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第6話

誠司の姿が、周囲の空気を一変させていた。彼の外見、体格、さらにはその圧倒的なオーラ――どれもが、ただのボディーガードに見えるものではなかった。


目の前で威勢よく立ちふさがる派手な男たちとは対照的に、誠司はまるで上位の者としてその場を支配するように、冷徹な眼差しで睥睨している。彼が見せるのは、無駄な感情を一切排除した冷ややかな態度。微かな笑みの中には、明らかに嘲笑が隠れているように感じられた。


その冷静さに、紗英は一瞬、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。長い間一緒にいたはずの誠司なのに、今、何かが違っている。その不思議な感覚に、思わず心臓が少しだけドキドキした。


誠司の横顔を見つめる彼女の目の前で、激怒した一人の青年が拳を握りしめ、誠司に向かって一歩踏み出した。だが、その動きはすぐに隣の人物に引き止められた。低い声で交わされる会話が、紗英の耳にしっかりと届いた。


「無駄に挑発しない方がいい。こいつと争っても、得るものはない」


「この男、元軍人で、裏社会にもいたらしい。聞いた話だと、ひとりで数十人を倒すことができるらしいぞ」


「行こう。こんな奴と争っても、格が落ちるだけだ」


その会話を聞いて、紗英は一瞬その男たちの意図を理解した。


「西園寺、ましお前俺の手に落ちたら痛い目を合わせてやる」


骨を折られた男は、顔を歪めながら紗英に向かって吐き捨てた。その言葉に、紗英の目は冷たく細められた。


誠司の存在に気を取られ、少しでも隙を見せれば、あの一行は恐らくまた暴れだすだろう。しかし、彼女はまったく動じることなく、その言葉を受け流した。


「たとえそうなったとしても、君は結局、女にしか手を出せない臆病者だ」


誠司の無言の威圧感が、その場の空気をさらに重くし、ついにはその一行は、言葉を発することなく背を向け、去って行った。



彼らが去った後、紗英はふと自分の手首に絡みつく誠司の指に視線を落とした。


その指の感触が、まだどこか温かく残っているような気がしたが、言おうとしたその瞬間、誠司は静かに手を放し一歩引いた。


「失礼しました、お嬢様」


低く、淡々とした声。紗英は驚いたように後ろに二歩下がり、彼と少し距離を取った。その距離感は、まるで彼と自分の間に何かしらの障壁ができたかのように感じられた。


未希にコートを渡したため、今、彼女の体に残っているのは薄手の服だけだった。


誠司の高くて立派な姿勢が、彼女の華奢な体をさらに引き立て、まるで小さな人形のように見せる。


「どうしてここにいるの?まさか、私をつけてきたの?」


彼女の心が乱れ、思考がぐるぐると回る中、目の前の誠司が静かにその存在を放っていることに気づく。


彼の冷徹で無表情な顔が、ただのボディガードとしての立場にとどまらない気がして、胸の中で不安が広がる。


(どうしてこんなに早く来たの?)


昨日、誠司に迎えに来てほしいと言った自分が、なぜか今、彼の姿を見て少し戸惑っている。


彼が心配して来てくれたのだろうか? それとも……? 紗英の中で次第に膨らんでいった疑念が、次第に一つの確信に変わる。誠司は、もしかして自分のことを……好きなのだろうか?


よく考えてみると、誠司は西園寺家に来てからもう十年。彼が家に仕えている時間も長い。そして、彼女のそばにいるのも二、三年になったが、これまで一度も、彼が他の女性と親しくしているところを見たことがない。


あえて言うなら、彼は常に彼女の傍にいた。彼女のためだけに存在しているかのように、他の誰かに目を向けることなく。


(まさか、私のことを……)


その思いが頭をよぎった瞬間、紗英の心臓が一拍早く鼓動した。その瞬間の違和感に、彼女はすぐに顔を伏せ、冷静を保とうとする。しかし、頭の中はすでにその可能性に囚われていた。


彼の冷たい目、決して揺れないその目。けれども、紗英はそれを見ているうちに、どこか違う感情が隠されているのではないかと感じてしまう。


もし本当に誠司が自分のことを好きだとしたら、どうすればいいのか?


彼の家柄を気にしないと言っても、瑛士の存在がある今、どう振る舞えばいいのか分からない。


それとも、このまま無視して、彼を辞めさせ、気持ちを断ち切らせるべきなのか?


でも、誠司には小さい時から決められた婚約者がいるとも聞いたことがある……


「用事があって来ただけ。ちょうどお嬢様を見かけたです」


誠司はほんの少し目を伏せながら、事務的な口調でそう言った。その言葉に紗英は一瞬驚き、思わず冷静を装って「へぇ」と反応した。しかしその瞬間、心の中では嵐のような感情が巻き起こった。自分があまりにも勝手に勘違いしていたことに気づき、顔が熱くなった。


「自分の用事を済ませます。お嬢様はご友人とお会いして、終わったらお電話ください。迎えに行きます」


礼儀正しい言葉遣いに、紗英は少しだけ心を落ち着ける。誠司が自分を気にかけてくれているのか、それともただの用事で訪れたのか、彼の真意はわからない。それでも、彼女は思わず頷きそうになった。その時、急に寒さが襲ってきた。未希にコートを渡したため、体が冷えていったのだ。


「誠司、少し寒いわ」


紗英は自分の肩を抱きしめた。薄手のセーターだけでは、秋の風に冷えた体を守りきれない。


「温度を上げてもらうように頼みます」


誠司は紗英のセーターをちらっと見て、しばらく黙って考えていた。


「……」

「みんなが熱くなったらどうするの?」


「誰かに服を届けさせます」


誠司は額にしわを寄せた。その言葉に紗英は、つい笑ってしまう。まるで彼の考えが、常にどこか先を見越しているかのようで、少し冷たいがそれが誠司らしい。


「でも、今すぐにでも寒いの」


誠司がふと視線を上げたとき、紗英が自分を見つめていることに気づいた。その瞬間、彼の表情が少しだけ変わり、視線を外した。そして、ゆっくりと手を上げ、黒い薄手のコートを脱いで、彼女に渡した。


「……ありがとう」


紗英は少し戸惑いながらも、コートを受け取った。顔を上げると、誠司の顎のラインが目に入る。彼の冷たい目線は、まるで何もかも見透かしているようで、少しだけ息が詰まりそうだった。


その近さに、紗英は一瞬、脈が速くなるのを感じた。気づけば、視線を逸らしてしまっていた。


「あなたのコートを着させてもらったから、自分は寒くない?」


「僕は大丈夫です」


誠司の声はいつものように低く響いた。


「うん、もし寒いなら、近くで買ってきたら?」


何気なくそう言ったものの、誠司は無言のままだった。紗英は少しだけ拍子抜けしながらも、彼の反応を待ったが、彼は何も言わず、ただその場に立っていた。


「では、先に行きます」


コートをきちんと着せ終わった後、誠司は静かに一歩下がり、背を向けて立ち去った。彼の背中は、どこか孤独で冷たく、紗英はその姿を見送りながら、軽く唇を尖らせた。彼がどれだけ長く自分のそばにいても、まるで距離を感じてしまう。この冷たさが、どうしても心に響いてしまう。


紗英は目を下ろし、コートの香りを嗅いだ。そこにはとても清潔で男らしい香りが漂っていた。懐かしいような、どこか安心するような香り。それがいつの間にか、この男のものだと覚えていたのだろうか。


その香りに包まれながら、紗英は再び誠司の背中を見つめ、ただ一人、静かな時間が流れていくのを感じていた。




部屋の扉がゆっくりと開かれ、紗英がその姿を現した。サングラスを片手で弄りながら、ドア枠に寄りかかるようにして歩を進め、まるで舞台の上に登場したかのように姿勢を見せた。


「西園寺参上!」


部屋の中には八人が集まっていて、その視線が一斉に紗英に集まった。


「紗英が来た!」


「西園寺お嬢様は恋愛してからは、呼んでもなかなか来ないんよね」


「あら、紗英ちゃん、今日はまた新しいスタイル?その服、大きすぎるんじゃない?それとも今の流行り?」


「これは男の服じゃないか、紗英、まさか瑛士の服を着て、私たちに見せたわけではないようね?」


紗英は部屋に踏み入れながらドアを閉めた。彼女は軽やかに椅子に腰を下ろし、手に取ったグラスを仰け反って一気に飲み干した。


「さっき下で、クズたちが女性をいじめて酒をかけてたから、可哀想に思ってその子に服を貸してあげた。これ、私のボディーガードのものだから、我慢して着ている」


空になったグラスをテーブルに戻し、ゆっくりと一息ついてから彼女たちに説明した。


「西園寺さん」


その時、柔らかい女性の声が聞こえた。


「うん?」


紗英は顔を上げ、その声の主に目を向けた。話しかけてきたのは、彼女と同じくらいの年齢の女の子で、彼女の友人の友人らしい。


見た目はおとなしくて、どこか優しげな雰囲気が漂っていた。名前は確か、夕菜だったと思う。


「あなたの言っていたボディーガード……名前は九条誠司ですか?」


夕菜は照れくさそうに紗英を見つめ、頬をほんのり赤らめながら問いかけた。


「そうだよ、知っていたんだ」


紗英は眉を上げ、少し驚いた様子で答えた。彼女がこの話をすでに知っているとは思わなかったからだ。


「見たことがあるんです」


夕菜は少し躊躇いながら、言葉を続けた。


「あの……彼に彼女はいますか?」

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