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第10話


「お嬢様」


誠司の手が紗英の肩に軽く触れ、そのコートを整えた。もちろん、それは彼自身の服だ。


紗英が冷たい声で三度も「触らないで」と繰り返しても、誠司はまるで耳に入らないかのように、淡々と手を動かし続けた。


だが、紗英は彼の接近に対して、激しく拒絶することはなかった。むしろ、彼女は無反応だった。


言葉を発することなく、体を動かすこともなく、ただ黙って誠司の手が彼女の乱れた風衣を整え、額の前髪を耳にかけるのを受け入れていた。


少し前、女性警察官が彼女に触れようとしたとき、紗英の表情が一瞬で崩れそうになったことを思い出す。だが、目の前に立つ冷徹で高身長の誠司は、ゆっくりとしゃがんで彼女の膝に手を置いた。


「お帰りはどうしますか?」


その問いには、あまり意味があるようには思えなかった。

紗英は依然として無言だったが、彼女の震えはほんの少しだけ収まった。


「西園寺家の別荘に戻りますか、それともあなたのアパートですか?」


誠司は紗英の蒼白い顔をじっと見つめ、続けて淡々と問う。しかし、紗英は依然として答えることなく。


誠司はそれ以上の質問をせず、無言で彼女の腰を抱きかかえ、椅子から抱き上げた。それを見た瑛士は顔を険しくし、すぐに手を伸ばして止めようとしたが、紗英は眉をひそめた。


「如月さん、お嬢様を迎えに来ると言ったはず。なぜこんな不審者が来た?」


その瞬間、誠司は冷徹な視線を瑛士に向け、冷たい声で言った。


誠司は紗英を抱えるように、まるで小さな猫を抱きかかえるように軽々と運び始めた。彼は心配そうに見守る愛乃に目を向け、薄く微笑んだ。


「如月家の奥様がこの事実を知ったら、糸瀬家にはどんな怒りが向けられることになるか、分かってるはず」


その言葉に、瑛士の顔色がわずかに変わった。この男は明らかに脅している。


「九条、君は紗英のボディガードであり、彼女の身の安全を守ることが仕事だ。僕と彼女の関係に干渉する権利はない」


瑛士は冷静に誠司を見つめ、低い声で告げた。

誠司はその言葉に対して、冷ややかな笑みを浮かべた。


「ならなぜ、君の元カノの夫が君の車でお嬢様を迎えに来て、しかも彼女を侵そうとした?」


「この件については、もちろん調べる」


瑛士は眉をひそめ、顔をしかめながら言った。


「調べる必要があるか?」


誠司の目の奥に浮かぶ冷たい嘲笑に、瑛士は次第に腹立たしさを感じた。


「如月さんがいくら気にかけても無駄なので、あまり考えすぎて、誤解を招くようなことがないといいけど」


誠司は嘲笑いながら、淡々と続けた。


「この件は瑛士と関係ないの。私の夫が……」


愛乃は急いで前に歩み出し、言い訳をしようとしたが、誠司は冷たい目で彼女を見て。愛乃はなぜかその視線から恐怖を感じた。


「許婚の安全も守れない男が、元カノのことを気にかけてどうする?」


誠司の視線が一瞬愛乃を横切り、最後に軽く言い放った。

その言葉とともに、誠司は紗英を抱えて誰の目も気にせずに外へと歩き出した。


周りにいる局長や警官たちは、顔を曇らせた瑛士を見つめながら、無言でお互いに視線を交わした。どんなに傲慢な金持ちを見たことがあっても、こんな冷たくて傲慢なボディガードは初めてだった。


西園寺紗英の許婚は一体誰なの?


ーーーーーーーーーー


警察署の外、誠司は何も言わず、黙ったまま副座席に紗英を抱き上げて乗せた。ドアを静かに閉めたその瞬間、振り返ると、ほぼ誠司と同じ高さの美しい男が煙を一筋吐き出しながら、ニヤリと笑っていた。


「お前さ、ボディガードとしての仕事も長くはないだろうけど、こんなに多くの人が見ている前で、他人の許婚を抱えて行くなんて、ちょっとやりすぎじゃないか?」


冷たい風が、二人の間を吹き抜けた。


「そうか?」


誠司は気にせず、淡々と答えた。


「その子、気に入ったのか?」


男は軽く煙草の煙を吹き飛ばし、少し唇を引き上げた。


「俺が好きな女が、他人の許婚になるなんて、あり得ないだろ」


「でも、お前の場合、好でもない女も許婚になれるんだろ」


男はにやりと笑った。


「他に用事でもあるのか?」


誠司はその問いには答えず、冷たく問い返した。


「せっかく俺がお嬢様を助けたのに、ありがとうの一言も言わねのか?」


男は煙草の灰を軽くはじきながら、少し不機嫌そうに言った。


「先に俺からの借りを返せ」


誠司はその言葉に対して、ただ冷笑を浮かべた。目もくれず、男の横をすり抜けて、白いフェラーリの運転席に乗り込んだ。


ドアが閉まり、車内に漂うのは、誠司の冷徹で清廉な雰囲気だけだった。彼は紗英に自分のコートをかけ、深い色合いの薄手のセーター一枚で、まるで貴族のような冷徹な佇まいを見せた。


静かな動きで、長くて骨のしっかりした指で、紗英の座席の安全ベルトを慎重にかける。


「今夜のこと、申し訳ございません」


誠司は紗英が黙っているのを見守りながら、静かに口を開いた。彼の声には、普段見せることのないわずかな優しさを感じた。


「アパートに戻る、西園寺家には行かない」


紗英は目を閉じたまま、静かに答えた。


「その男をどうしますか?」


しばらくの沈黙の後、誠司は淡々と続けた。


「あなたの好きにして」


紗英は、誠司のコートをきつく握りしめ、疲れたように椅子の背もたれに頭を預け、静かに目を閉じて呟いた。


「分かりました」


ーーーーーーーーーー


白い車は警察署を離れ、速やかに街を駆け抜けていった。街灯が並ぶ道の両側、車の流れを照らす明かりが、夜の街に静かなリズムを刻んでいる。


「星野局長」


誠司は運転しながら、イヤホンを耳に入れ、電話をかけた。


「はい。西園寺さんの体調はどうでしょうか?」


局長は誠司の声をすぐに認識し、丁寧な口調で答えた。


「明日の朝、その不審者を拘置所から出しておけ」


「え?」

「西園寺さんのご意向ですか?」


誠司の言葉に、局長は少し驚いた様子で声を上げた。


「俺の言う通りにしておけば、後で面倒にならない」


「しかし……如月さんの意向は……あの男を拘置所に残し、他の囚人に罰を与えさせることです」


「それでも使えるところがある、出しておけ」


「それは……」


局長は少し困惑したように息をつき、ためらいながらも答える。

瑛士がすでに手を回しているが、誠司側は紗英と、そして紗英の背後にいる議員がいらっしゃる。


「星野局長も、この件が議員に知られたくないでしょう?」


誠司の声が冷ややかな笑みを帯びる。


「分かりました、明朝、すぐに出しておきます」


電話を切ると、誠司は再び指を動かし、別の番号に電話をかけた。


「ちょっと頼みがある」


彼はハンドルを握り、冷たい視線で前に向けながら、無表情で話した。


「うん?」


電話の向こうからは、セクシーでゆったりとした声が返ってきた。


「死なせず、治れない傷を負わせろ。今日のゴミを処理しだ、明日の朝には釈放される」


「釈放された後、何をするんだ?」


電話の向こうの声が、わずかに興味を示した。


「どうしてあの男が如月瑛士の車を運転していたのか、どうして紗英の居場所を知っていたのか、まだ疑問がある」

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