「分かったよ」
電話の向こうから軽く笑い声が漏れた。
誠司は短く「うん」と返し、スマホを無造作に前に置いた。
車は高級アパートの前に止まった。
「着いた?」
助手席に座っていた紗英が、ようやく目を開けて小さな声で尋ねる。誠司は無言で車を降り、助手席のドアを開けた。動きが鈍い彼女を見て、誠司は黙ったまま身を屈め、何も言わずに彼女のシートベルトを外した。
「誠司」
いつもの甘い声色とは違い、紗英の声には冷たさと掠れが混じっていた。
「どうしましたか?」
「体がだるくて、力が入らない」
誠司はそのまま何も言わず、彼女を車から抱き上げた。片膝をドアに当てるようにして器用にドアを閉めると、紗英の額が自然に彼の肩に預けられる形になった。
風に吹かれ、彼女の長い髪が海藻のようにふわりと揺れる。
「誠司」
彼女はもう一度誠司の名前を呼んだ。
「はい」
「今日のこと、きれいに処理して。あの件がメディアに出るのは絶対に嫌だ」
「お任せください」
誠司は紗英を抱えたまま、エントランスを通り抜け、エレベーターへ向かった。
夜風はひんやりと心地よく、辺りの静けさはまるで時を忘れさせるように心に染み渡る。
彼の体から漂う清冽な香りに包まれながら、紗英は改めて、自分がどれほど弱くなっているのかを思い知らされる。
「今日は、どこに行ってたの?」
低く、風に消え入りそうな声で紗英が問いかける。
「婚約者のために、少し面倒ことを片付けていました」
誠司は一瞬の間を置き、淡々と答える。
「あなたの婚約者、本当に大切にされてるのね……」
紗英はかすかに呟く。エレベーターの扉が静かに開いた。
「お嬢様、あなたはもっといい人に愛されます」
ーーーーーーーーーー
紗英がアパートの扉を開けると、足元に触れた床の感触に軽く息をつき、誠司の肩に掛かっていた風衣を外すと、無言で彼に渡した。
「シャワー、浴びてくる」
その一言を残して、振り返ることなくバスルームへと向かう。誠司は彼女の背中が見えなくなるまで黙って見つめ、風衣をソファに置いた後、部屋を出た。
シャワーの温かな水が、紗英の疲れた体を優しく包み込む。蒸気に覆われた鏡の向こうには、いつもの魅力的な笑顔を忘れた、冷たく無表情な彼女の顔が映る。
体のだるさと疲れが全身に重くのしかかり、シャワーを長く浴びる気力もなく、すぐに止めた。タオルで髪と体をさっと拭うが、服を取ろうと見回しても何も持ち込んでいなかったことに気づく。
無言でタオルを体に巻き、バスルームを出ると、裸足でカーペットの上を歩きながら髪を拭く。だが、その静かな公寓内の空気は、どこか不気味に重く感じられた。
今日の出来事が心にのしかかっているせいか、この静けさがどうしようもなく不快だ。
「誠司?」
紗英は思わず唇を噛み、扉の外に向かって名前を呼んでみる。
「誠司……?」
何度も名前を呼んだが、返ってくるのは自分の声の反響だけ。ほんの一瞬の静寂に、彼が帰ったのかもしれないと思う自分がいて、ふっと不安が胸をよぎった。
(帰ったの?)
彼が無言で出て行ったことに、少し苛立ちを覚えた。ふと、何も言わずにそばにいてほしいと感じる自分がいた。言葉を交わす必要もなく、ただ同じ空間にいればそれだけでよかった。
髪を拭く気力も失い、紗英はタオルをベッドに投げると、クローゼットからランジェリーと部屋着を取り出した。
半開きの扉に一瞥を向けたが、もう閉めるのはやめた。ここにいるのは自分一人、閉めても開けても意味がない。
バスタオルを脱ぎ捨て、カーペットの上に落とす。その瞬間、ベッドの端に置いた部屋着に手を伸ばそうとした時、微かな音が扉の方から聞こえた。
一瞬で動きが止まる。反射的に振り返ると、そこに立っていたのは誠司だった。
その端正な顔と鋭い瞳、まるで引き寄せられるように彼の視線がこちらに向けられているのを認識するまで、紗英は数秒間呆然と立ち尽くしていた。
互いに視線が交わり、数秒間。
お互いの呼吸が重なり、時間が少しだけ止まったかのようだった。
その後、紗英は急に我に返り、まるで火がついたように慌てふためき、両手で胸元を隠しながら叫ぶ。
「な、何してるのよ!出てったんじゃなかったの?」
蒸気が冷えた室内で、顔が一瞬で真っ赤に染まり、血が噴き出すような感覚を覚える。
誠司は、まだ動揺が残る瞳で、微かに開いた唇から低い声を漏らした。
「僕は……薬を買いに行ってただけです」
その声は掠れていて、まるで彼の心の中に渦巻く混乱が、そのまま音になったかのようだった。
「なんで見てるのよ!出て行きなさい!」
紗英は再び数秒呆然としたが、すぐに力を込めて叫んだ。
「バン!」
扉が勢いよく閉じられる音が、静かな室内に響いた。紗英はその場に立ち尽くし、あまりに予想外な状況に呆然とした。
(全部見られた!)
ーーーーーーーーーー
扉の外
誠司は立ち尽くしていた。うつむき、肩を上下させながら荒い息を整えようと必死になっている。右手は扉の取っ手を強く握りしめ、その関節が白く浮き上がっていた。
目を閉じると、脳裏に先ほどの光景が鮮明に蘇る。
白く透き通るような肌、細くしなやかな脚、あの胸のライン――。
誠司の喉仏が上下に動き、全身に熱が走るのを感じる。胸が苦しくなるほど、抑えきれない衝動が湧き上がる。拳を握りしめ、そのまま全力で自分の心を抑え込もうとする。
「クソ……」
ーーーーーーーーーー
その後しばらくたち、白いロングスカートにグレーのニットを身にまとった紗英が、静かにドアを開けた。
普段の彼女らしい華やかな服装とは一線を画す、その素朴な装いがどこか不安げな印象を与える。湿った黒髪は肩に落ち、まるでその儚さが彼女の内面を映し出すかのようだ。
扉が開かれると、紗英の目の前にはリビングの大きな窓際に立つ誠司の姿があった。窓の外には闇が広がり、冷たい夜風が彼の背中を包み込むように滲んでいる。
誠司はただ、何かを考え込んでいるのか、それとも外の景色をぼんやりと眺めているのか、その表情は一切読み取れない。
紗英は唇を噛みしめながら、思わず何かを口にしようとした。しかし、その瞬間、誠司がふいに振り返り、彼女の存在に気づいた。
視線が交わした瞬間、心の中で準備していた言葉が一切消え去った。無言で彼の深く、静かな目が、紗英の顔をじっと捉える。まるで時間が止まったかのように、その視線は紗英を貫いていた。
やがて、誠司の目がふっと床へと移る。視線が、無意識に彼女の足元に向かっていった。
そこには、地面に触れて微かに丸まった彼女の足の指、そしてカーペットの上に直接置かれた裸足が見えた。