「西……西園寺さんでしょうか?」
「はい、私です」
紗英は瞬時に笑顔を消し去り、冷徹な声で答えた。まるで心の中の温度を一気に下げたかのようだった。
「如月様……から……あ、あなたをお迎えに来るよう言われました」
運転席には、30歳くらいの男性が座っていた。顔立ちは整っているが、どこかぎこちない様子で、言葉をつまらせながら話している。どうやら舌を巻くのが苦手なようだ。
「彼は今どこにいる?」
紗英の問いに、彼の目が一瞬揺れた。
「如月様は……病院にいらっしゃいます」
その言葉に、紗英の顔色が急変した。心の中で何かが引っかかった。
病院……瑛士、まだ糸瀬と一緒にいるの?
紗英の目が鋭くなり、心臓が一瞬だけ高鳴り、冷たい汗が背筋を伝った。
「家ではなく、直接病院に行こう」
紗英はその言葉を、無駄な感情を込めずに放った。副運転席のドアを力強く閉め、後部座席のドアを開けて中に乗り込む。
「でも、西園寺さん、如月様から帰宅するように言われてます」
運転手は困惑の色を隠せずに言ったが、紗英は一度も目を合わせることなく、言葉を続けた。
「もし聞かれたら、『具合が悪いから病院で点滴治療を受けに行く』って言って。」
「分かりました……」
紗英はそのまま下を向き、少しふらつきながらも冷静さを保っていた。
その瞬間、運転手が後部座席をじっと見つめていることに気づかなかった。
目を合わせることなく、彼の顔には不気味な冷笑が浮かんでいる。しかし、紗英はその視線に全く気づかず、ただ前を向いたまま、車の揺れに身を任せていた。
ーーーーーーーーーー
黒いランボルギーニがエンジンをかけ、ゆっくりと車の流れに溶け込んでいった。
その後ろ、駐車スペースにはさらに控えめながらも高級な黒い車が停まっている。車の前に立っているのは、背が高く、威圧的な雰囲気を持つ若い男性だった。
彼は車に寄りかかり、指先でタバコをつまんで煙をくゆらせている。その顔は煙の中でぼんやりと見え、挑戦的で悪戯っぽい表情が浮かんでいる。
「さっきの女の子、誠司のとこのお嬢ちゃんじゃないか?」
彼は目を細めて、ランボルギーニが去っていく様子をじっと見つめ、煙草の灰を軽く弾いた。
「間違いなく西園寺紗英です」
隣にいた部下らしき男性が、彼の言葉に頷く。
「あの車を追え」
少しの沈黙が流れ、男はタバコの煙を深く吸い込みながら、冷たく指示を出す。
「え?」
部下は一瞬、目を見開いた。
「それはちょっと……西園寺さんは確かに綺麗だですけど、今は誠司さんの雇い主じゃないですか。誠司さんの性格、あなたも知っていると思いますが、西園寺に小細工な真似をする人間は、誰も無事にいられません。どこの誘拐犯も西園寺さんには手を出せません」
男は無言で部下をじっと睨みつけた。
「もう少し待った方がいいのでは……だって、西園寺さんが如月瑛士と結婚すれば、誠司さんも西園寺家を離れます。そうすれば、手を出しても兄弟関係を壊さずに済むでしょう」
部下は冷や汗をかきながら、必死に言い訳を続ける。
「まだ行かないのか?」
男の表情は変わらないまま、彼はタバコを再び吸い込み、冷徹な声で告げた。
「さすがに人妻に手を出すのは……誠司さんの雇い主に手を出すよりはマシです」
部下は泣きそうな顔で言った。
「お前、誠司のところのお嬢ちゃんに何かあったら、自分で言えよ。お前がゴチャゴチャして時間を無駄にしたせいだ、ってな」
男はタバコの火を消し、手を上げて部下の顔を軽く叩いた。
「え……どういう意味ですか?」
「その運転手は、怪しい」
男はその場で一度立ち止まり、冷静に視線を部下に向けた。
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車が走り出してから10分ほど経った頃、突然、車が大きく揺れた。
「これは、本当に病院に向かう道なの?」
紗英は目を閉じて少し休んでいたが、揺れに反応してすぐに目を開け、額に手を当てた。無意識に車窓の外を見つめた。
「はい、そうです。西園寺さん」
運転手は後ろをちらりと確認し、しばらくしてから答えた。
「カーナビを開けて」
紗英は冷ややかに自分の要求を述べ、眉をひそめた。
「道は知っているので、そんなものは必要ありません」
その返答には、専属の運転手としては少し不適切な態度を感じさせる。紗英は内心、ふっと思い出した。車に乗るとき、ドアを開けたのは二度とも彼女自身だった。お金持ちの家の運転手は、技術だけでなく、マナーもしっかりと守るべきだ。
彼女は黙って手をバッグに伸ばし、スマートフォンを取り出した。画面を解除して、すぐに誠司に電話をかけた。だが、電話がつながりかけたその時――車は急にブレーキをかけた。
「うっ!」
紗英は体が前に押し出され、シートベルトがなんとか彼女を支えてくれたが、スマートフォンが手から滑り落ち、地面に転がった。
15歳のとき、彼女は一度誘拐されたことがあった。それ以来、父親が特別にボディガードをつけ、誠司がそばにいる限り、誰も彼女に危害を加えることはなかった。だが、この瞬間、紗英は確実に焦りを感じていた。
顔を上げる前に、冷たい刃先が首筋に触れた。
「もし誘拐するつもりなら、命を取らずにお金だけ奪ってくれませんか?」
紗英は手をゆっくりと握りしめ、冷静さを取り戻そうとし、無理に顔を上げた。
車は市街地から離れた、静かな場所に停まっていた。辺りには人通りも車の往来もなく、まるで忘れられたような場所。運転手はすでに回転し、ナイフを彼女の首の動脈に押し当てていた。
男の顔はまだ完全にひどくはないが、その表情には明らかな異常が浮かんでいた。
「お前が西園寺紗英なか?!」
息が荒く、感情の制御が効かないようだった。この質問、すでに確認したはず……
「はい」
紗英は無駄な言葉を避け、冷静に答えた。
「如月瑛士はお前の婚約者だろう?」
その言葉に紗英は一瞬驚き、しかしすぐに唇を引き結び、無表情で「はい」と答えた。
「なんで自分の男を見張っておかないんだ!!!」
男の顔色が急に変わり、激しく怒鳴った。紗英はその予想外の声に、思わず数秒間、頭が真っ白になる。
その時、地面に転がっていたスマホが震え、静けさを破った。
紗英は無意識に頭を下げ、画面に表示された誠司の名前を見た。ナイフは依然として首に押し当てられており、当然スマホを拾うことはできなかった。
「この電話、誰からかけてきた?!」
男は荒々しく尋ねた。紗英はしばらく黙っていたが、答えようとしたけど、できなかった。
「お前、外で男を飼ってるんじゃないのか?」
彼の目は鋭く、まるで獲物を狙う獣のように冷徹で、迫力満点だった。怒りと嫌悪がにじみ出たその顔は、彼が放つ言葉一つ一つに重みを持たせていた。
「お前が他に男を作ったせいで、如月瑛士も浮気して、俺の妻に手を出したんだろう?!!!」
その言葉に、紗英の心の中で冷や汗が流れるのを感じた。しかし、それと同時に一つの確信が頭をよぎった。
この男は、噂に聞く糸瀬愛乃の夫――あの暴力を振るう男だ。
「電話をかけてきたのは私のボディガードです。私は他に男を飼っていませんし、瑛士も浮気なんてしていません。もちろん、奥様に手を出したりなんてしていません。少し誤解されているのではないですか?」
紗英は深呼吸し、冷静さを保ちながら答えた。
彼女は、瑛士とその女性の関係には今は触れたくなかった。何よりも、目の前の男を刺激するわけにはいかない。もしここで状況を悪化させれば、痛い目を見るのは自分だけだ。
「誤解だと? 俺は妻を連れ出すこともできず、病室に保護をつけて、俺に会わせないようにしてる。そして、午後からずっと病院で一緒に過ごしている。それでも、誤解だと?」
午後からずっと一緒にいる……
瑛士は自分を迎えに来ると言ったのに……結局、彼女は糸瀬の夫に拉致されている。