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第9話

紗英の手は小刻みに震えていた。心臓が壊れそうなほど激しく鼓動し、頭の中は真っ白だった。それでも、表面上は冷静を装おうとしていた。だが、それも無理はない。彼女はまだ二十歳そこそこの若い女性に過ぎなかった。


「もしこれが理由なら、お願いだから、私を解放して。婚約者には、もう二度とあなたの奥さんに関わらないようにするから!」


紗英は震える声で必死に訴えた。言葉を紡ぐたびに息苦しさが増し、唇が乾いていく。


「あなたもわかっているはず。私だけが、如月瑛士をあなたの奥さんの近くに行かないようにできる」


その場しのぎの言葉だと分かっていても、それしか紗英には言えなかった。

だが、男は彼女の言葉を無視し、不気味な笑みを浮かべた。


「お前、処女か?」


紗英はその一言に凍りついた。目を大きく見開き、唇をかみしめる。震えるまつげが、彼女の動揺を物語っていた。


「俺の妻が俺と結婚した時、すでに処女じゃなかった。それどころか、如月と関係があったことも知っている。あの男が俺の妻と……!」


男の目に宿る怒りは、かつてないほど鋭かった。


「如月が俺の女を寝取ったなら、俺も奴の女を同じ目に遭わせてやる……それが筋ってもんだろ?」


その瞬間、紗英の心に恐怖が走った。言葉を失った彼女の目の前で、男の手が無情にも彼女の服に伸びる。


「やめて!何をする……!」


紗英は必死に叫んだ。男の手は止まらず、彼女の服を引き裂いた。


「如月が俺の妻を奪ったように、俺も奴の許嫁を奪う!」


男の顔が紗英の顔に迫り、唇が無理やり押しつけられた。


「やめて!離して!!!」


汚い男と暗い記憶が絡みつき、恐怖と絶望が彼女を支配し、だんだん意識を失った。


「あ……」


ーーーーーーーーーー


警察署


薄暗い照明の下、無力感を漂わせた一群の警察官たちが互いに顔を見合わせていた。その視線は、椅子に縮こまり、頭を抱え震える若い女性へと向けられていた。


15分前——


紗英は通報を受けて現場に駆けつけた警察官2人に連れられ、未遂犯と共に警察署へ到着した。


6分前——


「助けてくれた通りすがりの人がいた」との報告に一瞬安心した署長も、彼女に声をかけようと手を伸ばしたその瞬間、紗英が激しい拒絶反応を示し、全身を震わせて警官たちを睨みつけた。誰も彼女に近づくことができなかった。


男も女も関係なく、紗英は全ての接触を拒否した。

女性警察官が水を差し出しても、紗英はそれを拒絶し、コップを床に叩きつけた。


その感情的に不安定な様子は、明らかだった。確かに衣服が引き裂かれ、肩や腕が露出していたものの、重要な部分は守られており、実際に被害を受けたわけではない。


それにも関わらず、紗英の反応は実際の被害者よりもはるかに激しいものだった。


瑛士が知らせを受けて駆けつけてきた。でも、彼は一人ではなく、厚手のコートを羽織った愛乃が後ろから控えめな足取りでついてきていた。


警察署の扉をくぐり、椅子に縮こまる紗英の姿を目にした瞬間、瑛士は思わず息を呑んだ。


彼の記憶の中で紗英は、いつも華やかで自信に満ち溢れ、気丈で高慢な態度さえ愛らしく見える女性だった。しかし、今目の前にいるのは——顔は青白く、細い体が震え、血色のない唇で何かをつぶやいている紗英だった。


胸が締めつけられる思いで瑛士は急ぎ足で彼女の元へと向かい、肩に手を置こうとしたその瞬間……


「近寄るな!」


「触るな!」


冷たく鋭い声が飛び出した。その声には恐怖と拒絶が混じり合っていた。


紗英が瑛士に向けて「触るな」と言ったのは、これが初めてだった。


かつて、彼女が瑛士に初めて絡んだとき、冷たく「触るな」と言ったのは瑛士の方だった。しかし、今度は逆だ。この違いが、瑛士の胸に重く響いた。


「如月さん、西園寺さん、どうやらかなり刺激を受けたみたいです。誰にも近づくなって言ってるようです……」


当番の警官が小さい声でそう告げた。


その言葉を聞いても、瑛士は紗英をじっと見つめたまま動けずにいた。彼氏が来れば少しは変わると思ったが、結局なにも変わらなかった。


遠くで立っていた若い美しい男性が、無関心そうにその様子を見ていた。


「本当に何もされていないのか?」


部下に目を向けながら尋ねた。


「はい、現場に駆けつけた時には、犯人がまだ衣服を引き裂き始めたばかりでした。大事には至っておりません」


部下は慎重に答えた。


「しかし、彼女があの事を直面した時のその表情……命を投げ出すような覚悟を感じるものがありました」


部下の言葉に、男はしばらく黙り込んだ。その目は鋭く細められ、何かを考え込んでいるようだった。

その時重い足音が聞こえ、警察署の扉はある男に静かに開かれた。


ーーーーーーーーーー


誠司は深い色の服を纏い、警察署の薄暗い照明の下でもその存在感は際立っていた。高身長で、俊麗な顔立ちには冷たい雫が滴り落ちるような陰鬱さが漂い、その全身から発する冷徹なオーラは、見る者を圧倒するほどだった。


彼は紗英を取り囲むように立っている警官たちを一瞥することすらせず、まるで怯えた猫のように椅子の上で縮こまる彼女に目を向けた。


誠司は無言で歩き出し、瑛士の肩が軽くぶつかった。その動きは決して乱暴ではないが、確実に瑛士を後ろへ押しやった。


そして、彼は瑛士と同じ動作を繰り返した――彼はゆっくりと紗英の肩に手を伸ばした。


「触るな!」


紗英は視線を動かさず、同じ言葉を繰り返した。

瑛士は目の前に立つ誠司をじっと見つめた。整った顔立ち、その鋭い瞳には感情が一切読み取れない。


身に纏うオーラはただのボディーガードとしての範疇を超えており、まるで周囲を意に介さない威圧感が漂っていた。一見沈黙で謙虚に見えるが、実際には紗英を除けば誰にも本当に敬意を払わないタイプだった。


瑛士自身は紗英を愛してはいなかった。だが、彼女の心に他の男が「特別な存在」として入り込むことを、無意識のうちに拒絶していた。


しかし、次の瞬間――


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