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第7話

昔、紗英は誠司が多くの女性に好かれていることを知っていた。その姿は、まるで彼の周囲の空気を支配しているかのようだった。業界でも名の知れた女優たちが、彼にアプローチするのを目撃したことがある。


特に印象的だったのは、誠司に対して愛を示した一人の女優。彼女はまるで白馬の王子様を待ちわびる乙女のように、誠司に近づいていった。


当然、誠司はその場で冷静に、何事もなかったかのようにきっぱりと断った。


その女優は、金持ちの大物女優で、数多くの社長がひそかに彼女を追い求める存在でもあった。

しかし誠司はその前で一切の感情を見せず、冷徹さと無欲な雰囲気を貫き通していた。


彼が女性たちに見せるその「優雅さ」は、まるで一枚の絵のようで、近寄りがたい、謎めいた魅力を放っていた。


そして、夕菜の外見と家柄は、今の紗英や昔の未希には及ばないものの、やはりお金持ちのお嬢様で、彼女を追いかける男性は次々と現れる。


「誠司が好きなの?」


紗英は夕菜に微笑みながら尋ねた。


「彼は……もう覚えてないかもしれませんが、一度私を助けてくれました」


夕菜は少し恥ずかしそうに、誠司と出会った話をしてくれたら。


「誠司は私のボディガードだけど、プライベートには一切干渉しないから、彼に彼女がいるかどうかも知らないわ」


「でも、父から聞いたことがあるの。彼、子どもの頃からできた婚約者がいるみたい。詳しくは知らないけど」


その言葉に、紗英の心はふと何かが引っかかるような気がした。


誠司が婚約者? それが本当なら、彼の冷徹さには何か裏があるのかもしれない。けれど、彼が自分のボディーガードでいつも近くにいるのに、紗英は誠司のことをあまりにも知らないことに、逆に不思議な感じがした。


「西園寺さん、彼の電話番号を教えてくれませんか?」


夕菜が希望を込めて、少し猶予しながら尋ねた。


紗英は少し黙って考え込む。肩に手を添え、視線を下げると、少しの間言葉を発しなかった。やがて、彼女は紙を取り出し、誠司の電話番号を書きつけて、夕菜に静かに渡した。


その後、紗英は気分がすぐれなかった。愛乃が現れたことで、心の中にモヤモヤしたものが湧き上がっていた。それを顔に出さないようにしていたが、どうにも気持ちが落ち着かなかった。誰かと話す気にもならず、近くにいた人たちとゲームをする気力も湧かなかった。


ひとり、隅っこに座って、ぼんやりと酒を飲んでいた。




それを見た親友の美玖は、少し離れた場所から紗英の様子を見守っていたけど、不機嫌な彼女のところへと歩み寄り、そっと隣に座った。


「ねぇ、どうしたの?なんだか元気がないみたいだよ」


美玖は心配そうに、優しく声をかけた。

紗英は目を逸らして、少しだけ苦笑いを浮かべた。


「そんなことないよ。結婚するんだから。四年間追いかけた瑛士が、もうすぐ完全に私のものになるんだよ」


紗英は美玖の目を見つめた後、ふと彼女を抱きしめ、頭を彼女の肩に預けた。耳元で、甘えるような小さな声で囁いた。その声には、いつもの明るさと違う、どこか隠しきれない感情が滲み出ていた。


「え? 誰かさんが言ってたよね、女性が本当に幸せなときって、お酒なんて飲まないって。お酒を飲むってことは、結局悲しいからだと」


美玖は少し考え込み、そしてふっと微笑んで言った。

紗英はその言葉を聞くと、少し恥ずかしいながら顔を上げた。


「これはでたらめよ」


「瑛士と喧嘩でもしたの?」


「違うわ」


紗英は小さく首を振り、鼻で笑いながら答えた。その笑みの裏には、どこか無理しているような気配があった。実際、昨晩は誠司に冷水に浸けられて一晩中過ごし、その後点滴を受けてようやく回復したものの、風邪の症状が完全に治るわけではなかった。


普段、紗英は興が乗ると人一倍盛り上がるタイプだが、興がないときはひとり静かに座っていることが多い。そのため、周囲の人々は無理に彼女を引き留めることはなかった。


「少しお酒は控えて、早く寝るのよ」


美玖の言葉に、紗英は何も言わず、ただゆっくりと頷いた。彼女の髪を撫でながら、美玖は軽くため息をつくと、そっと手を引いた。


紗英は半瓶の赤ワインを飲み終えると、ソファの肘掛けに身を横たえ、目を閉じた。周囲は賑やかに笑い声が響いているが、彼女の心の中はまるで静寂に包まれているかのようだった。


寂しさを感じるとき、人は無音の場所に逃げ込むこともあれば、逆に喧騒の中に身を隠して安心感を得ることもある。しかし、今の紗英はどちらも選ぶことができなかった。家に帰れば一人ぼっちになる。




少しお酒を飲んで、少し寝た紗英は、目を覚ますと腕時計をちらりと見て、軽くあくびをしながら時間を確認した。すでに9時を過ぎている。


かばんからスマホを取り出し、誠司に電話をかけた。初めての電話は無視された。


紗英は眉をひそめ、まるで毛虫のように不満げに顔をしかめた。彼が電話に出ないなんて、一緒にいる時間が長いのに、こんなことは初めてだ。


もう一度かけ直してみると、今回はすぐに電話が繋がった。


「お嬢様」


電話の向こうからは、相変わらず低く落ち着いた声が響いた。紗英は一瞬呆然とした。もしかして錯覚かもしれないが、彼の声にはいつもと違う冷たさ、冷徹さが含まれているように感じた。


「少し具合が悪いから、早めに帰って休みたいの。迎えに来てくれない?」


気にしないようにして、彼女は淡々と言った。


「今、こちらの用事が終わっていません。代わりに誰かを送らせますので、いかがでしょうか?」


しばらくの沈黙の後、誠司が答えた。


「大丈夫。瑛士に電話して、迎えに来てもらうことにする」


紗英は一瞬、何も気にせずに承諾しそうになったが、ふと何かを思い出して言い換えた。


「申し訳ありません、お嬢様。明日の朝、迎えに行きます」


紗英は女優でありながら、まだ演技の勉強をしている学生。映画の仕事がないときは、学校に通っている。瑛士との結婚式の準備のため、半年ぐらいの予定を空けていた。


「分かった」


電話を切った後、紗英はすぐに瑛士にかけ直した。


「紗英、どうした?」


何度も鳴る音が響いた後、やっと彼の声が出てきた。明らかに疲れているような声だった。


「グランドクランにいるんだけど、誠司が急な用事で迎えに来れないの。瑛士、迎えに来てくれる?」


「分かった。30分後に着くよ」


しばらく沈黙した後、瑛士が答えた。


紗英はにっこりと微笑み、「ありがとう、待ってるね」と言って電話を切った。

時間を確認した後、スマホでゲームを開き、遊び始めた。試合が終わるごとに、無意識に顔がほころんだ。

二試合目終了後、紗英はゆっくりと立ち上がり、長い髪を指で梳きながら、だらしなく笑った。


「この2日間、風邪が治りきってないから、今日は早く帰って寝る」


以前もたまに早めに帰ることがあったので、誰も不思議に思わなかった。


「ねえ、紗英ちゃん、帰りは私が誰かを見つけて送らせてあげようか?」


美玖は心配そうに声をかけてきた。


「大丈夫、瑛士が迎えに来るから」


紗英は微笑みながら答えた。


「彼氏に会いたいなら、素直に言えばいいのに」


カードゲームをしている友人は冗談で言った。


「また今度集まろう」


紗英は何も説明せず、ただ軽く笑った。




少しお酒を飲んだせいで、風邪のせいもあってか、ふわふわとした感覚に包まれながら歩くと、まるで夢の中にいるような気分だった。


バーを出ると、冷たい風が吹き抜け、一瞬だけ冷気が肌に触れ、意識が少しだけはっきりしてきた。


大きなコートをぐっと抱きしめ、目を閉じると、ふとその冷たい風の中に、彼――誠司の匂いが微かに感じられた。


長い間、彼が常に近くにいるのが当たり前のようになっていたせいか、その匂いが今はむしろ懐かしく、安心感を与えてくれた。


誠司がいないのがなんだか不自然で、少しだけ違和感を感じながら歩き続けた。

その時、遠くから車のライトが見え、紗英は顔を上げると、シルバーグレーのランボルギーニがこちらに向かってきているのが見えた。


あれは瑛士の車だ。紗英の心は跳ね上がり、足取りが軽くなり、急いでその車に向かって歩き出した。


「瑛士……」


紗英が助手席のドアを勢いよく開け、嬉しそうに瑛士の名前を呼ぼうとしたその瞬間、急に止まった。


運転席に座っていたのは、瑛士ではなく、別の男性だった。

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