腕にかかる力が急に強くなり、紗英は思わず声を上げそうになった。
「西園寺紗英、どういうつもりだ?」
瑛士は冷たく、しかし力強く尋ねた。
紗英は目を閉じ、痛みに耐えながらも、顔を仰け反らせて、無邪気で少し不安そうな目で彼を見つめた。
「私は糸瀬さんに、もし彼女の旦那さんがまた暴力をふるったら、警察に通報するようにと伝えているでけ。それでも、こんなことを続けてほしいの?」
瑛士は眉をひそめ、彼女をじっと見つめた。その目には、言葉では表せない複雑な感情が浮かんでいた。
「西園寺さんの言う通りです、私が無力なんです……彼が父の治療費を援助してくれたから、どうしても警察を呼んで彼を捕まえることができませんでした」
愛乃は手を再び絡ませ、目を伏せた。
「なら、どうするつもり?ずっと耐え続けて、暴力を受け続けるつもりなの?」
紗英は冷静に彼女を見つめた。
「私は……」
愛乃は顔を上げ、、瑛士をちらりと見てから、苦しげに微笑んだ。
「近頃、帰国するつもりで、離婚も考えています」
紗英はその言葉に、何か暗示的なものを感じ取ったような気がした。まるで、瑛士のために糸瀬が離婚を考え、帰国する決心をしたかのような……
「もし糸瀬さんが離婚を考えているなら、弁護士を紹介できます。東京には多くの信頼できる弁護士がいて、きっと大きなサポートになると思います」
紗英は淡い微笑みを浮かべながら言った。
「ありがとうございます、西園寺さん」
紗英は瑛士と一緒にここを離れ、愛乃はその場に動かず立ち尽くし、二人が去っていくのを見送りながら、悲しみに満ちた寂しい表情を浮かべていた。いつの間にか、涙が頬を静かに伝っていた。
瑛士は紗英をフランス料理店に連れて行った。
彼女は人気女優だから、瑛士はわざわざ目立たない静かな場所を選んだ。
注文を済ませた紗英は、メニューをウェイターに渡し、頬に手を当てて、少し恥ずかしそうに瑛士を見つめた。
「そんなに見つめてどうしたの?」
瑛士はその視線に気づくと、柔らかく微笑みながら尋ねた。
「だって、好きだから」
紗英は明るく、無邪気な笑顔を浮かべながら答えた。彼女はまだ二十歳、その笑顔にはどこか純粋な輝きがあって、まるで世界がその笑顔に照らされているかのように。
政略結婚……瑛士が紗英を選んだのは彼女の家柄と自分への気持ちもあるけれど、最も大きな理由は、ただ一緒にいることがとても心地よかったからだ。
だが、心の奥でふと浮かんだのは、愛乃の顔だった。まるで枯れ果てたように色褪せて見えるその表情が、瑛士の胸に重くのしかかった。
かつて彼の記憶の中で、愛乃の笑顔は温かく輝いていた。まるで紗英のように無邪気で、純粋な笑顔を浮かべていた。あの笑顔は、まさに彼にとっての光そのものであり、何もかもが輝いて見えた。
しかし今、その可愛らしい笑顔は、まるで儚い過去に取り残されたかのように、瑛士の心の中で遠ざかっていく。
愛乃のその姿が、もう一度あのように戻ることはないと、瑛士は痛感していた。
紗英は瑛士が自分を見つめているのを感じ取ったが、彼の視線はどこか遠くを見つめているようだった。女性は本能的にその違和感を感じるものだ。
この瞬間、紗英は気づいてしまった。瑛士が確かに自分を見つめていても、その心はもう自分に向かっていないことに。
「瑛士、私の友達があなたに会いたがっているの。今夜、時間があったら一緒に来ない?」
紗英は軽くワイングラスを手に取り、目を閉じながらゆっくりとその芳醇な味わいを楽しんだ。ワインが口の中で広がる感覚を感じながら、グラスを置き、彼に向かって明るい笑顔を浮かべた。
「また今度にしよう。今夜はもう約束があるから」
紗英の期待に満ちた顔が、一瞬で落ち込んでしまった。彼女の心の中で、何かが音を立てて崩れ落ちたような感覚が広がった。
瑛士はその変化に気づき、眉を少しひそめて彼女を見つめたが、それ以上の言葉は口にしなかった。言いたいことがあったのかもしれないが、言葉は出てこなかった。
食事を終えた後、瑛士は車を取りに行き、紗英は外で待っていた。ふと、カバンの中からスマホの音が聴こえた。
「紗英ちゃん、みんなバーにいるから、早く来て~」
それは東京有名な会員制バーで、彼女たちがよく集まる場所であり。
「楽しいことでもあるの?」
紗英は少しだるそうに友達に言った。
「遊ぶんだよ。最近、どうして出かけないの?まさか、もうすっかり良い奥さんの役をしてるの?」
「だって、ようやくイケメンを手に入れたから、あなたたちと遊んでる暇なんてないの」
「うっそー!もう完全に良い奥さんしてる感じ?」
友達の声がからかうように響く。紗英はその言葉に、赤い唇をゆっくりと持ち上げて微笑んだ。
「ふふ、そんな感じかな。でも、あなたたちに会うのも悪くないわね」
少し笑いながら、指で髪をくるくると巻く。
「本当?じゃあ来てくれるんでしょ?」
友達は嬉しそうに聞いてきた。
「そんなに私に会いたいのなら、仕方ないわね。そっちに行くよ」
紗英は少しだけ意地悪く笑った。電話の向こう側から、友達の喜ぶ声が聞こえてきた。
電話が切れると、紗英はスマホをバッグに戻し、顔を上げた。目の前には瑛士の車が停まっており、彼女は足早に歩きながらその車に近づいた。だが、助手席ではなく運転席の窓をノックした。
黒いガラスがゆっくりと下がると、瑛士の穏やかな顔が現れた。
「友達に呼ばれているから、タクシーで行くわ」
紗英は軽く言った。
「どこに行くの?」
瑛士は少し驚いた様子で問いかける。
「グランドクラン」
「乗って、送って行く」
瑛士はすぐに答え、優しく微笑んだ。
「じゃあ、お願いね」
紗英はためらうことなく、ニヤリと笑いながら車を回って助手席のドアを開け、腰をかがめて車内に滑り込んだ。
車が十字路の信号待ちで停まると、瑛士のスマホが突然鳴り始めた。
「どうしたの?」
「如月様……糸瀬さんの夫と名乗る男が、糸瀬さんのいる病院で大騒ぎして、無理やり彼女を連れ出そうとしているんです」
電話の向こうから、焦りと困惑が入り混じった声が伝わってきた。
「警備員に追い出させろ。病室に近づけさせるな」
瑛士は指示を出し、眉をひそめながらスマホを握り締めた。その目には、怒りの火花が見え隠れしていた。
「でも……その男、もし警備員に追い払われたら、この件を報道に持ち込むと言っているんです……」
「何を?」
如月瑛士の声は、明らかに不快感が漂っていた。
「西園寺さんの婚約者が、人妻と不倫しているって、そんな内容を……」
その一言が瑛士の心に冷水を浴びせた。
無意識のうちに、瑛士は助手席に座る紗英をちらりと見た。彼女は気づかれないように視線を外し、窓の外をじっと見つめていた。
紗英は人気急上昇中の女優であり、その存在そのものが、今や多くの人々の注目を集めている。ましてや、彼女の婚約者が他の女性と親しい関係をしいると報じられれば……
愛乃は無視できないほどの非難を浴びることになるだろう
愛乃。彼女は今どんな顔をしているのだろうか?瑛士がどんなに心配しても、この事実が彼女にどう影響するのか、想像するだけで胸が痛んだ。
「分かった、今すぐ向かう」
瑛士は短く言った。その声は、もう迷いを見せなかった。
紗英はその言葉を静かに聞き、何も言わずに顔を上げた。すぐに、彼が糸瀬のことを話しているのだと察した。
瑛士は電話を切ると、スマホを遠くに置いた。
「ごめん、急用ができた。自分でタクシーで行ってくれ」
瑛士は短く告げ、声を抑えながら紗英に目を向けた。彼の表情は一瞬、硬く引き締まり、そのまま視線を外すことなく続けた。
しばらく沈黙が流れた後、紗英はゆっくりと彼を見つめ、ふっと微笑みながら質問を投げかけた。
「これからも、彼女に何かがあったら、昨日と今日のように、私を置いていくの?」
紗英の目は、瑛士の反応をじっと待つように、何も言わずに彼の顔を見つめていた。
瑛士は少し黙った後、深く息を吸ってから、冷静な声で答えた。
「病室で言った。結婚式前に、この件をきちんと片付けるって」
その言葉には、決意とともに責任感を感じた。だが、その後、少しだけ口調が変わり、さらに淡々と続けた。
「でも、西園寺、君も忘れてないでほしい。僕が君との結婚を受けた時、何と言ったかを」
瑛士がやっと結婚を受けたあの時、何を言ったのか……
紗英は車の流れを見つめながら、立ち尽くしていた。
心の中で、彼の言葉が何度も繰り返し。それと同時に、無意識のうちに手に持っていたバッグを強く握りしめていた。まるでその一瞬、全てをを抱え込むように。