉおおぉぉぉぉぉ!」


 怨嗟の声が河原へと響き、そこかしこから青白い光が浮かび上がる。人魂に見えるそれが徐々に形を大きくし、何者かが明確になるにつれて村の者は恐怖の声を上げた。

 それは首であった。男も女も、若者も老人もいる。だが総じて髪は乱れに乱れ、額や頬、鼻は爛れて不気味に盛り上がったり崩れている。目は白く濁り、半開きの口からは怨嗟が漏れている。


「伊助!」


 雪隆の声と強く抱きしめてくれる腕に抱かれ、伊助はハッと我に返り現状を見た。そして恐怖に震え小さくなってしまう。

 一方村人は浮かび上がった首から逃げるように村の方へと駆けていく。それを追った首達は凄まじい速さだ。


 急に辺りは誰もいなくなった。破壊された祠の前で伊助と雪隆は呆然とし、だが漠然と助かった事は理解している。少し呆けた後で、二人は逃げようと山道に続く道へと駆ける。邪魔をするように石が積まれていたが、登れない事はない。


「先の俺が登って引き上げる」

「はい」


 身の軽い雪隆は長身もあり石壁を登り、上から手を差し伸べてくれる。それに伊助は掴まり、落ちないように慎重に登っていく。あともう少しで上に手が掛かる。そう思った時だ。

 グッと下から伊助を引く力が加わり、伊助はそちらを見て目を丸くすると同時に激しく抵抗した。


「逃がさないわ、伊助!」


 鬼のような形相のチサが伊助の足を捕まえて引きずり下ろそうとする。上からは雪隆が伊助の手と服を掴んでどうにか引き上げようとしてくれている。伊助も彼女の手を振り払おうと足をバタつかせているが、とても女性とは思えない力だ引っ張られるのだ。

 体が沈む。嫌だ、こんな! せっかく逃げられると思ったのに!


 天に祈るような思いで必死に、がむしゃらに助けてと願う。ここでは死ねないと泣きながら乞う。

 すると突如、背後で「ぎゃぁぁ!」という断末魔が上がり伊助を引く力が消えた。その隙にと雪隆が一気に石壁の上まで伊助を引き上げ……下を見て眉根を寄せた。


 チサの首に、首だけの誰かがかじり付いていた。悔しげに涙を流し、食いついた首の肉を毟り取るようにしていく。それは深くチサの首を抉り取った。


「あ……」


 恐ろしい光景だ。でも、伊助にとってこの首だけの人々は恩人でもある。彼らがいなければ逃れる事は出来なかったのだから。


「……いこう」


 雪隆の声に促され、数日前は下った道を一気に上る。そうして目指していた山向こうへと駆け出した。

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