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第3話

普段、何でも自分の言うことを聞いてくれる誠司が、なぜか今回だけは紗英のおねだりを無視し、冷徹な表情で水の中に押し込んでくる。


その姿に、紗英は不意に怒りが込み上げてきた。

あんなに必死に頼んだのに、誠司はまったく態度を変えずにいた。


それどころか、キスをしようと、さらに一夜を共にしようと迫ったときでさえ、彼はまったく動じなかった。冷たく、無表情で、紗英が見たかった彼の顔とはまったく違う。彼女は心の中で、何度も自分に問いかけた。


薬のせいで愚かな行動を取ってしまった自分を恥じるべきなのか。

それとも、これほど自分を拒絶し、まるで女性として見ていない誠司に怒るべきなのか、紗英には分からなかった。


自分は可愛くないの?

スタイルが悪いの?

自分を求める男は星の数ほどいるのに、どうして誠司の前ではこんなにも無力なの?


瑛士は人妻のために自分を置いて行った。

そして誠司は、目の前にいる自分を、まるで何も感じていないかのように無視している。


「今夜のこと、絶対に誰にも言わないでね」


紗英は小さく息をつき、少しだけ落ち込んだ気持ちで誠司に命令を下した。彼がどんな反応をするか、心の中で想像しながら、その答えを恐れていた。


「分かりました、ご安心ください、お嬢様」


誠司の穏やかな声が返ってきたことで、紗英はほんの少しだけ安心した。


彼の言葉が、どこか優しさを感じさせ、気持ちが少し落ち着いたように思えた。


しばらくの間、静かな時間が流れ、誠司は手に取ったドライヤーで、濡れた髪を優しく乾かし始めた。


ドライヤーの音が心地よく響く中、紗英はふと不思議な感情に包まれた。なぜか今夜、自分のボディーガードがこんなにもかっこよく見えるだろう。


もしかしたら、薬のせいで頭がおかしくなったのかもしれない。でも、どうしても振り返りたくなった。その瞬間、視界がぼんやりと暗くなり、意識が遠のいていく。


「お嬢様……」


誠司の声が遠くから響くようだったが、紗英はその声が聞こえる間もなく、意識を完全に失ってしまう。


最後に感じたのは、力強い腕に包まれる温もりだった。まるで子猫を優しく抱き上げるように、誠司は軽々と紗英を抱きかかえ、静かにそのまま浴室シャワールームか出て行った。


彼はこんな風に、自分をこんなにも軽く抱き上げることができるのか。その思いが紗英の意識の中で最後に消え、暗闇に包まれていった。



紗英は40度の高熱で意識がぼんやりしていた。目を開ける前、夕陽が差し込む部屋の中で、彼女の視界に高い人の影が映る。それは、無意識に自分のボディガードだと思い込んでしまった。


「誠司、喉、乾いた……」


紗英が目を覚まし、無意識にその名前を口にした瞬間、瑛士は何かを思い出した。病室に駆けつけた時、あの男はいつも通り冷静に「如月さん」と自分を呼んだが、少し遠く、どこか冷たく感じたこと。瑛士は一瞬、その記憶にとらわれながらも、水を手に取った。


紗英はゆっくりと体を起こし、手を伸ばして水を受け取ろうとした。その瞬間、彼女の視界がはっきりと定まり、目の前にいるのが誠司ではなく、昨晩、自分を置いて元カノを追いかけて行った瑛士であることに気づいた。


その瞬間、紗英は水を受け取ろうとする手を止め、ただ彼を見つめていた。言葉が出なかった。ただ、彼の目をじっと見つめた。


瑛士はそのまま水を持ち、紗英の視線を避けるように目を伏せ、頭を下げた。彼の姿勢や表情には、何かを伝えたくても伝えきれない、ただその場にいることに苦しんでいるような空気が漂っていた。


紗英はその静かなやりとりの中で、自分の気持ちがどう変わっているのか、何を考えるべきなのかを見失っていた。彼を見つめている自分の心の中に、何かがざわめいていた。


「紗英、昨晩はすまなかった」


「もし昨夜、別の男とやったらどうする?」


紗英の問いに、瑛士はわずかに息を飲んだ。無言で手を動かし、指を少し強く握りながら、その可能性を完全に否定するように言った。


「君のボディガードがずっと君を見守っているから、こんなことは起こらないと思う」


その言葉に紗英は少しだけ冷ややかな目を向けた。


「もし起きたらどうする?」


「彼はそんなミスを起こさない」


紗英はしばらく窓の外を見つめながら、心の中でその言葉が響くのを感じていた。まるで何かが絡まっているようで、解けない思いに苛まれた。


「紗英、まず水を飲もう」


瑛士の声が、静かな病室の空気を優しく包んだ。紗英はようやく水を受け取ると、一気に飲み干した。何年も片思いを続けてきた彼。今、目の前にいる彼がこんなにも遠く感じるのはなぜだろう?


「元カノの結婚生活がうまくいかなかったらどうするの?もしかして、私との婚約を解消して、彼女と結婚するつもり?」


紗英が問いを投げかけると、瑛士はほんの少し眉をひそめ、言葉を返さなかった。


「四年前、如月家は君と愛乃さんの婚約を強引に阻止した。今になって、彼女は他人の妻になり、もし婚約を解除して彼女と結婚したいなら……恐らくあなたの母は泣くでしょう」


紗英の言葉に瑛士は一切反応せず、ただ沈黙が続いた。時間が重く流れ、二人は次にどう言うべきか、何を考えるべきか分からなかった。


「婚約は解消しない。僕は君と結婚する。彼女のことは……結婚する前に解決するから」


瑛士の言葉は力強く響いたが、表情からは何も読み取れなかった。その無表情が、紗英の胸に痛みを与えた。まるでナイフで突き刺されたような痛みが、心の中で広がった。


けれども、紗英はその痛みを隠すよう、無理に完璧な笑顔を作りながら「分かった、信じている」と答え。紗英は布団をめくって起き上がった。


「お腹が空いた、昨日のお詫びとして、ご飯をおごって。」


「まだ熱があるからやめよう。何が食べたい? シェフに作らせてあげるから」


瑛士は紗英の肩を押さえ、外で食べるのを拒否した。


「もう良くなったわ。病床に横たわって退屈過ぎるよ」


紗英はしっかりと瑛士の目を見返して言った。


「本当に良くなったの?」


瑛士の声にはまだ心配が残っている。紗英はその心配をしっかり受け止めるように強く頷いた。


「なら食事に行こう」


紗英は着替えを済ませた後、誠司に電話をかけた。


「瑛士と一緒に食事に行く。退院手続きをしておいて、食べ終わった後迎えなくてもいい、瑛士が家まで送ってくれるから」


「分かりました」


誠司の声が少し気になるけど、彼女はその言葉にうなずいき、準備を整えた。




紗英はVネックのニットに白いコートを羽織り、長い巻き髪を腰まで下ろしていた。手には高級ブランドの限定版バッグを持ち、可愛らしくも上品なコーディネートで病院の外に出る準備を整えた。


病室の扉が開かれると、紗英は思わず足を止めた。紗英は少し驚き、顔に浮かんでいた笑顔がすぐに消えた。


そこに立っていたのは、瑛士の元恋人――糸瀬愛乃だった。


彼女は患者衣を着て、顔に青いアザを負い、弱々しく不安そうに立っていた。愛乃が瑛士を見たとき、明らかに一瞬立ち止まった。


「糸瀬さん……」


紗英は愛乃に声をかけたが、その声にはわずかな緊張が滲んでいた。


「西園寺さん、申し訳ありません。私……瑛士からあなたが熱で入院したと聞いて、近くにいたので、様子を見に来たんです」


愛乃は、紗英の呼びかけに気を取り戻し、涙を浮かべながら昨日のことを謝罪した。沈黙が続く中、愛乃は何かを思い出したように一歩後ろに下がった。


「二人はお出かけですか? それならお邪魔しませんように……」


愛乃は慌ててその場を去ろうとした。紗英はその背中に向かって、再び一度声をかけた。


「糸瀬さん」


紗英は再び彼女を呼び止めた。


「西園寺さん、まだ何かご用ですか?」


愛乃は足を止め、作り笑顔で振り返る。


「紗英!もうお腹が空いたでしょう、今食事に行こう」


瑛士は紗英の腕を強く掴み、その力加減が痛みを感じさせるほどだった。瑛士の手を見て、紗英の胸が締め付けられた。


まさか自分が愛乃を困らせるつもりだと思っているのだろうか?


「瑛士から聞いたけど、あなたの旦那さんは家庭内暴力を振るう傾向があるみたいだね? 私の記憶が正しければ、アメリカでは家庭内暴力は警察に通報できますよね」

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