「どうして靴を履いていない?」
紗英は思わず視線をそらす。その問いに、少しばつが悪そうに、彼女は無意識に足元を見つめた。
自宅のカーペットの感触に甘えて、家ではほとんど靴を履かない。それが今は少し肌寒いのに、そのままの格好だと気づいたのは誠司の声を聞いてからだ。
誠司の視線が、無言で彼女を捉えている。普段と変わらず、感情を読み取れない冷静な目つき。だが、それでも紗英はその視線にどこか落ち着かず、手のやり場に困ってしまう。
まるで自分の内面が暴かれてしまうような気がして、視線を合わせることができない。
「な、なんで……まだ帰ってないの?」
口調が少し上ずり、紗英は思わず言葉を絞り出した。すぐに後悔したように唇を噛む。
「先ほどのことは、すまなかった。」
誠司は、まるで予想していたかのように、すぐに答えた。
彼の声には、冷静さが戻っている。先ほどの出来事からすっかり心を落ち着けたようだが、その静かな謝罪がかえって紗英の胸を締めつけた。彼が改めて謝ってくることで、彼女の中の「恥ずかしさ」が一気に再燃してしまう。
紗英は顔を赤らめながら、思わず口を開いた。
「あなた、どうして私の部屋に入るときにノックしなかったの?」
ついさっきまでの沈黙が重くのしかかり、言葉が勢いよくこぼれ出た。彼女の顔が真っ赤に染まり、慌てたように誠司を見た。
誠司はその真っ赤な顔を静かに見つめ、わずかな沈黙の後に、少しだけ間を置いて答えた。
「ノックするつもりだった」
紗英の心の中で何かが引っかかったような気がした。彼がまるで言い訳をしているかのように聞こえて、少し腹が立った。
「ノックするつもりだったって……」
誠司は彼女の反応に少しだけ視線を逸らしたが、その冷静さは崩れなかった。彼の真面目さと礼儀正しさは、常に変わらない。とはいえ、今日のように彼が扉を開ける瞬間を見てしまうと、その冷静さすら少しだけ遠慮がちに感じられる。
「さっきのことは単なる事故だから、私も忘れるし、あなたもきれいさっぱり忘れなさい!」
紗英は顔を赤く染めたまま、必死に早口でまくしたてた。誠司の冷静な表情が横目に見え、彼女は慌てて視線を逸らす。その冷ややかな表情が、心の中に微かな焦りを感じさせるのだ。
「分かりました」
数秒の沈黙の後、誠司は静かに一言応えた。
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「もういいから、先に帰って。私はこれで寝る」
紗英の言葉が、どこか無理に軽く響いた。彼女は頬に残る熱さを感じ、目を合わせることが怖くて、思わず口を尖らせた。
誠司は一瞬黙った後、静かに言った。
「お嬢様、風邪薬を飲んでください」
その一言が、紗英の胸に少しだけ冷たい波をもたらした。彼女はすぐに眉をひそめ、不機嫌そうに答えた。
「あなたが帰ったら、ちゃんと自分で飲むわよ」
彼女の声はどこか強がりのようで、少し早口だった。それでも誠司の静かな視線が彼女を捉えて離さない。あの無表情の目に、紗英はまた気圧されてしまう。
「それはしないってことですね」
誠司がすぐに返すと、紗英は言葉に詰まった。彼の言葉には、深い理解と確信が込められていた。彼は、紗英が自発的に薬を飲まないことをよく知っているのだ。
紗英は反論しようとしたが、言葉が続かない。心の中では、自分の頑なな意地を何とか押し通したいと思っていた。だが、誠司の冷静な口調は、ますます彼女を黙らせていく。
「昼間、病院で点滴を受けたからもう必要ないわ。風邪薬を飲みすぎるのも体によくないし、数日経てば自然に治るものよ」
自分に言い聞かせるように言い訳を並べる紗英。だが、誠司は全く動じない。無駄な言葉を返すこともなく、冷静に続ける。
「明日試験があります。風邪がひどくなれば、精神的にも負担がかかります。薬を飲んでしっかり休む方がいいと思います」
「試験なんて体調が悪ければ後で受け直せばいいのよ。そんなの、何度もやってるんだから知ってる」
紗英は肩をすくめて、あえて不機嫌な顔を見せた。それでも、誠司は冷徹に現実を突きつけてくる。
「この半年間、結婚式の準備のために授業を欠席していることは教授も承知しています。しかし、これ以上の欠席は事情を問わず不可。出席せずに試験も受けなければ、単位を落とし、再履修となる可能性が高いです。」
その一言に、紗英は黙り込む。心の中で自分の生活を改めて反省しつつも、誠司の言葉の重さを感じ取った。今までの欠席が許されてきたのは、彼女の背景があったからこそ。しかし、今やその背景に頼れない現実が目の前に広がっている。
誠司は静かに彼女の反応を待つように、無表情で見つめている。紗英は小さく舌打ちして、茶卓に置かれた風邪薬を手に取り、コップに水を注ぎ、一気に薬を流し込んだ。
「飲んだわよ。」
短く言うと、紗英はコップを乱暴にテーブルに置き、素っ気ない態度を示す。
「髪も乾かしてください」
誠司の冷静な声が再び響いた。その言葉に、紗英は一瞬ため息をつきながらも答えなかった。
誠司はほんの少し顎を上げて、紗英にドライヤーを差し出す。何も言わず、そのまま紗英を見つめている。
紗英はドライヤーを受け取ろうともしない。彼女の顔には不満が色濃く浮かんでいたが、やがて言葉を投げかける。
「そこまで言うなら、あなたが乾かしてよ」
数秒の沈黙が流れた後、誠司は黙って動き出し、慣れた手つきでドライヤーを操作し始める。温かな風が紗英の髪を撫でるたび、彼女は少しずつその心地よさに包まれていった。もはや抗う気力も湧かず、ただただその静かな時間に身を任せる。
ドライヤーの音が部屋に静かに響き、紗英はその優しい風に心を解き放たれ、薬の効果で眠気に包まれていく。
髪が乾くと、誠司はドライヤーを止め、紗英の規則正しい寝息だけが部屋に響き渡った。
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誠司は静かにソファに横たわる紗英を見下ろし、ふっと息をついた。その寝顔はどこか無防備で、普段の冷徹な彼の表情では想像できないほど柔らかだった。
思わず視線を落とすと、白いスカートの裾から見える彼女の小さな足に目が止まる。
その足は小さく、白く、眠りについている紗英のつま先がほんのり丸まっているのが見える。彼の心臓が、無意識に少しだけ速く打つのを感じながら、思わずその足に手を伸ばしてしまう。
冷たい足が、誠司の温かな手のひらに収まる。その冷たさが、まるで彼の心の中まで伝わるようで、彼は一瞬息を呑んだ。
「ん……」
その微かな声に、誠司はハッとして手を引っ込める。紗英の顔が黒髪に隠れて、ほんの少し眉を寄せている。その寝顔があまりにも無防備で、誠司はしばらくその姿を見つめていた。
数秒の静寂が流れた後、誠司はそっと紗英を抱き上げる。横抱きにして、その小さな体をしっかりと支える。紗英は浅い眠りに落ちているが、完全に目を覚ますことはない。
「……誠司?」
紗英がぼんやりとした声で彼を呼んだ。その声はまだ夢の中から届くようで、どこか甘い。
「ベッドに連れて行きます」
誠司が淡々と言うと、紗英はさらにぼんやりと呟く。
「あなた、私の全部を見たでしょ……」
その言葉に、誠司はわずかに足を止めたが、無言のまま歩みを続ける。
紗英の声が、また小さく続いた。
「ひどい……私を全部見たのは、あなただけ……」
「……」
ーーーーーーーーーー
翌朝、紗英はカーテンの隙間から差し込む眩しい朝陽に目を覚ました。まだ眠気が残る頭で、軽くうめき声を漏らしながら、布団を蹴飛ばして大きく伸びをする。
数秒間、ゆっくりと体を動かしていた彼女は、ふと何かに気づいた。驚くようにパッと目を見開き、慌てて自分の姿を確認する。
セーターと長いスカート。これで寝てたの?
昨夜の記憶が一気に蘇る。そうだ、誠司が自分を抱きかかえてベッドに運んでくれたこと。あれからずっと寝ていたのだろうか…?でも、どうしてこんな格好で寝ているのか。
慌てた彼女はすぐさま布団を跳ねのけ、床に足をつけると、急いで部屋を飛び出した。
ドアを開けた瞬間、リビングの窓辺に立つ誠司の姿が目に飛び込んできた。
朝陽を背にした彼のシルエットが、まるで光に包まれて神々しく見える。金色の光がその体を優雅に縁取っていて、清らかで隠しようのない俊美さが紗英の心を一瞬でとらえた。
思わず立ち止まり、彼をじっと見つめてしまう。普段の冷徹な彼とは違い、その姿がどこか遠くから来た人物のように感じられる。
物音に気づいた誠司が、電話を終えると、ゆったりとした動きで体を半分だけこちらに向ける。
「どうやら起きたようで」
低く静かな声が、紗英に優しく届いた。その声の温もりに、彼女は少しだけ心が落ち着く。
「あなた、朝早く来たの?それとも……昨日からずっとここにいたの?」