「昨夜、お嬢様が『一人だと眠れない』と言って、僕を引き止めたのでは?」
誠司は静かに紗英を一瞥しながら、淡々とそう告げた。
「あり得ない!」
紗英は目を見開き、即座に否定する。まるでその言葉自体があり得ないというような、憤然とした態度だ。
「僕を抱きしめて離さず、一人だと怖いから残ってほしいと頼まれました」
「何言ってるのよ! 私が一人で寝られなかった日なんて、ないわよ! そのはずがない!」
彼女は激しく首を振り、眉間にしわを寄せて言い返す。
「本当に?」
誠司の声は相変わらず落ち着いていて、彼の深い海のような瞳が紗英をじっと見つめた。
「……朝は豆乳が飲みたい。ついでに、下のコンビニでサンドイッチでも買ってきて」
彼女はその視線に耐えきれず、唐突に話題を変えた。言葉を投げつけるように吐き捨てると、踵を返して寝室へと向かう。
寝室のドアを閉める際、わざと大きな音を立てた。
部屋に戻った紗英はドアの前に立ち尽くし、唇にかすかな冷笑を浮かべる。
(少し長く一緒にいただけで、私のことを全部わかったつもり?)
彼女の心にはどこか苛立ちと、ほんの少しの戸惑いが混じっていた。誠司の言葉の一つ一つが、彼女の中に小さな波紋を広げていくのを感じながら、紗英はそっと息をついた。
ーーーーーーーーーー
1時間後
紗英は着替えとメイクを済ませ、リビングに現れた。
テーブルの上には豆乳とサンドイッチが用意されていた。湯気が立ち上る飲み物の香りが、朝の静けさに温かみを添える。
彼女は椅子に腰を下ろし、無言のままチョコレートパンに手を伸ばした。一口かじりながら、誠司の前に置かれた湯気立つコーヒーをちらりと見やる。
誠司は静かにコーヒーをすすりながら、何事もなかったかのように自分の世界に浸っている。
紗英は、なんとなく意地になって、手元のサンドイッチをコーヒーに少し浸してみた。
その瞬間、誠司の顔にごくわずかな変化が現れた。小さな変化だったが、紗英にはそれがはっきりとわかった。
その変化は小さなものだったが、紗英にははっきりとわかった。眉間の皺が不満を表している。
まるで彼女が入れたサンドイッチが、コーヒーを「汚染」したかのような表情だった。
(なによ、この男!)
紗英は唇を噛み、こみ上げる不機嫌を何とか押さえつける。
「時間がないので、早く食べ終わらないとテストに遅れます」
誠司がスプーンを置き、淡々とそう言い放った。その冷静な口調が、さらに紗英の神経を逆撫でする。
「どこで買ったのこのサンドイッチ!まずすぎる、もう食べない!」
その言葉に、紗英が爆発した。
誠司の微妙な態度に耐えきれず、彼女は椅子を引いて立ち上がり、大きな音を立てた。
誰が見ても西園寺お嬢様はご立腹だとわかる。
紗英はカバンを持って無表情のままリビングに戻り、誠司に目もくれず玄関に向かった。
ドアを開け、一歩踏み出そうとしたその瞬間、目の前に立つ人影に足を止めた。
ーーーーーーーーーー
紗英の視線が止まった先にいたのは、瑛士だった。
端整な顔立ちに穏やかな雰囲気を纏う彼の姿を見つめながら、紗英の手はカバンの取っ手を強く握りしめた。
瑛士の視線は真っ直ぐに彼女を捉え、その落ち着いた服装や清潔感の髪型、そして普段の彼女には見られない控えめな態度に気づいていた。
ただ、そこにいつもの紗英が瑛士に向ける愛らしい笑みは見当たらなかった。
「昨夜、彼と一緒にいたのか?」
瑛士は紗英の背後に立つ誠司に目を移しながら問いかけた。その声にはわずかに詰問の色が混じた。
「たぶん、そうね」
紗英は肩をすくめ、軽い口調で答えた。
「たぶんとはどういう意味だ?」
瑛士はさらに眉を寄せ、声を低くして問い詰めるた
「寝る前も彼がいて、起きたときも彼がいた。それだけ」
紗英は冷静な声で淡々と言った。その言葉に瑛士は一瞬息を呑み、再び彼女の後ろに立つ誠司に向いた。
「紗英、彼はお前のボディーガードだが、そんなに無防備でいるのは良くないと思う」
「それで?何か問題でも?」
紗英は軽く肩をすくめ、無関心を装う。しかし、その瞳の奥には昨夜の気まずい出来事がよぎり、一瞬だけ表情が不自然に硬くなる。
瑛士は彼女の態度に、理由のわからない不快感を抱きつつも、昨夜の出来事と誠司の態度を思い出して感情を抑え込んだ。
「紗英、彼は男だ」
その一言に、紗英はしばらくの沈黙を挟んで首を傾け、笑みを浮かべた。
「私が媚薬を飲んだときも、彼と一緒にいさせたのに、今さら彼が男だってことを気にするの?」
(気にしているわけじゃない、ただ……)
瑛士は心の中で否定したが、心の奥底では昨夜の出来事がどうしても引っかかっていた。
短い沈黙の後、彼は低い声で尋ねる。
「学校に行くのか?」
「うん、テストがあるから」
紗英が短く答えると、瑛士はその背後で静かに佇む誠司に目を向け、深い視線を送ったまま囁くように言った。
「送っていく」
紗英は彼をじっと見つめ、しばらくして微笑んだ。
「あなたが会いに来たのは、昨夜のことを説明するためだと思ってた」
「昨夜のことは……申し訳なかった」
「私が欲しいのは謝罪ではない」
彼女の瞳から笑みが消え、普段の愛らしい印象が完全に影を潜め、そこには見る者を凍りつかせるような冷たい光が宿っていた。
「瑛士、私の性格を知ってるでしょ?私は必ず仕返しをするタイプなの。私に恥をかかせた人は、ほとんどいい目を遭わせない」
紗英が浮かべる軽い笑み。その様子は、昨夜の震え怯えていた彼女を完全に忘れさせるほどの迫力を持っていた。
瑛士は昨夜の疲労がさらに体にのしかかるのを感じながら、やや低い声で説明を始めた。
「昨夜、本当は僕が迎えに行くつもりだった。でも、病院を出る前にパパラッチが現れてな。それで、運転手に代わりに行ってもらった」
「警察からも連絡があった。運転手が愛乃の夫に地下駐車場で襲われて、意識を失ったと。それで、あいつが運転手になりすましてお前を迎えに行ったんだ」
「でも、どうして彼は、あなたが運転手を私のところに送ったことや住所を知ってたの?」
紗英は微笑みを浮かべながら問いかけた。
「運転手は彼に脅されて、住所を教えたらしい。ナイフを突きつけられてたそうだ。おそらく、彼は運転手のことを前から知っていて、病院の外で見つけて後をつけたんだろう」
瑛士は苦々しげに眉をひそめて答えた。紗英は視線を落とし、短く息を吐いた。
一瞬の静寂が訪れる。瑛士はその空気を切り裂くように再び口を開いた。
「紗英、学校まで送ろう」
しばらくして、紗英はその声に顔を上げ、簡潔に応じた。
「行きましょう」
彼女はそれだけ言うと、先に歩き出す。背後では、同じ背丈の二人の男が視線を交わし、瑛士は紗英を追うように後をついていった。
アパートの駐車場に停められた黒いランボルギーニ。
紗英はその車を見て、歩みを止めた。そして、目を閉じ、体が少し震えた。
「瑛士」
「どうした?」
「私の車で行きましょう。授業が終わったら自分で運転して帰れるから」
「鍵を渡して」
瑛士は彼女をじっと見つめ、しばらく考えた後、静かに言った。
車に乗り、車内ではエンジン音だけが低く響き、紗英は助手席で静かに座っていた。
普段なら明るくおしゃべりする彼女の沈黙に、瑛士は違和感を覚え、横目で彼女を見ながら低く尋ねた。
「テストは何時終わる?迎えに行く」