昔、紗英は誠司が多くの女性に好かれていることを知っていた。その姿は、まるで彼の周囲の空気を支配しているかのようだった。業界でも名の知れた女優たちが、彼にアプローチするのを目撃したことがある。
特に印象的だったのは、誠司に対して愛を示した一人の女優。彼女はまるで白馬の王子様を待ちわびる乙女のように、誠司に近づいていった。
当然、誠司はその場で冷静に、何事もなかったかのようにきっぱりと断った。
その女優は、金持ちの大物女優で、数多くの社長がひそかに彼女を追い求める存在でもあった。
しかし誠司はその前で一切の感情を見せず、冷徹さと無欲な雰囲気を貫き通していた。
彼が女性たちに見せるその「優雅さ」は、まるで一枚の絵のようで、近寄りがたい、謎めいた魅力を放っていた。
そして、夕菜の外見と家柄は、今の紗英や昔の未希には及ばないものの、やはりお金持ちのお嬢様で、彼女を追いかける男性は次々と現れる。
「誠司が好きなの?」
紗英は夕菜に微笑みながら尋ねた。
「彼は……もう覚えてないかもしれませんが、一度私を助けてくれました」
夕菜は少し恥ずかしそうに、誠司と出会った話をしてくれたら。
「誠司は私のボディガードだけど、プライベートには一切干渉しないから、彼に彼女がいるかどうかも知らないわ」
「でも、父から聞いたことがあるの。彼、子どもの頃からできた婚約者がいるみたい。詳しくは知らないけど」
その言葉に、紗英の心はふと何かが引っかかるような気がした。
誠司が婚約者? それが本当なら、彼の冷徹さには何か裏があるのかもしれない。けれど、彼が自分のボディーガードでいつも近くにいるのに、紗英は誠司のことをあまりにも知らないことに、逆に不思議な感じがした。
「西園寺さん、彼の電話番号を教えてくれませんか?」
夕菜が希望を込めて、少し猶予しながら尋ねた。
紗英は少し黙って考え込む。肩に手を添え、視線を下げると、少しの間言葉を発しなかった。やがて、彼女は紙を取り出し、誠司の電話番号を書きつけて、夕菜に静かに渡した。
その後、紗英は気分がすぐれなかった。愛乃が現れたことで、心の中にモヤモヤしたものが湧き上がっていた。それを顔に出さないようにしていたが、どうにも気持ちが落ち着かなかった。誰かと話す気にもならず、近くにいた人たちとゲームをする気力も湧かなかった。
ひとり、隅っこに座って、ぼんやりと酒を飲んでいた。
それを見た親友の美玖は、少し離れた場所から紗英の様子を見守っていたけど、不機嫌な彼女のところへと歩み寄り、そっと隣に座った。
「ねぇ、どうしたの?なんだか元気がないみたいだよ」
美玖は心配そうに、優しく声をかけた。
紗英は目を逸らして、少しだけ苦笑いを浮かべた。
「そんなことないよ。結婚するんだから。四年間追いかけた瑛士が、もうすぐ完全に私のものになるんだよ」
紗英は美玖の目を見つめた後、ふと彼女を抱きしめ、頭を彼女の肩に預けた。耳元で、甘えるような小さな声で囁いた。その声には、いつもの明るさと違う、どこか隠しきれない感情が滲み出ていた。
「え? 誰かさんが言ってたよね、女性が本当に幸せなときって、お酒なんて飲まないって。お酒を飲むってことは、結局悲しいからだと」
美玖は少し考え込み、そしてふっと微笑んで言った。
紗英はその言葉を聞くと、少し恥ずかしいながら顔を上げた。
「これはでたらめよ」
「瑛士と喧嘩でもしたの?」
「違うわ」
紗英は小さく首を振り、鼻で笑いながら答えた。その笑みの裏には、どこか無理しているような気配があった。実際、昨晩は誠司に冷水に浸けられて一晩中過ごし、その後点滴を受けてようやく回復したものの、風邪の症状が完全に治るわけではなかった。
普段、紗英は興が乗ると人一倍盛り上がるタイプだが、興がないときはひとり静かに座っていることが多い。そのため、周囲の人々は無理に彼女を引き留めることはなかった。
「少しお酒は控えて、早く寝るのよ」
美玖の言葉に、紗英は何も言わず、ただゆっくりと頷いた。彼女の髪を撫でながら、美玖は軽くため息をつくと、そっと手を引いた。
紗英は半瓶の赤ワインを飲み終えると、ソファの肘掛けに身を横たえ、目を閉じた。周囲は賑やかに笑い声が響いているが、彼女の心の中はまるで静寂に包まれているかのようだった。
寂しさを感じるとき、人は無音の場所に逃げ込むこともあれば、逆に喧騒の中に身を隠して安心感を得ることもある。しかし、今の紗英はどちらも選ぶことができなかった。家に帰れば一人ぼっちになる。
少しお酒を飲んで、少し寝た紗英は、目を覚ますと腕時計をちらりと見て、軽くあくびをしながら時間を確認した。すでに9時を過ぎている。
かばんからスマホを取り出し、誠司に電話をかけた。初めての電話は無視された。
紗英は眉をひそめ、まるで毛虫のように不満げに顔をしかめた。彼が電話に出ないなんて、一緒にいる時間が長いのに、こんなことは初めてだ。
もう一度かけ直してみると、今回はすぐに電話が繋がった。
「お嬢様」
電話の向こうからは、相変わらず低く落ち着いた声が響いた。紗英は一瞬呆然とした。もしかして錯覚かもしれないが、彼の声にはいつもと違う冷たさ、冷徹さが含まれているように感じた。
「少し具合が悪いから、早めに帰って休みたいの。迎えに来てくれない?」
気にしないようにして、彼女は淡々と言った。
「今、こちらの用事が終わっていません。代わりに誰かを送らせますので、いかがでしょうか?」
しばらくの沈黙の後、誠司が答えた。
「大丈夫。瑛士に電話して、迎えに来てもらうことにする」
紗英は一瞬、何も気にせずに承諾しそうになったが、ふと何かを思い出して言い換えた。
「申し訳ありません、お嬢様。明日の朝、迎えに行きます」
紗英は女優でありながら、まだ演技の勉強をしている学生。映画の仕事がないときは、学校に通っている。瑛士との結婚式の準備のため、半年ぐらいの予定を空けていた。
「分かった」
電話を切った後、紗英はすぐに瑛士にかけ直した。
「紗英、どうした?」
何度も鳴る音が響いた後、やっと彼の声が出てきた。明らかに疲れているような声だった。
「グランドクランにいるんだけど、誠司が急な用事で迎えに来れないの。瑛士、迎えに来てくれる?」
「分かった。30分後に着くよ」
しばらく沈黙した後、瑛士が答えた。
紗英はにっこりと微笑み、「ありがとう、待ってるね」と言って電話を切った。
時間を確認した後、スマホでゲームを開き、遊び始めた。試合が終わるごとに、無意識に顔がほころんだ。
二試合目終了後、紗英はゆっくりと立ち上がり、長い髪を指で梳きながら、だらしなく笑った。
「この2日間、風邪が治りきってないから、今日は早く帰って寝る」
以前もたまに早めに帰ることがあったので、誰も不思議に思わなかった。
「ねえ、紗英ちゃん、帰りは私が誰かを見つけて送らせてあげようか?」
美玖は心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫、瑛士が迎えに来るから」
紗英は微笑みながら答えた。
「彼氏に会いたいなら、素直に言えばいいのに」
カードゲームをしている友人は冗談で言った。
「また今度集まろう」
紗英は何も説明せず、ただ軽く笑った。
少しお酒を飲んだせいで、風邪のせいもあってか、ふわふわとした感覚に包まれながら歩くと、まるで夢の中にいるような気分だった。
バーを出ると、冷たい風が吹き抜け、一瞬だけ冷気が肌に触れ、意識が少しだけはっきりしてきた。
大きなコートをぐっと抱きしめ、目を閉じると、ふとその冷たい風の中に、彼――誠司の匂いが微かに感じられた。
長い間、彼が常に近くにいるのが当たり前のようになっていたせいか、その匂いが今はむしろ懐かしく、安心感を与えてくれた。
誠司がいないのがなんだか不自然で、少しだけ違和感を感じながら歩き続けた。
その時、遠くから車のライトが見え、紗英は顔を上げると、シルバーグレーのランボルギーニがこちらに向かってきているのが見えた。
あれは瑛士の車だ。紗英の心は跳ね上がり、足取りが軽くなり、急いでその車に向かって歩き出した。
「瑛士……」
紗英が助手席のドアを勢いよく開け、嬉しそうに瑛士の名前を呼ぼうとしたその瞬間、急に止まった。
運転席に座っていたのは、瑛士ではなく、別の男性だった。